第5話:「仕事をくれ、周恩来!」

 周恩来は重たい足取りで宿舎へと戻っているところだった。

『あらかじめ厄介な連中だということは分かってはいたが、こうも面倒な事になるとは思わなかったな……が、それでもまだ考えはある。心配するな。今晩は先に戻って休め』

二人が軍学校に戻ると、蒋中正は彼にそう言い残し、解散となった。

 周恩来が懐中時計を取り出してみると、すでに深夜を回っている時刻である。彼が首を回すと、彼女の執務室の窓から漏れ出ている明かりが目を刺激した。

どうやら今夜もまた、彼女は徹夜らしい。

蒋中正が日常的に徹夜で仕事に取り組んでいることは、衆知の事実だった。

 彼女のそんな暮らしを知ると、大抵の人は彼女の健康を気遣って徹夜はやめるようにと言うものの、彼女はそれに耳を貸すことはなかった。そんな風にしている内に、いつしか誰も徹夜に関しては何も言わなくなってしまっていたのだ。

周恩来もまたその中の一人だった。

 「はぁ……先輩もこんな生活を続けていたら、いつの日か……」

彼は頭を振って、浮かんで来た良くない想像を振り払うと、足早に宿舎へと戻った。

 黄埔軍学校では、実習に当たっている軍官は二人で一部屋を共有している。正式な教導軍官に昇進して初めて個室を与えられるのだ。階位が高くなるに従い使用できる部屋も広くなる。周恩来が使用しているのは三階建ての宿舎だった。簡素なコンクリート建築物で、これといった装飾もないが、黄埔軍学校の中で単独の宿舎を使用できるという待遇は、蒋中正以外には数人しか得られないものだった。

 「……ん?」

宿舎に近づいていくと、周恩来は宿舎の外の様子が平素とは違っていることに気付いた。

本来深夜のことであるし、また軍学校は閑静な場所でもあるから、そもそも人気などあるはずのないところだ。

けれど、彼は人影が宿舎の門のところにあるのを、認めたのだった。

 現在はすでに冬になる季節だ。広東の冬は雪が少ないとは言っても、夜は冷え込む。その人影はごく薄い白の布を被っているだけで、まるで街角の浮浪者のような有様だった。

周恩来からははっきりと顔が見て取れなかった。好奇心をもった彼は、足早に近づくと、布をはぎ取ってみた。

 毛布の下にあったのは妙齢の少女の顔だった。彼女は血の気の引いた顔で目を瞑り、右腕には赤い腕章を嵌めていた。腕章には文字が書かれているようだったけれど、周恩来には何が書いてあるのかよく見えなかった。彼は彼女を案じ、やや不躾に彼女の柔らかな肩を揺すった。しばらくそうして揺すってやると、その少女は呆けたような仕草で目を開け、無理に幾つか言葉を紡ぎ出そうとした……

「……周……恩……来……?」

周恩来は彼女が何を言っているのかほとんど聞き取れなかった。けれど彼女が自分の名前を口にしたのを聞いて、更に焦りが募った。

 「お嬢さん! 大丈夫ですか? 今軍医のところに連れて行くから、気をしっかり持ってください。寝ちゃだめだ!」

周恩来は男女の区別を脇に置いて、両手で少女の体を引き起こした。少女の体重は想像したよりもずっと軽かった。

少女は抵抗せず、力なく頭を振るだけだった。そして彼女は同時にこう言ったのだった……「……ちょっと、あなた……の家……に……肉は……ある……?」

「……は?」

この瞬間こそ、周恩来は少女が何を言わんとしているのか、全く分からなかった。


 「はふ、はふ、はふ……ごくん!」

それは周恩来にとって今まで見たことのないような、滅茶苦茶な食べっぷりだった。

女の子がテーブルの上に胡坐をかいている光景もそうだが、テーブルの上で(大事なことなので二回言った)物を食い、麺を食いちぎり、スープをまき散らしている。

 大体麺類を食べるのにどういう原理で「ごくん」などという音を立てることができるのか、周恩来にとってはどうも永遠に理解できそうもない謎のようだった。

(こいつは……まさか猿の惑星からやって来た大使か何かなのか?)

少女は周恩来の怪訝な表情など全く意に介さず、おおいに飲み食いしていた。

 「ごく、ごく……ふぅ! 復活!」

見付けた時は屍のように気力を失っていた少女は、今や虎のような活力に満ちているように見えた。スープをすっかり飲み干した器を両手でテーブルに叩き付けると、「ドン」という大きな物音が響いた。

「ごちそうさま!」

少女は服の袖で口元を拭うと、満足げな笑みを見せた。

 子供のように天真爛漫で、太陽のような輝きを持ったその少女の笑顔を見ると、周恩来はどういうわけか、今しがたの不躾な食べっぷりなど忘れ、ひとまず安心を感じることが出来た。

外で少女を抱き上げた時、周恩来は彼女が何を言っているのか分からなかったものの、腹の虫の鳴る音を聞いて、少女にこう訊いていたのだ……

 『……腹が減ってるのか?』

少女は力なく頷いた。

そして少女を宿舎の中まで連れて来ると、熱水を一杯与えた以外は周恩来自ら厨房に立って麺を茹で、ついでに親切にもネギや腸詰といった具も散らしてやったのだ。

 周恩来の地位からすれば、これらは彼自ら取らなければ手間ではないはずだった。外の憲兵に連絡すれば、すぐにでも人を寄越してくれるだろう。

(この女の子は……一体誰なんだろう?)

けれど、周恩来はこの女の子の身分に、かなり興味を惹かれていたのだ。

 彼女は一体、何者なんだろうか?

彼は今晩、このように女の子が尋ねて来るなどという知らせは受け取っていなかった。

このご時世、まさか家の軒先まで来て空腹で倒れるようなバカな刺客や賊もいないに違いない。

一方で彼は少女の面立ちに、珍しい感情を抱いてもいた。

 彼女はどうして自分の名前を知っていたのか? 自分に一体何の用事があるのか?

もちろん、まず問い質すべきは相手の名前だろう。

「その……君は一体誰なんだ?」

少女は周恩来の質問を耳にしても、ただ呆然と見詰め返して来るだけだった。

「お前……私が分からないのか?」周恩来は問われている内容に思い当たらず、頭を振って答えた。

「えっと……」

どこか気まずい雰囲気は二人を沈黙させてしまうものだった。

「さっきのことだけど……」周恩来は勇気を奮って先に口を開いた。「さっき外にいた時、僕の名前を呼ばなかったか? 君は……僕を知ってるのか?」

 「当たり前だろ!」少女は激しい口調でそういった。「私はお前を探しに来たんだから!」

「僕を……?」その言葉は周恩来を困惑させるものだった。「ごめん、ほんとに君が誰か分からないんだ……君は誰なんだ? 僕に一体何の用なの?」

 「このバカ!」少女は周恩来を栗が爆発するのではないかという程の力で殴り付けた。「ほんとに私のことが分からないのか? 私たちは去年に一度会ってるだろう! しかもここ広州で!」

「去年……? 広州……? 啊啊啊!」

周恩来は詳細に観察することで、彼女の腕章の文字を読み取とることが出来た。

 『為人民服務』

 去年帰国した周恩来が広州に降り立った際、何人かの人間と接触する機会があった。

彼の目の前にいる少女もその一人だったのだ。当時の彼女もこんな腕章をつけていた。

「君は……毛沢東か……!」

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