研究員の日記 五月三日(プロローグ 9/25)
研究員の日記 五月三日
とんでもないことになった。
こうしてその時の様子を思い出して書いていても、手の震えを抑えることができない。この日記がワープロでなく、日記帳にペンで記していたなら、恐らくまともに読める字を書けるか自信がない。
私は〈転送〉を体験した。そう、今ならあれは間違いなく別の場所への転送だったのだと断言できる。
光に包まれ、一瞬意識を失う感覚。他のメンバーはどう思ったか知らないが、私はとても心地よく感じた。
言われていた通り、チューブの内側に手を触れると、出口が開く。一歩踏み出して裸足の足が遺跡の床を踏む。
全員が揃ったところで、扉を開けて隊長を先頭に、我々は扉の先に伸びた廊下を進んだ。廊下にも壁の所々が光る、間接照明のようなものが点在しており、進むのに支障はなかった。
我々の遺跡とほぼ同じに見えるが、我々のほうには間接照明がなく、廊下ももっと短い。廊下は一度九十度折れ、しばらく進むと扉に当たり行き止まりとなり、全員がその扉の前でしばらく立ち尽くした。
「開けるぞ」
隊長が意を決したようにそう言って我々の顔を見回す。私も含め全員が頷きを返した。
ドアノブを掴んだ隊長が、体重を掛けるように扉を外に向けて押し開く。徐々に広がっていく壁と扉の隙間から、外の空気が流れ込んでくる。流れ込んでくるのは空気ばかりで、明かりは一切見えない。しかし流れてくる空気は明らかに野外のものだ。土の匂いが混じっていた。
我々がチューブに入ったのは午後一時だった。あれから三十分と経ってはいない。日本が昼の時、夜になっている地域なのか?
〈転送〉自体に時間が掛かっていないことは明白だ。我々はチューブの中に入れたものを、遺跡の操作で自由に出し入れできているのだ。そこにタイムラグは一切生じていない。我々は、日本が日照を受ける時間に夜になっている場所へ一瞬で移動したのだと考えるべきだ。
気温は田中が言っていた通り摂氏二十度くらいだろう。その田中も当然チームに加わっている。
外から流れ込んでくる空気はもう少し温度が高いようだ。ここはいったいどこなのか?
隊長が扉を開ききり、我々は一斉に外に出た。足の裏の感覚が冷たい石のようなものから土を踏むそれに変わる。
「夜か……」
隊長の言葉通りだった。
扉の向こうは夜の野外だった。
見上げると一面の星空。月は見あたらないが、星明かりで辺りの様子がおぼろげに窺える。
我々が出て来た扉は岩肌面にある。その周囲は土が露出した地面だが、数十メートルほど行くと林に囲まれる形となる。私たちはあまり互いの距離が離れないようにしながら、辺りを歩き始めた。
私は木に注目した。星明かりだけでは詳しく分からないが、林を構成する木々は杉のような形に見える。だとしたらおかしい。杉は日本の固有種だ。我々がここに来る前にいた場所は日本で、その日本は現在午後二時前後のはずだ。こんな夜空は、日本のどこからも見えるわけはない。
私はそのことを隊長に告げるべきか迷った。私が思いついたことなど、この選抜メンバーなら誰もが考えついているかもしれない。
逡巡していると、メンバーのひとり、
「ここは……地球じゃないのかもしれない」
日本どころか、地球ではない? 我々全員が松岡を向いた。松岡は続ける。
「あの星空を見て下さい。私は外に出てからずっと星座を探したり、星の配置を確認していたんです」
松岡は天文に詳しい。我々が一斉に夜空を見上げると、松岡はさらに、
「この夜空には星座がない。星座だけじゃない、星の配置も、明るさも、こんな星空は、地球のどこからも見えるはずはないんだ!」
私はそう言われて夜空の方々に視線を向けたが、天文に疎い私には、松岡の言っていることが正しいかはわからなかった。
しかし、次に起きた事から、松岡の言葉が正しかったことが証明される。
「ここが地球ではない」という言葉が。
「何かいるぞ」
隊長が静かに、しかし鋭い声でそう告げ、私は耳を澄ました。
確かに、林の中から、草や木々を分け入る音が聞こえる。その音は段々と大きくなってくる。やがて何者かが林から飛び出て、星明かりがその姿を照らした。
「……何だあれは?」
思わず発した私の言葉に答えられるものは誰もいなかった。
その姿を形容するのは難しい。強いて言うなら、「二足歩行をした爬虫類」とでも言うしかない。爬虫類というのも、我々が知る生物の中から検索し、もっとも近いと思われるものがそれだというだけのことだ。私はあんなに体から角ともトゲともつかない突起が何本も突き出ている爬虫類を知らない。
だが、〈それ〉をもっとも的確に表現する言葉はある。〈怪物〉だ。
〈怪物〉は、ゆっくりと我々に向かって歩いてくる。
その大きく真っ赤な双眸が光っているのは、星明かりを反射しているからではない。 歩みを止めた怪物は、またしても形容しようのないというか、文字に表しようのない奇声を発した。
それを合図のように、辺りの林の方々から、木々を分け入る音が聞こえ始めた。暗い林の中に、何十もの赤い光が浮かぶ。皆、目の前の怪物の目と同じように見える。そうだとしたら、この林には、いったい何体同じものがいるというのだ?
