ぬるぬるぬる

「男の名前が蚰蜒葉矢戸。で、女の名前が……」

『――百足葉羽むかでようです』

 ヘッドセットの先で、一葉が守にたいして答える。

『……僕は女の姿を直接見ているわけではないので、確証はありませんけど。蚰蜒と二人組でいる女となると、十中八九、百足のはずです』

「なるほど。その百足さんとやらで、何か注意しておくことはある?」

『……身体能力、でしょうか。彼女は家本家お抱えの忍者の中でも、身体能力の優れた忍だったと記憶しています』

「蚰蜒って男よりも?」

『はい。蚰蜒よりも、です』

「まじすか。あれよりも上……。よくもまあ、僕はそれを罠にかけられたもんだ」

『まあ……いくら身体能力が優れてるとはいっても、所詮は人間ですからね』

「なら、僕らにも勝機はあるということだね」

『……あまり調子に乗っていると、痛い目を見ますよ? あくまでも、向こうの方が身体能力は上ですので。罠が失敗してしまえば、守宮さんなんて瞬殺でしょうね』

「よ、用心しておきます……」

 瞬殺という言葉に、身を引き締める守。

 すると、守のいる場所の真下から人が近づいてくる気配が。

 足音はまったくしないものの、木造建築特有の床が軋む音が微かにだけ聞こえてきた。

「――っと、どうやら来たみたい。黙るね、一葉君」

 と小声で言って、床板の隙間から下を覗く。

 守が待ち伏せているのは階段の上、二階の廊下だった。

 ここならば、床板をずらすことで、一階の廊下を確認することができる。

 蚰蜒と百足は足音を消しているため、二人の姿が目視できる場所ではないと安心できない。そうはいっても、二人の前に顔を出すのは危険すぎる。なので、二人の手の届かない位置で目視ができるこの場所は、待ち伏せに最適だと守は考えた。

 守が覗いていると、床板の隙間から歩いてくる二人の姿が見える。

 ――思ったより、早いかも。

 二人の到着は、守の予想よりもだいぶ早い。

 お風呂場からは早々に逃げたので、二人は守がどこへ行ったのかわかっていないはずだ。とすれば、道中にある部屋をしらみつぶしに調べていそうなものだったが、どうにも二人は風呂場からまっすぐにここまで来たようだ。

 別に、そのことで大きな問題はない。ただ、道中の部屋に仕掛けていた罠が無駄になったことは残念だった。自動で作動するそれらの罠だけで、忍二人にダメージを与えられるとは思っていなかったが、塵も積もれば山となる。おそらく、二人の体力や集中力を削ることはできたはずだ。それを無視されたとなると、大きな問題ではないものの、小さな問題ではある。

 だから守は、どうしてまっすぐ自分のところに二人がやってきたのかを疑問に思ったのだが、その答えは気づけば考えるまでもないことだった。

「しまった……」

 二人の前を、あるいは百足の後ろの床を見て、守は理解する。

 そこだけ、濡れて床の色が僅かに変わっていたのだ。

 守の居場所がばれたのは、間抜けにも、風呂場でかぶってしまった水が原因だった。

 さながらヘンゼルとグレーテルで石やパンくずを目印としたように、守は服から滴らせた水を目印として残してきてしまったのだ。

 蚰蜒が守の持っていたホースに穴を開けたのはこれが目的だった――ということではないだろうが、守にとってはあまりいい影響ではない。

 なので、とりあえず守は濡れて冷たくなった上着を脱ぐことにした。

 上着は結構分厚かったため、下の服は少し湿った程度すんだ。その下の服はジャージなので、直に乾くだろう。

 とはいえ、冬真っ盛りなため、上着を脱ぐと暖房の無い部屋はそれなりに寒い。

 まあ、それだって全身ずぶ濡れの女忍者――百足よりはマシだろう。

 びしょ濡れの百足を上から眺めながら、守は少し同情する。

 ていうか、なんか濡れて張り付いた服が少し色っぽい。

 上から見ても胸はないが、髪とか、忍装束がぴったり張り付いたお尻とかが色っぽい。

「とっと……見てる場合じゃなかった」

 うっかりじっくり堪能してしまった守は、慌てて立ち上がって階段の近くに移動する。

 後は、この階段に本来仕掛けてあった罠が作動するのを待つだけだった。


「――さて、姐さん。こっからどうするんすか? たぶん、この階段には罠が仕掛けてあると思うんすけど。どんな罠があるかもわからないのに通るんすか?」

「通らなきゃ……進めない」

「まあ、そっすけど……」

 ふむ、と蚰蜒は腕を組む。

「でも、俺は罠にかかるの嫌なんすよね」

「だったら、私が行く」

 一歩前にでる百足。

「おぉ、流石っす姐さん! まさに理想の上司っすよ!」

「………………」

 おだてる蚰蜒を冷ややかな目で見る百足。

 実際に、体の方はかなり冷えていたのだが。そこは、何事もないように装っている。ただ、体が小刻みに震えていて隠しきれてはいないが。

「俺は、何かあったときのために、ここで待機してるっすね!」

 都合のいいことを言って、自分は動こうとしない蚰蜒。

 百足は黙って前を向き、階段に足を伸ばす。

 まずは一段。

「………………」

 少し身構えるが、何も起こらない。

 百足はいつ何がきてもいいように、身構えたまま階段をのぼる。

 階段を、二段、三段とゆっくりのぼって、そして十三段あるうちの九段目に足をかけたところで――

 ガタンッ!!

