土俵を叩く男

よろしくま・ぺこり

土俵を叩く男

 その日はなんだかワクワクして、夜も眠れなかったし、朝からも落ち着かなかった。今夜、起こるかもしれない、素晴らしいことに心はときめいていたんだ。

 でも、まずは仕事に行かなくちゃならない。憂鬱で、かったるい十時間を過ごすため、顔を洗い、朝食を摂り、歯を磨いて、ヒゲ剃って、トイレに行って家を出る。

 職場は電車を乗り継いで約一時間のところにある。その車中、僕は今夜行われる、天下分け目の決戦のことばかり考えていた。そうすれば苦痛の時間はすぐに経つ。隣のオヤジの加齢臭も女子高生の太ももだって気にする余地なんてなくなるんだ。駅に着く、地獄の懲役場が待っている。

 仕事など生きるための手段でしかない。こんなことに命をかけるなんて、人間の本質に反している。人間は楽しむために生きているんだ。それが人間と動物との違いだ。勤務中、僕の脳細胞はずっと哲学的フレーズを口ずさんでいた。そうでもしなきゃ、この窮屈で退屈な懲役期間に耐えられない。

「他のやつはどうなんだろう」

 ふとそんな疑問が頭をよぎった。僕は頭を振ってその思いを追い払う。自分と他人を比較するのはよせ! 全くの無駄だ。そう思いつつも、つい、他人との比較によって自分の立ち位置を知ろうとするのが、僕の悪い癖だ。子供の頃からテストで順位をつけられ、偏差値で、行く学校まで決められた僕らの世代の人間は、こういう思考回路を多かれ少なかれ持っているはずだ。でもそれじゃあ、だめなんだ。自分の価値は自分一人で決めればいい。人は自分の心にある小宇宙で生きていくしかないんだ。何万光年も離れたアンドロメダ星雲に心を馳せても仕方ない。ああ、天文学者は別だけど……

 そんなことを考えているうちに時は流れた。さあ、決戦の地へ帰ろう。僕はダラダラとサービス残業している同僚たちの冷たい目をかいくぐって会社を出た。その時、背後僕を呼ぶ声がした。亜子だった。

「たまには飲みに行かない? 最近デートもしていないし」

 亜子は上目遣いに僕を誘った。

「ごめん、今日は大事な用があるんだ」

 僕は背中を向けて、この場を立ち去ろうとした。

「ちょっと待ってよ」

 亜子は僕の手を掴み取った。不覚! 高校時代、インターハイ柔道で優勝したことのある亜子の握力に僕は勝てなかった。

「大事な彼女の誘いを断るほどの大事な用って何よ」

「そ、それは」

 冷や汗が脇を濡らす。

「それは?」

 亜子の顔が阿修羅になる。

「す、相撲なんだ」

「す・も・う?」

 亜子の脳内コンピュータはこの言語を理解できなかった。

「そう、相撲」

「私と?」

「それは住もう。リビング。いずれはそうするとして、今日は相撲」

「ああ、日本のトラディショナルスポーツの相撲ね」

 ああ、言い忘れていたけど、亜子はブラジル生まれの山形育ちだ。

「そう、日本の国技、相撲です」

「相撲がどうしたの?」

「あのね、今日千秋楽なんだけど、僕の大好きな、大関総大将が、横綱の鳥海山と世紀の対戦をするんだ。総大将が勝てば、来場所は新横綱なんだ。こればっかりは見逃せない。だから今日は好きにさせてよ。あとで、おわびはいくらでもするから」

 僕は必死に懇願した。

「もう、男って変なことに真剣になるのね。しょうがないな、今日は見逃してあげる。その代わり、今度きっちりおごってよね」

 亜子はウィンクしてきた。この代償は高くつくな。何せ柔道女王だ。今月の給料が半分は飛んで行く。

 亜子とのじゃれあいのせいで、時間をかなりロスした。僕は慌てて電車に飛び乗った。

 部屋には八時前に着いた。とりあえず、食事をしてトイレに入る。そして、風呂で身を清める。体を丁寧にタオルで拭き取る。ここで、手を抜いてはいけない。体に一滴の水分も残してはいけない。丁寧に、念入りに乾かす。特に、指先はね。

 午後九時になった。ようやく相撲だ。僕はテレビをつけずに、机に向かう。

 机の上には神聖なる国技館が鎮座していた。それはベニヤ板とプラ板、そして、ボール紙でできていた。中学生の時に作った代物だ。その横には千代紙で拵えた支度部屋が東西に置かれている。僕は拍子木を叩くと両手に一人ずつ力士を取り出す。そう紙力士だ。そして彼らに軽く四股を踏ませる。扱いは丁寧に。亜子の何倍も丁寧に。