地響きのような轟音と、木々をなぎ倒すような音も聞こえてきた。想像したくはないが、林の中を巨大な何かがのし歩いている、こちらに向かってきている音なのではないか?
林の中からは、すでに数体の怪物が姿を現している。どれも個体差はあるが、みな一番最初に見た怪物とそう大差ない外見をしている。大きさも統一されていない。大きなものは身の丈五メートルはある。もっとも小さいものでも、二メートル程度を下回る個体は見受けられない。
数で圧倒的に勝ることに気をよくしたのか。怪物の歩みは徐々に小走りと言ってよいものとなっている。
我々を襲う気だ! 私は咄嗟にそう思った。この期に及んで対話が可能かだの、意思疎通はできないかだの考える余裕は脳から排除された。本能が知らせているのだと感じた。「こいつらは敵だ」と。
それは私だけでない。隊長以下他のメンバーも同じだったようだ。
「撤退だ!」
隊長が鋭く叫ぶと、我々は回れ右をして一目散に出て来た扉まで走った。
全員が走ったのを確認してから自分も駆けだしたのだろう。隊長は一番後ろを走っていた。一番足の速いメンバーが扉に飛びつき、力を込めて引き開ける。そのまま扉を押さえて、他のメンバーに扉の中に飛び込むよう促す。
私は最後から二番目に飛び込んだ。すなわち隊長のすぐ前だ。隊長は扉を押さえたメンバーを引き入れると、一瞬だけ外を確認して、素早く扉を閉めた。
「急げ!」
隊長にそう言われるまでもなく、我々は遺跡の部屋へと戻った。
「落ち着いて。体格の細いもの同士は二人一度に送る」
隊長は即座にメンバーの帰還順を決定して割り振り、自分は操作パネルの前に立った。
耳を澄ましたが、あの怪物が扉を開けて入ってきたような物音は聞こえない。
こんな状況であったが、さすがに選抜された調査メンバーたちだった。パニックを起こすようなものはひとりもいない。皆、隊長の指示通り、順番にチューブに入り、光に包まれていく。私は二番目に他のメンバーと二人一緒にチューブに入った。
光に包まれていく。ここへ来たときに感じた心地よさは、今度は微塵も感じはしなかった。
調査メンバーは全員シャワーを浴び着替えを済ませ、少し休んだ後、会議室での報告会に出席した。
この報告会には、ほぼ、ではなく全所員が顔を見せた。
向こうでの状況を報告する語り手は、ほとんど隊長が請け負った。星の配置が地球から見られるものではないという説明のときだけ、松岡が補足で喋っただけだった。向こうで見た木が杉に酷似していたということも、隊長の口から語られた。
報告を終え隊長が席に座ると、質疑応答もなく、報告会はそのまま終了となった。書記のみが上に提出する報告をまとめるため残っただけで、それ以外は皆会議室を出て行った。
最後に藤崎所長から調査隊のメンバーが集められ、ねぎらいと共に深い礼の言葉をもらった。
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