第4話:「戦争は数だよ、汪精衛!」

 周恩来も認めるところの変人、汪精衛。

周恩来は彼のことについてあまり知らなかった。ただ彼も自分と同様、フランスというこの自由奔放な国家に留学したことがある、ということを了解している程度だ。しかし同じ留学生という身分でも、周恩来は彼の言動を全く理解できなかった。

 神経刀(非常識な行動に出る人間の意)。

周恩来の頭にはそんな言葉が浮かんだけれど、彼という人間を形容するにはあまり適当ではない、という気もした。

まるで掴みどころのない言動、発言の頭を一々強調する話し方の他、彼は奇妙な異国の服を着て、万人とは違う人間だという点をアピールしているのだ。

 清朝が男性に対して辮髪を強制していた事情もあり、この時代の男性たちの流行は短髪を梳いて流すスタイルだった。が、彼に至ってはよりによってその流行に背を向けるのだ。髪を縛っていないばかりか、蒋中正にも勝るとも劣らない長髪にしているのである。同時に、冬の時期であろうがお構いなく、彼は胸元を大きく開けるような服装に七色の極彩色の洋装で、周恩来よりも逞しい体付きを誇っている。服装にまるでこだわりのない周恩来からすれば、彼という人間は変態とでも呼ぶべき相手なのだった。

 もし遠くから彼を狙撃しようとしている暗殺者がいれば、そいつの目からはまるでクジャクのように映ることだろう。これほど狙いやすい的はないに違いない。

けれど、汪精鋭がただの神経刀だというのであれば、周恩来にとってはむしろ都合の良いことではあった。

 言わずもがな、周恩来ですらここでは十万の精兵を指揮する立場であり、蒋中正もまた高い役職にある。それぞれが面子を無碍にはできない立場なのだ。個性以外の面でも、彼の身分もまた、二人の頭痛のタネなのだった。

 (…なんだってこんな人間が主席だなんて要職に就けるんだ…?)

周恩来は壁に巨大な地図を掛けながら、目の端で汪精衛を盗み見た。

(まるで理解できない…!)

そんなことを考えるにつけ、周恩来の心には汪精衛に対する嫌悪感が募るのだった。

 折しもそんな時、他の人間が続々と会議室に入ってきた。全員が席に就くと、会議が開始された。

蒋中正が周恩来に目配せすると、彼は頷き返し、彼女の傍の席に腰を下ろした。

「では、予定されていた会議を始める」

汪精衛は浮ついた笑みを引っ込めると、まるで人が変わったように、厳粛にそう告げた。


 「浪費! 蒋校長、あなたの作戦案は浪費が過ぎます!」

「この度の反乱は早期に平らげる必要があるのだ! 我々はこんな所で時間を費やしてはいられない、仮に費用が嵩むとしても、速やかに解決する必要がある!」

「反対です。我々はそんな小物相手にあんな遠方まで物資を運ぶ手間はかけられない」

 「あなたは戦争のなんたるかを知らんのだ!」

「これはお笑いぐさだ。あなたは私を侮辱するのか?」

会議が始まってから二十分足らずの間に、蒋中正が現状と作戦内容を説明するや、汪精衛は即座にそれに反対意見を示した。二人は互いに一進一退の言い争いを続け、一触即発の雰囲気となっていた。

 「今回の作戦で最も貴ぶべきは速度なのだ! この反乱を長引かせてしまえば、北伐という大事業に予期できぬ影響をもたらしてしまうとも知れんのだぞ!」

「バカバカしい! 今回の騒動は小規模な反乱に過ぎない。雛を殺すのに牛刀を用いるようなものだ。私の見立てでは一個団程度で事足りる」

 「あなたこそ私の報告を聞いていなかったのか? 反乱軍の人数は三千人あまり、一個団といえば千人程度だぞ。どうしてそれで反乱を早期に鎮められるんだ? 委員の方々にも分かるよう説明して貰いたい!」

「足りるさ。蒋校長の素晴らしい指揮があれば、火の如き勢いで解決可能でしょう」

「貴様は!」

 蒋中正が書類を投げ付けて立ち上がると、汪精衛もまた少しも弱みを見せず、その場で立ち上がって両腕を広げ、他の委員に向かっていった……「諸君! 諸君も私の意見に賛同であろう!」

