この家、百万じゃないけど
「いやぁ、本当にすまなかったね」
と言いつつも、こらえきれずに笑う家本。
守は、家本の持つ懐中電灯の明かりを頼りに、新しい家へと向かって歩いていた。
ちらり、と、家本の恰好を確認する守。顔の前にだらりと垂らしていた髪はかき上げられて、今は首の後ろでまとめている。どうやら、先ほど血に見えたのは、彼女の髪に入っている赤いメッシュだったようだ。
歳は、二十代後半から三十代くらい。女性であるのに、背は守よりも高く智樹と同じくらい。ロングコートを羽織り、その下からはストッキングに覆われた長い脚が覗き、さらにその下には革のブーツが履かれていた。
「か、勘弁してくださいよぉ、家本さん……本当に驚いたんですからね?」
震える声で、そう主張する守。その顔は、羞恥心からか、少し赤い。
「いやいや。まさか、あんな面白――驚く姿を見られるとは。電話をもらって、わざわざ迎えに行った甲斐があったね」
悪びれもせずに、そう言ってからかう家本。
「うぐー……」
迎えに来てもらったことはありがたかったので、何も言えなかった。
「大の大人が本気で叫ぶ姿を見るのは――いつ見ても楽しいねぇ」
まるで、大の大人が叫ぶところを普段からよく見ているかのような言い方をする家本。
「本気で叫ぶなんて、僕は初めてですよ……。あんな声が出ちゃうんですね……」
「つまり、お姉さんが初めての人だってことでいいのかな?」
「ええ、責任とってくださいよ?」
「おっと――そう返してくるか。叫びも含め、君、やっぱり面白いね」
家本は楽しそうに、そう言った。
「心外ですが……よく言われます。大抵は、そこに追加で馬鹿だとも言われます」
「ぶふっ……確かに」
吹き出す家本。
顧客に対する言葉づかいでも態度でもないのだが、しかし、この馴れ馴れしさには、自然と心を許してしまう。
守も、いつの間にか家本と自然に接していた。
「確かにじゃないですよー否定してくださいよー」
「私にはちょっと否定できそうになくてね。あ、そうだ。荷物はちゃんと届いてたよ」
「ああ、それはよかったです」
前の家は、すでに引き払ってしまっているため、荷物が届いていなかったら面倒なことになっていたはず。なので、守はひとまず安堵する。
「といっても、一軒家の暮らしじゃあ、あの荷物だけだと色々足りないかもしれないね」
「まあ、足りないものがあったらその都度、買います。この辺に、いい店ってあります?」
「うーん、徒歩圏内にはちょっとないかもね」
「そうですか……」
後で調べておかないとなぁ、と守は考えるのだった。
そこから歩くこと数分。二人は無事に目的地へとたどり着く。
念願のマイホームを前にした守は
「なに……これ……?」
唖然としながら呟いた。
そう、そのマイホームは、守の想像していたものとは全然違っていたのだ。
自分の目を疑う、守。
それはもう、普通の家とは、とても言えないものだった。
家には明かりもなく、真っ暗。近くにある街灯のおかげで、なんとか見ることができる。
その家は
「なんじゃこりゃああああ!!」
とてつもなく、大きかった。
広々とした庭には月明かりが浮かぶ池。冬なので葉はないけれど、立派な木々。そして、大きな木造の日本家屋。観光名所にでもなりそうなほど、大きく、そして立派な建物と庭を持ったお屋敷だった。
門扉の前に立ち、しばしお屋敷に見惚れる守。
「どうだい? 気に入ってもらえたかい?」
傍らに立つ家本が、にやりと笑ってそう聞いた。
「気にいったなんてもんじゃないですよ!! なんですかコレ!?」
「なんですかもなにも、これが君の住む家だけど?」
「これが、僕の家? うっそだー。見たところ、痛んでるところもなさそうだし管理も行き届いてる。もしや幽霊が出るとか……?」
恐る恐る尋ねる守。
「幽霊はでないよ」
「よかった!」
「いやいや、もしかしたら、妖怪や忍者の類は出るかもよ?」
「それはむしろ楽しそう!?」
河津の冗談に、守は楽しそうに笑う。
つられて、家本も笑う。
和やかな雰囲気の中、守は尋ねた。
