Scene20「使者」


 小さな頃から泣き虫で。


 友達はいつも自分を肯定してくれる人ばかりで。


 悪い人なんて、この世にいるとは思えない日々の中で。


 幸せな毎日を過ごしていたのだと彼女はある日ようやく理解した。


 そう、友達だと思っていた同年代の同性が自分の悪口を言っていたのだ。


 偶然に廊下の先から声だけが聞こえてきた。


 その響きには……今まで言葉の上でしか知らなかったものが篭っていて。


 ようやく彼女は、ソフィア・ラーフは、自分が憎まれていたのだと知った。


 友人の言葉はこうだ。


 自分の父親は戦争で奈落獣に殺されたのに、あのお姫様は何も分かっていない、と。


 今まで出会ってきた友人、教師、家人、軍人、一般人、学者、識者、政治家、記者、芸能人、経済人、その全ての人々曰く。


 奈落とは祖父が再興した夢のエネルギーであり、その力によって平和は保たれている。


奈落獣アビス・ビースト】なんて言葉を今まで聞いた事も無かった彼女は……最初、きっとその友人の言葉が何かの間違いだと思った。


 だから、何の躊躇いもなく出て行って、言ってしまったのだ。


 奈落は夢の力できっと貴女の言っている事は何かの間違いだ、と。


 その時の瞳を彼女は忘れられない。


 呆然として聞いていた友人は……猛然と涙を浮かべた顔で、恐ろしい形相になって、叫んだ。


 この奈落に呪われた一族め、と。


 掴み掛かろうとしたものの。


 すぐに異変を察知してやってきた近衛に友人は取り押さえられ、学校の中から何処かへと連れられていき。


 それ以来、一度も登校してくる事は無かった。


 彼女は家の者や教師や近衛達に訊いた。


 あの子はどうなったのだと。


 彼らは一様に口を揃えて同じ事を言った。


 まるで中身が全て同じような、他人なのに同じ人間のような顔で、友人が“心の病”に掛かっていたのだと。


 だから、あの時に言っていた事は全て世迷言で戯言で嘘で本当の事ではないのだと。


 奈落獣。


 それは何かと訊ねなかったのは彼女がもう心は成長していたからだ。


 何もかもを鵜呑みにしてしまえる子供ではなくなっていた。


 それから、彼女は本当の事が知りたくて、大陸の周囲で軍務に就く軍人を慰問する度にこっそりと彼らの端末を借りては【奈落技術(アビス・テクノロジー)】に付いて調べるようになった。


