第11話:「憲兵が!黄埔軍校の憲兵が!」

 数時間後。

一陣の猛攻撃を経て、恵州市外からはすでに冏軍の姿は見られなくなってしまっていた。林彪独立団の兵士たちは周恩来の指示の下、中山艦に搭載されていた大量の小舟で恵州市の岸辺に上陸、市内へと進軍していった。

 前線から伝わって来る無線の報告によると、市内では全く抵抗を受けることなく、市内の主要な建物を制圧することができた。戦況は既に決したということのようだった。


 「作戦、お疲れさまでした」

周恩来が中山艦の甲板に来て、地平線に沈む夕日を眺めていた時だった。

一人の若い軍官が彼に近づいて来た。

軍官は帽子を被っておらず、さっぱりと揃えられた短髪に鋭い目付きから、相当な切れ者であろうことが伺われた。壮健そうな体格をしていて、海軍の軍服に掛けられた歳不相応な勲章が、彼を一般的な軍人とは別だ、という事実を物語っているようだった。しかし彼には貴族や上流社会の人間特有の奢りのような雰囲気は感じられず、むしろ市井の匂いすら感じさせているのだった。

 彼は手に持っていた小さな酒壺から一口煽ると、それを周恩来に差し向けた。

周恩来は首を振ってそれに答えた。

「すまない。艦長と酒を酌み交わすような心境じゃないんでね」

「一口だけ。私のメンツを立てると思って」

軍官は甲板の欄干の傍で、わざとらしく周恩来の前で酒壺を揺らせてみせた。

 「……同志からの誘いだ。このまま断るのも悪いね」

周恩来は軍官から酒壺を受け取ると、一口だけ煽ってからそれを返した。

「周主任に呑んでいただけたとあれば、この李之龍のメンツも立つというものです」

「君が小組の同志じゃなかったらこんなことには応じないよ」

 「はは。分かっています。そう固くならないでください」

彼は周恩来が返事をしないのを見てとると、笑顔を引っ込めて一緒に夕日を眺めた。

彼らはすでに銃声の音も聞いていなかった。今日の作戦は正式に決着していたということだ。

けれど、周恩来はそれで安心という気分にはなれなかった。李之龍は周恩来の沈んだ雰囲気を打ち破るため、わざと話を切り出した……

「それはそうと、今回の作戦を立案した者は中々の切れ者ですな! まさか海軍の船を陸軍部隊の支援のために使用するなんてことを思い付くなんて」

しかし李之龍のその言葉は、まさに周恩来の悩みの核心を突くものだった。

 「……今回の作戦の骨子を構想したのは、毛沢東なんだ」

「毛沢東? あなたが言っているのは、あの毛沢東同志のことですか?」

「最初は僕も驚かされたよ。本当なら失業中の彼女に仕事の口を与えるだけのつもりだった。女の子を一人行き倒れにさせるのが忍びなかったから、書記を任せたんだ。けれど彼女は仕事を始めたその日に、僕から説明を受けてすぐ、この答えを出してみせたんだ」

『東江はあんなに広いんだ。どうして海軍を出さない?』

この当時の国軍は空軍を持たず、陸軍と海軍はそれぞれ独立で行動していた。限られた資源を得るために互いに競争的な関係にあったからだ。

 そのような環境にあったため、陸軍が今回の作戦立案をする時点で、海軍に協力を仰ぎ、ましてや自分たちの功績を奪われるような申し出をするなどという発想は、頭から存在していなかったのである。

林彪が軍艦を認め、周恩来に食って掛かった時の発言が、正に伝統的な陸軍人の思考を物語っている。

 このため、今回の作戦は国軍の陸軍と海軍が共同で作戦行動にあたった初の例だということになる。またこの特殊性のために、蒋中正は陸軍海軍ともに偏りのない周恩来を作戦司令に任命し、同時に彼に対して「東征軍政治部主任」の肩書を与えたのだ。

 「僕たちは彼女の提案を皮切りに、数日間に渡って昼夜を問わず今回の作戦について議論を尽くして、草案を完成させたんだ。そして……」

周恩来は蒋中正に対して彼の執務室で行った作戦時の概況説明を、李之龍にも話して聞かせてやった。李之龍は話を聞きながら、唾をのむだけで、一言も発しなかった。

 「正直にいうとね、僕は毛沢東が戦場の様子に衝撃を受けたのを見て、少し後悔しているんだ。なんていうか、まるで子供を大人の世界に引きずり込んでしまったかのような感覚なんだよ……」