「でも、これが普通、百万で買えるわけないですよね!?」
ニッコリと微笑む家本。
彼女は守の肩に、ぽんと手を乗せて
「そりゃあ、百万じゃないからね」
と、言った。
「えっ」
「えっ」
「……あの。家本さん? 今、なんて言いましたか?」
守は恐る恐る尋ねる。
「この家、百万じゃないけど」
にっこりと、満面な笑みで答える家本。
「えっ……い、いや。ちょ、ちょっと待ってください? 僕、百万支払いましたよね? この家が百万で買えないのなら、あのお金はいったい……?」
「あぁ、あれ? 今月分の支払い」
家本はそう言って、コートのポケットから取り出した紙を守に差し出す。
「ひと月の支払い額が、百万円の、三十五年ローン」
受け取った紙を確認する守。
それは、まぎれもなく、ローンの契約書だった。そこには、守のサインもあった。
「なっ……あっ……!?」
「守宮君、契約書にサインをするときは、ちゃんと内容を確認しないといけないよ?」
「え、いや、あの……ちょっと家本さん? これ、どうすればいいんです? 僕、とてもじゃないですけど月百万の支払いなんて……」
守は、震えた声で、そう言った。
顔面は蒼白、冬だというのに滝のような汗を流し、目があちこち泳ぎ回っている。
そんな守を後目に、ふふんと微笑む家本。
「それじゃあ、君は破産するということだね?」
「は、破産!?」
「まあ、うちも鬼じゃあないんでね。無い袖を振らせはしないさ。となれば、ローンの返済に関しては、融資先と要相談なわけだけど……おっと。そういえば、融資をしたのはうちだったかな」
なんて白々しく言う家本。
そんな彼女の言葉も、ほとんど耳に入っていないのか
「ぼ、僕はいったいどうすれば……?」
と、うつろな表情で呟く守。
もうすでに、現実を直視できていない。
「なにも臓器を売れなんて言わないさ。身柄を売ることもない。ちょーっと、私の言うことを聞いてくれれば――聞いてくれている間は、その分のローンをチャラにしてあげてもいい」
「……え?」
絶望していた守の顔に、一筋の光が射す。
「つまり、君が私の頼みを聞いてくれるのであれば、三十五年間、君は一銭たりともローンを支払わなくてもいい。逆に、毎月百万円を支払えるようになれば、私の頼みはいつからでも断ってくれても構わない。それで断ったとしても、それまでチャラにしたローンは支払う必要はない。どうだい、悪い提案じゃないだろう?」
悪い提案ではない、と家本は言うが、しかし〝私の頼み〟がなんなのかを話していない時点で、引き受けるには分の悪い提案である。
こんな提案を引き受けるのは〝よっぽどの馬鹿〟しかいない。
が、しかし。
守宮守という男は、その〝よっぽどの馬鹿〟だった。
「――引き受けます!」
まさかの二つ返事で、守は承諾してしまう。
追い詰められていたし、現実感のない話だったので、思考がまともに働かなくなってしまうのは仕方がないことなのかもしれない。だが、一度、自分を騙した相手の提案を二つ返事で承諾するような人間は、そうそういないだろう。
そんな守相手だからこそ、家本表花は、馬鹿馬鹿しい無理のある提案をしたのだが。
「それじゃあ、この家は君のものだ。ほら、これを受け取るがいい」
そう言って、鍵束を取り出し守に手渡す家本。
「……え? この家に、住んでもいいんですか?」
「当然じゃないか。この家はあなたたちの家なんだから」
「は、はあ……」
〝あなたたち〟という言葉に引っかかりながらも、素直に鍵を受け取る守。
「守宮君は明日、仕事休みだよね? じゃあ、また明日、説明しにくるから。今日はとりあえず、おやすみなさい。届いた荷物は奥の部屋にあるから。それじゃあ、また明日」
と、矢継ぎ早に言って、去っていく家本。
街灯の下に、大きな屋敷の前に、ぽつんと取り残される守。
守は、何が何だかわからずに、あっけにとられて立ち尽くす。
やがて大きく風が吹くと
「……寒い」
と、呟き、ひとまずは家の中に入ることにした。
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