 其処には今まで彼女が習ってきた事とはまったく違う情報が載っていた。


 曰く。


 奈落とは最悪の災厄。


 その汚染によって地球環境は劇的に悪化し、奈落の力で次元を渡ってくる怪物は世界中で人々を恐怖のどん底に陥れ、戦場では人々を恐怖させる象徴となっている。


 嘘だと思った。


 信じられなかった。


 エルジア大陸内ですら、ラーフ帝国の人々ですら、奈落は危険なものだと知っていたのだ。


 あまりの衝撃に今まで自分が習った事は何だったのかと自問自答して。


 未だ他国と戦争が終わっていない祖国が国際的には“世界の敵”として非難されているという記事が彼女の心を抉った。


 ラーフが正義であり、何か悲しい行き違いで戦いが終らないのだと思っていたから、ずっとソフィア・ラーフは公言していたのだ。


 今まで出会ってきた友人に、教師に、家人に、軍人に、一般人に、学者に、識者に、政治家に、記者に、芸能人に、経済人に、その全ての人々に。


 きっと、外国の人々は奈落の素晴らしさや祖国の偉大さ、祖父が人々を救っているという事実をあまり知らないから、争いが無くならないのだと。


 だから、ラーフの事や奈落の事をもっと知ってもらえれば、きっと平和な未来がやってくるに違いないと。


 公の場でも、私的な場でも、全ての人々が口を揃えて同じように言ってくれた。


 微笑みを浮かべて、素晴らしい考えですね皇女殿下、と。


 太鼓判を押してくれた。


 賞賛と拍手だけが彼女の友達だった。


 けれど、それは嘘だったのか。


 本当は違う事を思っていたのか。


 奈落と祖国を信じて疑わなかった彼女の中に疑念が膨らんだのは致し方ない事だろう。


 それから、それから彼女はそれが真実なのかどうかを調べようとした。


 けれども、それを知る術は無かった。


 その段に至って、ようやく幾ら訊いても周囲の人間から同じ答えしか返ってこないのだと何となく想像出来るようになっていたのだ。


 ネットで調べようにも、家の端末は同じ文言が載っている科学的なサイトが出てくるだけだ。


 素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい、賞賛と絶賛と歓喜の涙を浮かべて奈落の恩恵を享受する人々。


 だから、知りたかったのだ。


 だから、逃げ出したのだ。


 いつも自分を守ってくれる近衛達から外国の地で。


 初めてする国外への旅行。


 その最中の逃亡劇。


 まるで映画の中のワンシーン。


 不思議な女の子に導かれ、同年代の男女の下へ身を寄せて、本当の事をようやく知る機会が廻ってきた。


「ソフィア・ラーフ。これより少し揺れますが、どうかお静かに願います」


「は、はい。どうか、したのですか?」


 小型の二人乗りのスクーターに初めて跨った彼女は自分より大きな背中へしがみ付きながら、目の前の同年代の少女は何を言っているのかと訝しがった。


「手を腹部に回して、しっかりとしがみ付いて下さい。移動中に振り落とされた場合、死ぬ可能性も否定出来ません」


「え!?」


 買った服を配送手続きで送った後に何処からか移動用の足を用意してきたアイラは大通りを緩々と流しながら、ヘルメット越しにソフィアへ伝えた。


「し、死ぬって、ど、どういう事なのでしょうか!?」


「近衛が追ってきています。このまま、逃げたいのであれば、大人しく従っていただければ幸いです。もし、命が惜しいと感じるならば、今すぐに降りる事を勧めますが」


「―――逃げて、下さい」


「いいのですか?」


「……はい。わたくしは知らなければならないんです。それが分かるまでは……決して帰れません」


「では、目を瞑って……如何なる事があろうとも、手を離さぬように」


「わ、分かりました!!」


 ギュッとしがみ付き、瞳を閉じたお姫様の様子をチラリ後ろに確認して。


 アイラは唐突にアクセルを吹かした。


 ギュルッッッ。


 車体の後部車輪が煙を上げ、刹那の後。


 法定速度無視でスクーターが猛烈な加速を見せた。


 ブォオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!


 一瞬の静寂。


 同時に彼女達を今まで静かに追っていた私服の武装近衛達がピクリと反応するも、すぐに何処かへ連絡を入れて、まるで何事も無かったかのようにその大通りから捌けていく。


 追いたいのは山々だったが、此処はイヅモ。


 その上、自分達は非合法活動中。


 周囲にある監視カメラに顔を映さないよう巧みなルートを使っているとはいえ。


 妖しい動きを察知されて警察や他の諜報組織に勘付かれては全てが白日の下に晒されかねない。


 そういうわけで彼らは冷静に満遍なく分散待機させていた追跡班を使い、自分達もまたゆっくりと車両に乗り換えて追跡を開始する。


 銃を向ける事も出来ない相手。


 狙撃手の手配も完了していたが、皇女の前で血を見せるのは最後の手段だ。


 となれば、穏便に取り押さえられる機会を伺うという消極策が実際彼らに出来る最善の策だった。


 鳳市街地には未だ静かな日常が安穏と流れ続けている……。


 *


―――???