 と、大きな音を立てて、その階段は――階段ではなくなった。

 百足には、一瞬、何が起こったのかわからなかったが、下で見ていた蚰蜒にははっきりと見えていた。階段の段が引っ込んで、階段がただの坂になってしまうところを。

「――っ!!」

 バランスを崩す百足。だったが、すぐに足場が変化していることを理解する。

 咄嗟に両サイドの壁を確認するが、手を伸ばしてもまるで届きそうにはない。

 なので、重力に引っ張られて後方へ傾きかける体を、百足は無理やり前方に倒す。

 両手を床について、倒れたときの衝撃を殺す。

 これで、階段から転げ落ちることを防ぎ、無傷で罠を耐えた百足だったが、しかし、それは悪手と言わざるをえなかった。なんらかの罠が発動した後、追いうちの罠がくることを想定して階段から離脱するべきだった。もっと言えば、最初の罠で一階まで落ちていたほうがよかったかもしれない。

 最初の罠のときに関しても言えるが、結局、百足は甘く見ていたのである。もちろん、常に警戒はしていたが、しかし、どんな罠が発動しようとも、自分がそれに対応できると思っていた。最初の罠だって、罠自体は回避していたし、足場が濡れているお風呂場でなければ守からの攻撃だって咄嗟に対処できた。

 だから、今回も罠が発動してから躱せばいいと、百足は考えていた。

 鉄球が転がってこようが、上から丸太が降ってこようが、引っ込んだ階段が突然飛び出してこようが、なんとかできる自信があった。

 ――ザバァ

 と、上階から何かの液体をぶちまける音がする。

 来た、と百足は思った。

 熱湯か、あるいはただの水か。

 なんにせよ、何かの液体を流されたと言うのなら、自分の体にぶち当たる瞬間さえ回避してしまえばなんとかなるはずだ。

 百足は身構えて、そして透明な液体が階段を折り返して流れてきた瞬間――上へ飛んだ。それにより、液体の波を回避する百足。そして、その液体が何かの薬品だったときのことも考えて息を止め、着地した際の足場として濡れた上着を脱ぎ捨てた。

 そして、百足は上着の上に着地をする。着地をして――すっ転んだ。

「!? !?」

 どうしてバランスを崩したのか、理解できない百足。それもそのはず、着地には成功していて、例え足場が濡れていたとしても一切、転ぶ要素などなかったはずだったからだ。流れてきたのが水だったら、たしかに転ばなかっただろう。

 ――ベチャ!!

 水にしては粘度の高そうな音をたてて、体の前半分を液体に突っ込ませる百足。

 その瞬間、流れてきた液体がなんなのかを理解した。

 流されてきた液体は――ローションだった。

 ぬるぬるでべとべとの、いわゆる、潤滑剤として使われるアレだった。

 バラエティ番組でも使われることの多い、足元にあると歩くこともままならなくなる、粘着質なあの液体だった。

 ――ザバァ

 上階から先ほどと同じ音がして、なんとか起き上がろうとしていた百足に、追い打ちとばかりに大量のローションが激突した。

「――ぶっ」

 ――ズルズルズル

 液体が流れた勢いで、百足は仰向けにひっくり返った状態で階段からゆっくりと滑り落ちる。ローションの溜まった階下まで落ちようやく止まる。

「あ、姐さん……?」

 ローションの届かない位置に避難していた蚰蜒が、控えめに声をかける。

 百足の恰好は、それはもう悲惨だった。悲惨でかつ、いやらしかった。

 上半身は上着を脱いでいたので、網目の荒い軽量化された鎖帷子の下に肌着だけ。下半身はずり落ちた際に脱げたのかズボンは膝元まで降りていて、下に着ていたスリットの入った丈の短い腰布だけとなっていた。

 そして、その恰好で全身はローションまみれなのだ。いやらしいと言わざるをえない。胸元は寂しかったけれど、ヌルヌルになった太ももや腋、濡れて透けた肌着のしたに見える肌色はとくに扇情的だ。超、マニアックだった。

