第12話:「ソフィア主教連合教会国」

 「聖なる天上の父、聖なる御子よ、聖霊の国度はその讃美を受け、今から永遠に子々孫々に続く!」

 「アーメン!」

 「天の御国よ現世に舞いたまえ、ソ連にその御姿を示したもうたごとく!」

 「アーメン!」

 「聖なる天上の父、聖なる御子よ、聖霊なる光をたたえし連合教会よ、地上の塩、天上の光とならんことを!」

 「アーメン!」

 ソ連の首都・モスクワ、救世大教堂。

 百年以上の歴史を有し、世界最大の東正教会の教堂の中で、数百人にものぼる聖職者と市民らが聖餐の礼拝に出席していた。祭壇に立っている主祭が教堂に集まっている民衆との一問一答の儀式を終えると、楽隊が荘厳な楽曲を奏ではじめ、控えていた聖歌隊もまた聖なる言葉を高らかに歌い出すと、儀式に伴う神聖な雰囲気は最高潮に達した。

 壮年に足を踏み入れたころのこの主祭は、聖歌隊の合唱が終わりを迎えると、祭壇の前に用意されていた祝いの餅と酒をとり、民衆に向かって聖餐を供し始めた。彼の綺麗に整った頬と清潔な神父の衣服は見る人に精悍な印象を与えるものだった。民衆はしきたりに従って主祭の前まで進み出ると、主祭は順番に手の中の聖体を聖血に浸し、民衆の口へと入れてやった。

 聖餐の儀は東正教最大の宗教儀式であると同時に、東正教がこれまで堅持して来た伝統であり、今こうして執り行われている儀式が数千年前に確立されて以来、変化することなく受け継がれて来たものだった。

 けれど、時節というのは容易に移り変わってしまうものだ。本来、この聖餐の儀は純粋な宗教活動にすぎなかったが、この時代のソ連においては、より重要な別の意味も含まれるようになっていたのだった。

 主祭は集まった全ての人に聖餐が行きわたったことを確認すると、手に持っていた聖杯を恭しく祭壇へと戻し、祭壇とは別の一端にある演台へとゆっくりと移動し、喉を鳴らしながらこう始めた……

 「お集まりの兄弟姉妹の皆さま、ごきげんよう。政令をお告げする前に、私は皆さまに一つ、良い知らせをお伝えします。明日から、私は救世主大教堂の主任神父の座には二度と……」

 主祭が全て言い終わらない内に、演台の下に集まっていた民衆は騒然となり、揃って信じられないといった表情を浮かべることになった。

 「皆さん冷静に、私はまだ全てをお伝えしていません!」主祭は右腕を掲げ、ゆっくりと演台の上に戻し、聴衆に静かにしてくれるようにと求めた。「私は總主教の命を受け、明日から中国の広東に出向くことになりました。新しいソ連の駐華大使としてお仕えするためです! 従って今日からの短い間、私が兄弟姉妹たちに供することのできる、これが最後の聖餐の儀となった、という次第です」

 「ボロ神父、どうか私たちを置いて行かないでください!」

 「そうです! 私たちはボロ神父を心からお慕い申し上げているのですから!」

 「皆さんそんなことを仰らないでください! 皆さんもご承知の通り、總主教の命令は絶対なのです。みなさん、どうか新しい主任神父のために祈りを捧げてください、私がご紹介差し上げるのは……」

 主祭が後任の神父を民衆に紹介し、その他の事情を伝え終えると、聖餐の儀は正式に幕となった。主祭と後任の神父は先に教堂を離れ、彼らの居住区画へと戻った。

 

 ソ連。

 この正式名称を「ソフィア主教連合教会国」とする新興宗教国家は、建国からわずか十数年しか経過していなかった。彼女の前身であったロシア帝国は強大な国家ではあったけれど、その最期は皇帝による奸臣への依存、加えて様々な天災や騒乱により、当時の東正教の教会の指導者であったソフィア・レーニン主教は信徒らを従え帝政に対する抵抗を試み、二度に渡る革命を経て、最終的に彼女は帝政時代の政治体制の払拭に成功、同時に「連合教会」の名の下に国内のその他の教会を統合し、ロシア国史上初となる、教会が直接国を治める政教一致の国家を成立させていた。

 ヨーロッパとアジアの二大地域に跨ったロシア帝国、広大だが氷雪に覆われた領土、更には多年に渡る暴政によって生み出された大量の貧民といった具合に、ソ連は立国当初から苦しい国政を迫られることとなっていた。ソフィア主教は国家が有していた富、前体制時における貴族、豪商らが蓄えていた富全てを配分することを決め、また農業と工業に投資を行った。このことでソ連は短期間のうちに昔日のロシア帝国に並ぶ力を持つまでに回復、再び世界の列強の座へと返り咲いたのだった。

 またソ連建国から数年と待たない内に、ソフィアは国内の情勢を安定させた後、前体制の支持者による暗殺に遭遇、この世を去ることとなっていた。突然、国家の指導者を失ってしまった連合教会は、すぐさま教会内部において保守派と自由派に分かれ激しい内部闘争を開始、最終的に保守派が勝利を収め、新しい總主教は保守派の中から選任されることとなった。

 この正教一致の国度においては、聖職者らは本来の身分以外にも、各種政府の要職を兼任していた。この他、聖餐の儀は教会が政令を発布する場となり、また地方の教会が民衆に対して政策の内容を伝える主要な手段となっていたのだった。

このため、このような政権構造の下では、首都であるモスクワの教会に近づくにつれ、聖職者らの地位も高まる傾向にあり、モスクワ最大の教堂の主任神父ともなれば、その権力は驚くに値するものだった。

 「正直に申しあげまして、私としてはどうして總主教が今回のような考えを持たれたのか理解に苦しみます」

 宿舎へと戻ったところで、後任の神父は主祭に向かって胸の内を明かしてみせた。

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