 コポコポと音がする。


 まるで珈琲を抽出しているような、静かな水の揺らぎ。


「どうやら皇女殿下はお転婆に育ったようだな。諸子諸君」


『はい。同志』


 薄暗い世界に老人が一人佇んでいた。


 この数週間、新たな創造に没頭していた彼が言葉を発したのは久方振りの事だったが、それを待っていたかの如く幼い声達が応える。


「さて、帝国のイヅモ攻略が止まったのはいいが、幾分静か過ぎる。此処は賑やかしを多少投入して、皇女殿下にも奈落の素晴らしさをお教えするべきではないだろうか?」


『はい。同志』


 ガヂュガヂュとまるで金属に肉が食われているようなおぞましい音がして、黒いローブに包まれた全身が硬質なものによって鎧われていく。


「此処最近はメタガイスト、ハイパーボレア、レムリア、何処も彼処も膠着が続いている。瑣末な内戦やテロも穏便になりつつある。これでは実験が捗らない」


『はい。同志』


「ふむ。そう言えば、そろそろ自動オートで量産させていた機体が揃う頃だったな。何体仕上がっている?」


『――――体です。同志』


「そうか。ならば、此処は試験がてら数体使ってみるのもいいか。例の機構も七割方完成している。後はソフト面の仕上げだけだ。モードAで単純作業をさせるなら、十分だろう。では、七体に搭載し、ただちに発艦させよ」


『了解しました。同志』


 ブォン。


 今まで薄暗かった世界に妖しげな暗紫色の耀き。


 奈落の力が溢れ出して、小さな泉の中央に立つ老人を映し出した。


 その顔はもう半ばまでアビス・ガーディアンのような硬質な冷たい金属で覆われている。


 そして、周囲に光が灯る。


 彼の向いた画面以外の全方位に積み上がった小さな脳髄の入った透明なポットがまるでオペラを奏でるように謳い始めた。


 泉の底から沸き上がって来た硬質な黒き剣。


 アビスに汚染されたALの耀きが執られ、切っ先が鳳市に向けられる。


「アビスリアクター臨界。アビスシード開放。お前達の銘は何と名付けようか? ウルヴァシーの量産型とはいえ、今はもう別のものであるからして……そうだ。古の時代には神の御使いは国家指導者達の守護を司ったと言う。ならば、お前達は【権御使アルクヘー】……悪霊より皇女殿下を守る者だ!!」


『形状記憶解除。外殻装甲をプラグマ・モードで再形成』


 男の姿が完全に変化した。


 鋼の人型。


 胸部に開いた拳大のアビスゲートを持つモノ。


 その背部から伸び上がった無数のコードが脳髄の詰まったポットの隙間へと接続され、膨大なエネルギーを供給していく。


 同時に彼のいた巨艦。


 蛸壺のような全長1kmにも達するソレの真下に深海の圧力に耐える鋼の耀きが数個投下された。


「では、やろうか。諸子諸君」


『はい。同志』


 キュラキュラと運動を開始した無限軌道キャタピラが海底の堆積物を巻き上げながら、高速で遠ざかっていく。


 やがて、巻き上げられた泥の中に全ては隠されていった。


 *


「あ、ユミナさんだ!」


小虎シャオフゥちゃん?」


「はい」


 格納庫からの帰り道。


 検診を終えたユミナがそろそろ寮に戻ろうとしたところで彼女はバッタリと新人仲間に出くわした。


 丁度、横には休憩所があり、時間も余っている。


 いや、本当は学校の課題(この間貰ったものが未だに残っている)があるし、少し疲れていたので早めに自室で休もうと思っていたのだが、少しだけ年下な同僚は出会う度にさん付けで礼儀正しくて、ついでに自分を先輩扱いしてくれるので少しは格好良いところを見せなくてはと思ってしまうのだ。


「もう、さんはいいって言ってるのに」


 苦笑するユミナにそういうわけには行かないと長幼の序列を重んじる古めかしい少女が笑顔で近付いてくる。


「今日は機体の調整ですか?」


「うん。今さっき終ったところなんだ。あ、其処で少しお茶していかない?」


「あ、ありがとうございます」


 快く少女が承諾するのを見て、素直な良い子だなぁ~~と感心しつつ、ユミナは自販機で甘めのココアをチョイスして、既に座って待っている子犬のような瞳の少女の前へ缶を置いた。