周恩来の憂鬱の原因をとうとう知った李之龍は、気軽い感じで彼の肩を叩いていった……

 「考え過ぎですよ、兄弟。私たちの知っている毛沢東同志はもっと強い人間です」

「君のようにざっくばらんにというわけには行かないよ」

「私は正直に申し上げているまでです」

「それだから君は女性に嫌われるんだ」

「あなたのような堅物に女を説かれたくはありませんね」

「しょうがない奴だ」

李之龍は話を聞くのを切り上げ、気合いを入れるように彼の肩を叩いて来たせいで、二人は思わず笑い出してしまった。

二人はひとしきり笑った後、李之龍はまた一口酒を煽り、真面目な表情で周恩来に向き直った……

「……今の話に出て来た蒋中正って奴ですが、注意した方がいいと思いますよ」

 「先輩のことを言ってるのか? 何事だよ、突然」

李之龍は左右を見渡して人がいないのを確認すると、彼の耳元に口を寄せ、小声でこう話した。

「あなたも私と乗組員たちの関係が良好なのはご存じでしょう。私自身、彼らのことは兄弟のように思っています。最近になって、その兄弟たちが小組に加入した話を耳にしたんです。ですが、彼らが言うには、軍校の上層部は小組加入者の情報を集めているらしいって言うんですよ。私は兄弟たちの話を信用しています。こんな風に隠れて個人情報を集めるなんて、何か企みがあるに違いありませんよ」

周恩来は蒋中正と彼の執務室で顔を合わせ、彼の作戦計画書を蒋中正が取り上げた時のことを思い出したが、すぐに頭を振り、意識を現実に引き戻した。

「それは風を捕まえ影を捉えようとするようなものだ。そもそも証拠もないだろう。北伐に取り組んでいるこの時節柄、様々な流言飛語で軍内の動揺を誘おうとする動きが出て来るのは自然な流れだよ。私に対して個人的にそういう話をするのは構わないが、安易に他人にそんな事を言うべきじゃない。何に巻き込まれるとも分からない。君だけは大丈夫だなんて保障はできないんだぞ」

 「仰ることは分かりますが……」李之龍は顔を背けずに続けた……「しかし、もし彼女が私の兄弟たちに何か企んでいるとすれば、彼らは不利な立場です……もし彼女が天王老子だというのなら、私だって彼女を欺くなんてことはしません。十倍、いや百倍の奉公だって惜しみませんよ」

 「……君は軍人になる前、銀行で働いていたのか?」

「どういう意味ですか?」

「いや、何でもない……ただ、考え過ぎるのは良くないって言いたかっただけさ」

周恩来はきつく欄干を握り締めた。まるで、彼にとってそれが、大海の中で唯一の拠り所であるかのように。


 「以上が今回の作戦の経緯であります」

「ご苦労だった。下がってよろしい」

「はっ!」

周恩来は軍礼を済ませると、一か月ほど訪れることのなかった校長室から出て行った。

蒋中正の執務室が、正にその校長室なのだ。

「ふぅ……」

彼は肩の荷を下ろしたように、廊下の窓から夜空高く昇っている満月を見上げた。

戦争終結後、周恩来は現地の管轄を国民政府の文官らに任せ、主力部隊を率いて軍校に引き返し、李之龍は中山艦を母港である広州城へと戻していた。

しかし軍校への帰還は、彼の休息を意味するものではなかった。

 今回の作戦の概要と負傷者らの報告などの他、彼が不在にしていた期間に溜った書類の処理、彼が今しがた終えたばかりである、蒋中正への報告までの間、三日三晩に渡り仕事をし続け、まともに睡眠もとれない日々が続いたのだ。

まだ若いとはいえ、鉄でできているわけではない彼の体は限界近かった。

(やっと取り急ぎの仕事は片付いたな……今晩はゆっくり休めそうだ)

体がここまで動き続けてくれたことは、一つの奇跡のようなものと言えた。

そんな時、二人の憲兵が非常に慌てた様子で彼の前を走って行くのに出会った。彼らは校長室のドアを叩き、蒋中正の許可すら聞こえない内に飛び込んで行った。

 (また厄介事が持ち上がったみたいだな……けど、今の僕には関係ない話だ……はやく宿舎に戻って、後のことは明日考えよう……)

頭の中はすでに宿舎のベッドのことで一杯だった周恩来は、気もそぞろに宿舎の門外までやって来た。

 しかし、彼は自分の宿舎から明かりが漏れているのを認めると、どうもまだぐっすり眠れるような状況にはなっていないらしい、ということに気付くことになった。

彼が仕方なく宿舎のドアを開けると、毛沢東が大股で室内を行ったり来たりしているところだった。

彼女は周恩来に気付くと、慌てた様子で彼の前まで駆け寄って来た。

「周恩来! ま、まずいことになったぞ!」

「またお前か……何事だよ? 急ぎの用じゃなかったら、明日にしてくれないか? 僕はもう疲れて死にそうなんだけど……」

周恩来の話は分かっていても、毛沢東は一歩も退く気はなかった。

 「緊急だよ! でなきゃこんな深夜に邪魔しに来たりするはずないだろ!」

「お前、最初に転がり込んで来たのもこんな時間帯だったってこともう忘れたのか?」

周恩来は極度に疲労しながらも、毛沢東に突っ込みをいれることは忘れなかった。

「そうだったっけ……いや! そんな事はどうでもいいんだ!」

 「じゃあさっさと話してくれ。僕はもう……」

「李之龍同志が憲兵に捕まったんだよ!」

周恩来はその言葉を聞くや、ほとんど閉じ賭けていた瞼をゆっくりと開き、充血した目を大きく見開いた。

「お前……一体、どういうことだよ?」

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