第3話:「国民政府主席は変態だ、気を付けろ!」

 「まったく! 貴様はあれらの上司なのだぞ! どうしてあんな真似を許しておくんだ!」

「すみません…」

広州城へと向かう黒塗りの自動車の中で、黒髪の少女は後ろの席に腰を下ろし、腕組みをしながら傍に座っている周恩来に教訓を垂れていた。

「ですが、彼らも悪意はないんです。ただ僕を心配していただけで」

 「はあ…貴様のそのお人好しの性格はいつになったら治るんだ…」

彼女は気の抜けた様子で溜息をつくと、車窓の外の景色へと視線を転じた。

「そう言わないでください。先輩、これが会議で必要になる書類です」

周恩来は仕事用カバンから書類を取り出し、彼女に手渡した。彼女はそれを受け取ると、素早く内容に目を通した。

「うん。細かいところまで良く書けている。これなら後は奴との交渉次第だな」

「あの変人ならきっと職権乱用まがいの滅茶苦茶を言ってくるはずですよ。先輩、くれぐれも気を付けてください」

「当たり前だ。私を誰だと思っているんだ?」

 彼女は周恩来に向き直ると、自信に満ちた笑みを浮かべた。

(先輩がこう笑うってことは、事は上手く運ぶに違いないってことだ)

周恩来は毎回、彼女のそんな笑顔を見ると、内心でそう思うのだった。


 周恩来がこの黒髪の少女の右腕として働くようになって、まる一年になる。

彼が働く職場は「黄埔軍官学校」といった。広州城の傍にあり、黄埔地方でもあることから、「黄埔軍校」と呼ばれることもあった。

 黄埔軍校は現時点で中国最大規模の軍校だった。名称上では「陸軍軍官学校」となってはいるが、陸軍科の他に海軍科も設置されていて、陸軍と海軍の各階級の軍人たちが訓練を受けている。また同時に黄埔軍校は数十万に上る国軍の指揮を担う場所でもあり、加えて毎年多くの優秀な指揮官を輩出していることから、すでに全国でもっとも影響力を持つ軍事機構でもあるのだった。

 そして、彼が勤めている場所は、「政治部」と呼ばれている部署だった。

政治部という部署名は人事を担当する事務職をイメージさせるものだが、実情はこの軍校の参謀部に他ならない。周恩来はこの政治部の主任であり、全ての部門の責任者だった。したがって、彼は黄埔軍校の参謀長であり、その地位は万人の上に立つものなのだ。

 周恩来の傍に座り彼に教訓を垂れていた人物は、深い藍色の西洋式の軍服に身を包んでいる。軍帽中央には青天白日の図案、同様の設計の金属ボタンが肩に縫い合わされ、胸元には沢山の勲章があった。左腰には「中正」の武士刀を帯びている。彼女こそが彼の上司、黄埔軍校校長、蒋中正だった。

 (考えてみると、先輩ってほんとすごい人だよなぁ)

近くで見てみると、彼女は瀑布のような烏黒の美しい髪を腰まで伸ばしていることが分かる。均整の取れた身体つきからは無視し難い気品を放っているわりに、落ち窪んだ目が日々の激務を物語っていた。彼女が筆を立てたように毅然と腰を下ろしている様子からして、いついかなる時も戒律を堅守していることが伺われた。

 周恩来は自分に向けて微笑を見せてくれている蒋中正に、笑顔を返そうとしたようだが、彼のその表現はぎこちないもので、蒋中正を噴き出させてしまうだけだった。

「しかし、私も貴様の部下の言うことは分かる」

「な、なんですか?」

蒋中正は周恩来の中山服を見ていった……「次は軍服にしておいた方が安全だな」

 「安全ってどういう意味ですか! 僕の今の格好が危険だとでも言うつもりですか!」

蒋中正は周恩来の文句に嗜虐的な笑顔を見せるだけだった。


 「ご機嫌麗しゅうございます! 華麗なる蒋校長殿!」

広州城国民政府総部会議室。

「ご機嫌麗しゅう…? 華麗なる…? 演劇でもやっているつもりなのか、この人は?」

上席に座っていた男は周恩来と蒋中正が会議室に入るや、舞台でスポットライトを浴びた役者のように立ち上がり、両手を広げて二人を迎えた。周恩来は蒋中正の後ろでそんな風にぶつくさ文句を垂れたわけだが、蒋中正に睨まれると、彼は早々に口を閉じた。

「…歓待に感謝する。しかしもう少し普通の歓迎の仕方ではいけないのか? あとこの部屋一杯の黒薔薇は一体? それに他の委員はどうした?」

 「いやいや! 日々の激務に忙殺されている蒋校長がこうしてわざわざお越しくださったのですから、主人の帰りを迎えるが如き熱烈な歓迎の意を示すのは至極当然でございます!」

男はどこからか取り出した鮮やかな一輪の黒薔薇を、蒋中正の前に差し出した。

 「ああ! なんて美しい! 蒋校長はまっことお美しい! どうかこのあなたのように美しい花を受け取ってください!」

蒋中正は男の差し出した花は受け取らず、物言いたげな視線を向けるだけだった。

「おっと、これは失礼。たかが一輪の薔薇がどうして蒋校長の美しさを表現できるのか! 僕は何て愚かなんだ!」

 男はハンカチを取り出すと目尻の涙を拭った。

「いい加減にしろ!」蒋中正は耐えかねた様子で、目には怒りの色が浮かんでいた。「汪精衛、もう少しまともにやってくれないか! 私たちは仕事で来たのであって、お前と遊ぶために来たんじゃないんだぞ!」

 「はは、怒った蒋校長もまた美しい。大変美しいですなぁ!」

「こいつ!!」

蒋中正が腰に帯びた「中正」を抜こうとしたその瞬間、周恩来は急いで彼女に耳打ちした……「先輩、冷静になってください。僕だって我慢できないのは一緒ですが、彼はあれでもここの主席なんですから……」

 「そんなことは分かっている!」

蒋中正は周恩来を睨み付けると、口元を歪めてそういった。周恩来にしても彼女はちゃんと道理を弁えている人間だということは、よく知っている。この汪精衛という男に不満があったとしても、怒りに任せて荒事に出たりはしないだろう。周恩来にしても注意をしてみたに過ぎない。

 蒋中正は気持ちを落ち着かせると、冷たい口調で汪精衛にいった……「失礼した。しかし汪主席、他の委員はいつになったら集まるんだ? 我々の時間は貴重なんだぞ」

「たぶん、もう少しでやって来るでしょう」汪精衛は軽い身のこなしで自分の席に戻ると、しっかりと腰を据えた……「蒋校長がご希望ということでしたら、先に会議の準備を始めてください。私は気にしませんので」

彼の態度が一気に正されてしまったことで、二人は揃って面食らってしまった。が、彼が真面目にやっている内がチャンスだ。周恩来はカバンを開けると、会議用の書類と地図を取り出した。

 けれど、二人がそうして安心したかと思った矢先─

「啊啊、けれど私としても分かっていますよ。私の完全無欠の美の前では、この私を無視しろと言われてもできない相談でしょう。ははははは!」

周恩来と蒋中正は互いに顔を見合わせると、このナルシストを無視することに決めた。

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