「小虎ちゃんは訓練?」


「はい。今日はロドニー教官と璃琉さんと鉄先輩が教えて下さって。集団戦の基礎を学びました。僕はその……基本的に一人で戦う方法ばかり学んでいたので、最低限の役割分担が出来るようにって……」


「そっか。璃琉ちゃんや鉄君と……どう? 上手くやれそう?」


「ちょっと難しいですけど、連携の形は出来てきたってロドニー教官に褒められました」


「そうなんだ? いいな~私なんかロドニーさんに叱られてばっかりだもん。小虎ちゃんは出来が良い生徒なんだ」


「そ、そんな……まだまだ入ったばかりの新米ですから」


 頬を赤らめて、照れる少女に可愛いな~もっとお友達になりたいな~とほんわかしたユミナは唐突に思い付いた言葉を口にしていた。


「じゃあ、今度もし良かったらタッグを組んで訓練しない?」


「え、タッグ?」


「うん。ルナはバリバリの前衛だし、小虎ちゃんの【王竜ワン・ロン】も徒手空拳主体だよね? だから、一緒に連携出来るようになったら、鳳支部の前衛も厚くなるんじゃないかなって」


「ぼ、僕みたいな入ったばかりの新人でいいんですか? ユミナさんなら他の人とも上手く出来るんじゃ……」


「あはは。私だってド新人だもん。それに新人は新人同士仲良くするのは悪い事じゃないよ。ね?」


「ぁ……ありがとうございます」


「ふふ、そういうのは皆の役に立てるようになってから言って欲しいな」


 ウィンク一つ。


 ユミナはこれから一緒に頑張ろうと小虎の手を取った。


 それに感激した様子で僕っ子は目の端に涙すら溜めるので、周囲にいる職員達(主に小虎の出自や事情を知っている事務方)は良かったね~~良かったね~~と内心で感動の嵐に晒された。


 こんな可愛くて素直な子が不幸で良いはずがない。


 まったくもって善良なる子羊二人が少し話し込んだ後、手を振って分かれる間、誰一人として気付かなかった。


 その小さな虎の影が僅かに歪み蠢いている事に。


 ゆっくりとソレは移動していく。


 人から人に影から影に。


 誰にも気付かれず。


 自らを育てながら。


 *


 市街地からスクーターを爆走させて難なく集結していた武装近衛の本隊を撒いたアイラはフォーチュン鳳支部の周囲で事前に練っていた計画通り、自らの姿を眩ませる事に成功していた。


 市街地全域に張り巡らされたラーフの諜報員達の監視の目もさすがにフォーチュン鳳支部の周囲には届かない。


 故に其処で光学観測や音響観測に掛からないよう偽装すれば、相手は手が出せずに周囲を出入りする人間を見張るしかなくなる。


 だが、それにしてもフォーチュンのリンケージや情報網に掛かれば、事態が露見する可能性もある為、人員に対して過剰な監視の目は向けられない。


 こういった配慮や政治的思惑が張り巡らされた監視網を麻痺させ、それに乗じて逃げ遂せる事は歴戦の兵であるアイラにとって然程難しい事では無かった。


 とりあえず。


 事前に七士が用意していたフォーチュン支部の敷地内にある物資搬入用トレーラーの一台に潜り込み。


 ソフィアと共に静かに時間を待っていた彼女は車両にエンジンが掛かるのを確認して、荷台から座席を覗き込んだ。


『状況終了。相手の観察は終った。しばらくはラーフ側もフォーチュンに目を向け続けるはずだ。これより帰還する』


 其処にいるのは学生服姿の七士だった。


 普通、大型車両に載っていれば、すぐにでも妖しいと思われそうなものだが、乗り込んだのはフォーチュンの物資搬入口の内部。


 そして、トレーラーの窓には漏れなく内部の様子を欺瞞する映像投影装置が仕込まれている。


 外から見ても窓を開けない限り、車両を運転しているのは何処にでもいそうな作業着姿の運転手になるという寸法だ。


 苦も無くフォーチュン支部から車体を出した七士は周囲に近衛の監視の目が無いかを確認しながら、予定された通りのルートを通って自宅である貸し倉庫内部まで戻る事に成功した。