 天下分け目の戦いは簡単には始まらない。何せ、結びの一番だから。取り組みは幕下から粛々と取り組まれていった。

 十両の優勝が決まり、幕内の土俵入りが始まった頃から、場内はなんとも言えない興奮が満ちてくる。その中、初優勝と綱取りをかける大関総大将の緊張した面持ちが見える。幕内の土俵入りが終わると東の花道から一人横綱鳥海山が露払赤兎馬、太刀持桃響を引き連れ重厚に登場する。引き締まった身体、精悍な眼差し。長きにわたり角界に君臨したつわものだ。綺麗な雲龍型の土俵入りを見せる。

 幕内の取り組みは、まるでこれから始まる大一番を盛り立てるように熱戦が続く。土俵を叩く、俺の指に神が宿ったかのようだ。心が弾む。

 そして、ついにその時がやってきた。

「ひがーし、ちょうかいさん、ちょうかいさーん。にーしー、そうだいしょう、そうだーいしょうー」

 呼び出し一平の美声に続き、立行司井村安ノ助が両力士を土俵にあげる。

「番数も取り進みたるところ、かたや鳥海山、鳥海山。こなた総大将、総大将。この相撲一番にて千秋楽にございまする」

 館内興奮のるつぼ。行司兼呼び出し兼実況兼解説兼観客兼土俵叩きの僕は忙しい。両力士はその喧騒の中、静かににらみ合っていた。

 塩が三回まかれ、ついに時間となった。土俵中央、向かい合う両者。

「待ったはありません」

 安ノ助の声。

「ハッケヨイ」

 立ち上がった。ガチーン。紙と紙がぶつかり合う音。

「ノコッタ、ノコッタ」

 両者一歩もひかない。がっぷり四つ。

 土俵を叩く俺の指は激しく揺れる。

「ノコッタ、ノコッタ」

 ああ、総大将の上手が切られた。一気に出る鳥海山。後がない総大将。俵に足が掛かった。がぶる鳥海山。耐える総大将。おっと、総大将が土俵を時計回りに逃げる。上手を取り返した。あっ、鳥海山の下手が抜けた。あーっ!

『どしーん』

「上手投げ!」

 ドット歓声が上がる。座布団が飛ぶ。

 勝ったのは総大将! この瞬間紙相撲界には新しい横綱とヒーローが誕生したのであります。

 実況の僕の声は上ずっている。その時、

「ピンポーン」

 チャイムが鳴った。どうせ、新聞の勧誘だろう。俺は無視した。

「ピンポーン」

 また鳴った。無視。

「ピンポーン、ピンポーン、ピンポーーーーン」

 しつこい! 俺は頭に来て立ち上がった。この野郎、ぶん殴ってやる。僕はドアを開けた。

「ガチャ」

 戸を開く。すると、いたのは亜子だった。

「ちょっと、どういうことよ。よくも騙したわね。相撲なんって、今夜、やってないじゃないの。だいたい、千秋楽って日曜日でしょ。今日は水曜日よ!」

「だ、騙してなんかいな……」

 僕の声がとんでもない方向に飛んでいる。

「女ね、女ね!」

 亜子の怒りは見当違いの方向に行っている。

「ガルル……」

 獣と化した亜子は俺の家に侵入してきた。キッチン、トイレ、バスルーム。獲物の姿を追い求める。そして、俺の部屋に!

「ああ、そこは駄目!」

 亜子にしがみつく俺。

「ガルルルル、ここか」

「このアマ! あれれ」

 亜子は机の上を見て人間性を取り戻した。

「オー、リトルレスラー。プリティ」

 亜子が机に近づく。

「バリッ」

 変な音がする。

「あれ? なんか踏んじゃった」

 亜子とぼける。もしや……俺は青ざめて床を見る。

 そこには全身骨折で、重態に陥った総大将が倒れていた。


 悲劇の横綱総大将はその後、裏貼り、アイロン掛けなどの様々なリハビリにも関わらず体力回復せず引退届を紙相撲協会に提出。年寄り、武者所を襲名し、後進の指導にあたることとなった。その断髪式には大勢のファンが詰めかけ涙を流した。その中には献身的にリハビリを助け、その縁で結婚し親方夫人となった、亜子もいた。

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