蚰蜒がそんな百足の姿に見とれていると、むくり、上半身を起こす。

「………………」

 起き上がって、顔に着いたローションを拭い、無表情でゆらりと立ち上がる。

 ――べちょん

 立ち上がろうとしてまた転ぶ。

「あ、姐さん!? 手を貸すっすから、無茶しないでください!!」

 慌てて手を差し出し、引き上げる蚰蜒。

 ようやく、ローション地獄から救出される百足。しかし、衣服からはまだポタポタとローションが滴り落ちていた。

「えっと、俺の上着でよければ、これで拭いてくださいっす……」

「………………」

 無言で受け取る百足。

 べとべとのズボンは邪魔になったのか脱ぎ捨てる。

 腕や足などを重点的に拭いて、蚰蜒にローションがついた上着を返す。

「返されても困るんすけどね……」

 そう言った蚰蜒を無視して、百足は階段を見上げる。

 ローションは粘度が高いようで、すべてが流れておらず、相変わらず階段はぬるぬるのべとべと。これでは二階へ上がるのは難しい。

「……台になって」

 苦笑いをして階段をながめていた蚰蜒にたいして、唐突に命令する百足。

「え? ……ああ、なるほど」

 短い命令だけだったのに、何を要求されているのかを素早く理解して、蚰蜒は階段の前に移動する。そして、階段に背を向けた状態で、体を前にかがめ、馬跳びの台になる。

 それを飛び越えずに、百足は蚰蜒の肩に足をかけ背中の上に乗った。

「じゃあ、いくっすよ?」

「……ん」

「せーのっ」

 と、言い終わった瞬間、勢いよくかがめていた上半身をもとに戻す蚰蜒――と同時に、背中に乗っていた百足が跳んだ。その姿はさながら馬のよう。これがまさに馬跳びかと言いたくなるような、それほどの跳躍力だった。

 大きく跳んだ百足は階段に足をつけることなく、体を宙で捻りながら踊り場の壁に足をつけた。そして壁を蹴って、もう一度、跳躍。百足は水泳で言うところクイックターンを、空中でやってのけたのだ。

 だけど、それでは二階まで届かない。一階から踊り場までとは違い、蚰蜒という発射台はないからだ。跳べて精々、階段の半分くらい。しかし、その半分で百足は階段右側の壁に足をつけた。ここからなら、もう一度跳ぶことで、ぎりぎり二階へとたどり着く。

 百足は、壁に足をつけた状態で顔を上にあげ、二階を見上げる。そこからはちょうど、守の頭だけが見えた。百足が三角跳びを駆使してここまで上がってきたからだろう、守は驚いた顔をしていた。百足は、そんな守をロックオンして、二度目の三角跳びをする。

 跳躍。百足の目論見通り、ちょうど二階へと届く距離。二階の足場を確認するが、ローションで濡れているのは階段部分だけ。これなら、着地で転ぶこともない。

 百足の目前では、守がそばに置いていた三つの風呂桶から、中にローションが入っているであろう一つを慌てて手に取っていた。それを百足にたいしてぶちまけるつもりなのだろうが――もう遅い。このまま二階の足場に着地をしてしまえば、百足は守の攻撃をかいくぐって、彼を取り押さえるだろう。

 ――まあそれは、二階の足場に着地できれば、の話だったが。

 百足が着地の体勢に入ったとき、守は階段前の床を――蹴っ飛ばした。

 この場合の蹴るは、地面を蹴る、の意ではない。文字通り、守は階段前の床板を蹴っ飛ばしたのだ。床板は百足の下を通過して、ローションまみれの階段を滑っていく。

 つまりどういうことなのかというと、百足が着地する予定だった床が――無くなった。

「――なっ!?」

 百足は空中で体をばたつかせるが、他の足場には届かない。

 為すすべもなく、そのまま開いた穴に落ちていった。

 二階からの落下。常人であれば怪我をしてもおかしくはなかったが、しかし、そこは忍の百足。足を最初に地につけ膝を曲げ、そこから後転して落下の衝撃を殺す。

 まるで猫のように四つんばいになって、二階からの落下を無傷で済ます百足。

 ――だったが、次の瞬間、上からびちゃびちゃびちゃとローションが振ってきた。

「………………」

 再度、全身ローションまみれになる百足。

 最後に、空になった風呂桶が落ちてきて、百足の頭に直撃。

 ――ゴン、べちゃり

 百足はそのまま、顔面から地面に倒れこんだのだった。

「あ、姐さぁぁあぁん!?」

 階段の前で突っ立っていた蚰蜒が叫んで、倒れた百足に駆け寄ろうとする。

 風呂桶が直撃していたが、頭に外傷はないようだ。ひとまずは安心する蚰蜒。

「まさか、二階の床板を外してくるとは……」

 蚰蜒は追撃を警戒して、一部分だけ無くなった天井を見上げる。

 すると、そこから、ひょこっと守が顔を出した。

「――!?」

 咄嗟に床に伏せる蚰蜒だったが、追撃はなく

「それでは、よいお年をー」

 とだけ、守はにこやかに言って、去って行った。

「………………」

 一応は上方に気を付けながら、匍匐前進で百足に這いよる。

「……大丈夫っすか、姐さん?」

 ローションが飛び散っていない位置から、控えめに問いかける蚰蜒。

 ぬるぬるべとべとの百足は、ぴくりと体を動かして

「――ひっ!?」

 倒れたままの体勢から、一瞬で蚰蜒のもとまで這いずった。

 ローションの滴る顔を、蚰蜒の耳元に近づける。

 そして

「あいつ、絶対に……死なす」

 と、怨念の籠った声で、そう囁いたのだった。

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