 その間、緊張した面持ちで一言も発さなかったソフィアは荷台の暗闇から降りるとホッとした様子になり、ふらりと倒れそうになる。


「大丈夫ですか?」


 アイラが肩を支えるとソフィアが少し息を切らして頷いた。


「え、ええ……少し、疲れてしまって……」


 昨日は14kgの衣装で逃げ回り、本日は猛烈な速度のスクーターに恐怖しながら、腕を使いっぱなし。


 これで疲れない方がどうかしている。


 そもそもお姫様に体力を期待する方が間違っているだろう。


 七士が目配せするとアイラが頷いて貸し倉庫の二階。


 二人の寝室であり、事務所兼食堂である一角へとソフィアを連れ立って向かった。


 すぐにソファーで倒れ込むようにして一息吐き始めた彼女にしばらく休むよう言って、二人が倉庫の一階部分にあるスペースの粗末なパイプ椅子に腰掛ける。


「それで評価は?」


 七士の声にアイラは真っ直ぐな視線を向けた。


「体力はありませんが戦闘現場へ連れて行く事自体に問題は無いかと思われます」


「本気だと?」


「はい。スクーターに乗っている最中、どうしてそこまでして奈落との戦いを見ようとするのか訊ねましたが、真剣な様子でした」


「何か言っていたか?」


「『わたくしの家族がしている事を確かめたいのです……』と」


 七士は暮れ掛けた夕日の差し込む倉庫の中で大きな溜息を吐いた。


「どうかしましたか?」


「……古今東西、家業や生業を潰すのは三代目だって言葉がある」


「三代目?」


「一代目、デルス・ラーフ。二代目、アヴァリス・ラーフ。そして、三代目は自分の生きる世界に疑問を持った。なら、この先に待ってるのは二つに一つ」


「……一体、どういう意味でしょうか?」


「ラーフが滅ぶか。ラーフが変わるか。たぶん、この二択になる……歴史的な必然に習うなら、だが」


「歴史的な必然……」


 まるでピンと来ない様子で小首を傾げたアイラが金色の埃が舞う最中、眩しさに僅か目を細める。


「歴史上の人物が大きな事を決断するのは大抵にして時節の変わり目の前。何かしらの節目に疑問や懸念、問題に直面した事が原因になってる事が多い。時代時代の歴史学者達はいつでも大きな転換点ターニング・ポイントに着目しがちだが、そういう人物にも生活があった。そして、その生活の中で直面する何かが紙の上には出てこない直接的な遠因として存在する事が儘ある」


「つまり、我々の行動が遠因となって、何か大事が起きると?」


「……奈落を見せるべきかどうかはこの際、要因として無視してもいい。だが、この家出をしたという事実は残る。行動を起こした以上、あのお姫様は満足するか諦めるまで自分の道を突き進むだろう。その先に何を為すのかは定かでないとしても、現状彼女の置かれている世界情勢から察するに……選択肢は多くない」


「滅ぶか。変わるか。それが選択肢なのですか? 七士様」


「滅ばないという選択肢が無い以上。大別すれば、そうなる」


「それは奈落の力が使用者すらも滅ぼす諸刃の剣であるから、でしょうか?」


「いや、現在の連邦や各国の情勢が固まりつつあるからだ」


「それはどういう?」


 憂鬱そうに七士が虚空に視線を向けた。


「軍人が軍事力を動かす時、其処には明確な理由が必要だ」


「はい。目標が無ければ、軍事行動は出来ません」


「だが、それは少なくとも政治情勢や経済情勢が傾いた程度では理由として弱い。いや、結局のところは人間が判断する以上、軍を統括する者の心がどうあるかで決まると言ってもいい」