互いに全く退く気配を見せず、汪精衛の扇動により他の者も騒ぎ始めた。黒薔薇で一杯の会議室は、さながら市場のような有様だった。

 周恩来はあくまで蒋中正の助手であり、会議に対する発言権は持たなかった。彼は他に仕方がなく、作戦地図上に書き込まれた数十個の「冏(けい)」という字を見詰めていた。

これらの「冏」こそは、蒋中正と周恩来が今日ここまでやって来た原因となっているものだった。

 この頃の中国は名義上、統一国家ということになってはいたものの、各省では軍閥が割拠し、広東もまたその例外ではなかった。国家全体が事実上分裂しており、それぞれが自治政府を抱いている状態だった。黄埔軍学校が設立されたのも、他の軍閥を倒し、北伐を完成させ全国統一を達成するためだった。

 当初、広東の軍閥は黄埔軍学校を支持していたものの、去年に周恩来が着任するのとほぼ時を同じくして、軍閥は突如として反旗を翻していた。蒋中正と周恩来は全力を尽くして平定にあたったが、ここ何日かは帰属したはずの軍閥も反乱に加わった、という知らせが舞い込む始末だった。

 地図上に点在する「冏」は反乱軍閥による占領地域を意味していた。反乱軍の表記に「冏」の字を採用したのは、この広東軍閥の首領(陳炯明)の名前に「冏」の文字が含まれていたからだ。そこで黄埔軍学校の政治部は「冏軍」と呼称することにしていたのだった。

 そして二人がこうして広州城に足を運んだのは、国民政府に対して作戦予算を申請するためだった。蒋中正は国軍に対する絶対的な指揮権を有してはいるが、国軍は名義上、国民政府の所有する軍隊である。国民政府は国民党の執政機関であって、国防予算を決定する権限を持っているのだ。

 黄埔軍学校は平時の運用予算は持っているものの、その予算には有事の際の作戦による支出分は含まれていなかった。このため、有事に必要とされる軍需の補給は国民党主席である汪精衛、並びに彼をトップとする国民政府委員会の同意を必要とするのだ。簡単に言えば、この委員会の同意が得られなければ、蒋中正には一発の銃弾を使用するだけの予算も手元にはない、ということなのである。

(一個団……冗談じゃない。この変態は一体何を考えているんだ!)

侵攻には防衛の三倍の兵力が必要となる。これは全ての軍官が持っている常識だった。蒋中正は正にこれがあるからこそ、今回の提議を行っているのだ。

周恩来としても、汪精衛がこんな簡単な理屈を知らないはずがないことも分かっていた。敵の三倍の兵力が贅沢だとしても、少なくとも同数は出して然るべきだ。それが現在示されているのは敵の三分の一、わざととしか思われないのだった。

 しかし腹を立てるにつけ、周恩来は思い出すことがあった。

ここは黄埔軍学校ではない。広州城である。

もっと言うと、ここは汪精衛の地盤というわけだ。

「私は汪主席の意見に賛成です」

「私も」

「汪主席の仰る通り」

会議室に集まっていた委員たちは、ひと悶着した末、続々と汪精衛の支持に回った。

 彼らの意見を耳にすると、蒋中正の顔色は目に見えて悪くなっていった。周恩来にしても唇をきつく噛みしめていた。

汪精衛は得意げに頷いた。

「よろしい! 蒋校長、あなたも委員がたの意見をこうして耳にした以上は、異論ないと思いますが?」

蒋中正は不服といった具合に、憤然と立ち上がった。

 「委員がた! 米がなくてどうして飯が炊けるというのだ。冏軍の三分の一の兵力では我が軍がどれだけ奮戦したところで難局に陥るのは必至、どうか皆様、もうご一考を……」

「徒労ッ!」汪精衛はそう一喝すると、蒋中正の言葉を遮った。「委員がたの決心はすでに固まっているとみました。今から投票に移りましょう! 私の意見に賛成だという方は、手を挙げてください」

汪精衛がそうして挙手すると、蒋中正と投票権を持たない周恩来の二人以外の全員がそれに呼応した。

 「よろしい。ここに国民政府主席として宣言する。今回の軍事作戦では黄埔軍学校側に一個団分の費用を提供し、蒋校長による華々しい戦果を期待しよう。では、解散!」

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