「どう、あるか……」


「そうだ。戦場は人の心で発火する火薬庫だ。感情を満足させる為の理由がそのまま発火点として、様々な情勢の後付を得るという事の方が歴史的には多い。理由があるから、戦争は起る。だが、戦争の大きな括りでの大義は国民や軍人達の心の動きを容認する為に“集められる”か“創られる”割合がとても高い」


「順序が逆であると言いたいのですか?」


「順序は関係ない。戦う為の理由を後押しする環境が醸成されているか否かが問題なんだ。その点で言えば、現状は連邦に戦争をしても良いだけの理由がある。それを見越した一部の連邦内部の機関はいつでも“それらしい理由”を提供出来るよう準備してもいる。共和国にしても、奈落汚染は他人事じゃない」


「確かにコロニーのある宙域でも一部では地球より酷い汚染があると聞きます」


「本格的な戦争を軍人や民間の意思が求め出した時、これを抑えるのは政治家や軍人、国民の良心だ。だが、それを荒ませる奈落は戦争を求める心の閾値ハードルを低くする。ディスティニーの暗躍が無くても、世界中で奈落被害が出続けているだけで奈落の権化は憎まれる運命だ。特に平和になり出した此処数年で連邦の情報戦は目覚しい成果を上げた」


「奈落被害の報道が活発になった事ですか?」


「それ自体は報道の力が増しただけの話かもしれない。だが、それと同時に戦力も整いつつある。しかし、逆にラーフは攻勢限界域が見えていて、戦力の拡充も順調とは言い難い。奈落汚染の二次被害、三次被害がエルジア大陸でも未だ出続けてる。奈落を主エネルギーとして用いる以上は疲弊も避けられない。となれば、連邦との彼我の差は歴然だ。キルレートに大差が無ければ、残るのは物量に押し潰される未来しかない。これを覆すだけの力を奈落に求めるなら、大陸やこの惑星そのものを犠牲にする覚悟が必要だろう。その時、もう高齢のデルス・ラーフや前戦に立つアヴァリス・ラーフが国内を纏め切れる可能性は低い。一枚岩ではないラーフの限界は連邦や共和国の物量の前に滅びるとしても戦うか。妥協して変わるかの二択を突き付ける事になる……」


「彼女が未来を決定する立場になると?」


「世界は人の心が織り成すタペストリーだ。未来に大規模な影響を確実に出す相手を歴史上の人物と言うなら、ソフィア・ラーフは地球の運命にすら手が届く場所にいる。少なからず、国の興亡は左右するだろう」


 常に語らない少年の吐き出される不満とも諦観とも付かない透明で冷たい表情と言葉がアイラの心を僅かに揺さぶる。


「……それで、どうするのでしょうか? 彼女を……」


「真実が常に良薬なわけじゃない。リスクはあるが、しばらくは様子見でいい。例え、自国のお姫様が行方不明でも、ラーフはこの国に表立っては手が出せない」


「では、依頼を?」


「受ける。だが、それまで彼女に勉強して貰おう」


「勉強……?」


「人と触れ合わない限り、実感を得られない事だってある。そういう事だ」


 椅子から立ち上がった少年は横になっているソフィアを確認する為、二階へと上がっていく。


 その背中は何かを決めた様子だった。


 それが分かる程度には……アイラもまた少年を勉強してきた。


 名無し。


 ネームレス。


 あるいはロス。


 自分よりもきっとずっと長い時を生きる誰でも無い少年。


「七士様……」


 未だ何も知らない。


 しかし、何が食べられて、何が食べられないのかは知っている。


 未だ何も分からない。


 けれど、何を好んで、何を好まないのかはもう知識の範疇。


 そう、自分の主。


 今の所有者。


 彼女に日常を教えてくれた人。


「畏まりました」


 そうして、また日常が始まる。


 世界の敵となった国のお姫様を伴って。


―――翌日、鳳市には七体の災厄が上陸し、彼らは戦う事となる。


 妖精ブラウニーの使わす御使いは凡そ人が生み出すとは思えない。


 そんな、醜悪な形をした奈落とALの化身だった。

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