第2話:「とっとと着替えろ、周恩来!」
「万年筆、書類、地図、ノート……よし、準備は万全だな」
周恩来は仕事用のカバンの中身を検めると、慎重に金具を留めた。
「主任! ここを離れる前に、書類にハンコを頂きたいのですが……」
「邪魔するなよ! こっちの方が先だろ! お前はちょっと待ってろ! 主任、こっちにハンコを」
「お前こそ邪魔するなって! 今日主任のハンコ貰えなかったら、俺は補給課の連中に撃たれるかも知れないんだぞ!」
「二人ともそんな風に騒ぐんじゃない。ほら、ちゃんと見るから。君たちの案件を処理してから出掛けるよ」
周恩来は押し合い圧し合いしている自分の部下たちが揃って鬼気迫る表情をしているのを見ると、他に仕方なく仕事用カバンを椅子の脇に置いた。そして再び腰を下ろすと、一つ一つ部下の持ってきた書類に目を通し始めた。
「ところで、今回の主任の出張、だいぶ急でしたね」その中の一人、女性の部下がそんなことをいった。
「うん。まあ仕方のないことだ」周恩来は書類の内容を検査しながらそう答えた。「事が事だから慌ただしくなるのも仕方がない。それにしても、君たちはちょっと大げさじゃないか? 出張って言っても、広州城へ行くだけだ。今晩にだって戻って来られるような話なんだぞ」
「主、主任……あなたがいないその一日が、どれだけ多大な影響をもたらすか、ご存じないんですか!」また別の男性の部下がそういった。
女性の部下が眉を顰めていった。「私の計算では……これまで何度か病気や出張で主任が席を空けることがありましたが、その度に私たちの仕事量が平均して三割は増加していましたね……」
「主任! 私たちの三割の仕事量のために今日の出張はナシにしてください!」
「君たちは僕を一体なんだと思っているんだよ!」
すでに部下たちの無理難題に慣れっこになってしまっていた周恩来は、そういって笑うと、ポケットからハンコを取り出して書類に捺印した。
「よし。書類はこれでいい。君たちもそれぞれの仕事に戻ってくれ。僕もじきに出発する」
周恩来から書類を受け取った部下たちだったが、それでも依然として暗い表情で立ち尽くしているのだった。
周恩来は立ち上がると、彼らにこういった……「ん? まだ何かあるのか?」
すると、女性の部下が肘で傍にいた男性の脇を小突いた。「ほら、あなたから言いなさいよ」
「待て待て、なんで俺が!」
「時間を浪費するんじゃない。用事があるんならさっさと言いなさい」
男性の部下は深呼吸をした。
「主、主任! まさか、本当にそのような恰好で出張に出掛けられるおつもりですか!」
周恩来は唖然としてしまった。男性の部下は彼が何の反応も示さないのを見ると、こう続けた……
「実をいうと私たちはずっと以前から、主任にお伝えしたかったのです! 主任の服のセンスは、じ、じ、実際のところ、ひどい有様です! そのまま出張されてしまっては、我ら黄埔軍学校が恥をかきます!」
周恩来は部下からそう言われ、驚愕のあまり自分の服装を見下ろした。
(僕の格好は…そんなにひどいのか?)
女性の部下は周恩来の驚く様を目にすると、溜息をついて、それ以上言葉を重ねないまま執務室を出て行ってしまった。数十秒後、彼女はどこから出て来たのか分からない姿見を持って現れ、周恩来の前にそれを置いてみせた。
周恩来は姿見の前に立つ自分の姿をまじまじと見た。
外見だけで言えば、彼は逞しいとは言えない男だ。が、眉目秀麗であり、その端整な顔立ちには芯の強さが見てとれる。書生タイプの美男子と言っていいだろう。が、彼はいつでも人に強烈な印象を与える格好をしていることに、無自覚だったのだ。
野暮ったいのである。
今でさえ、彼は真っ黒の中山服に灰色のズボンを履き、黒に白い縁取りのある布靴をつっかけている有様だ。
「中山服が悪いとは言いません。ただ組み合わせというものにもう少し注意して欲しいんです。今の主任は公園でぶらぶらしている年寄りと殆ど同じですよ!」女性の部下はいった。
「と、年寄り? 君は僕を年寄り扱いするのか…?」
「確かに…そんな葬式に行くような格好なら、普段の軍服姿にすべきじゃないでしょうか」男性の部下がそう付け加えた。
「僕の格好はそこまでひどいのか!」
彼は殆ど泣き出してしまいそうだった。
実を言えば、昨日の晩は今日の出張のために数時間を費やし、厳選に厳選を重ねて今の服装に辿り着いていたのだ。それが、今や部下から一文の値打ちもないと批判を受けているのである。
しかし、女性の部下は彼のそんな心情を汲み取ることなく、冷静に頷き返すとこういった…
「はい。本当にひどいです。今時、標準的な服装と言えば洋装でしょう? まさか主任が洋服の一着も持っていないなんて考えられませんが」
「うん! そう言えば主任は海外留学生だったんだ。洋服を見たことがないなんてことないでしょう!」
「当たり前だろ! けど唯一持ってる洋服はもうサイズが合わないんだ。それでこの比較的ラフな中山服にしたのに、君たちは気に入らないっていうのか!」
「主任、混乱のせいで神経質になっているんじゃないですか? こうなったら私達も強硬手段に打って出ないといけませんね」
「…え?」
周恩来は愕然と女性の部下を見た。彼には彼女が何を言っているのか理解できなかったのだ。
女性の部下は男性の部下に目配せした。男性の部下はすぐに頷き返すと、やおら手を伸ばし、周恩来の服を脱がし始めた! 抵抗するが早いか、男性の部下は既に周恩来の中山服のボタンを全て外してしまっていた。周恩来は必死に抵抗しようとしたが、相手を押し退けるには足らず、二人は執務室の中で取っ組み合いとなった。そんな二人に女性の部下がいった……「今から主任の宿舎に行って適当なの持って来るから、時間稼ぎ頼んだわよ」
「おう! 任せとけ!」
「おい! 君たち邪魔をするんじゃない! もう時間なんだ! 手を放せ!」
女性の部下は身を翻して執務室のドアに向かった。けれど、彼女がドアを開けようとした瞬間、ドアは外にいた別の人物によって開けられてしまったのだった。
「遅すぎる! 翔宇、今いつだか分かっている…の…か?」
ドアを開けたのは、軍服に身を包んだ黒髪の少女だった。
黒髪の少女は衣服を乱している周恩来、そんな彼に狼藉を働いているようにも見える部下を目にすると、さすがに戸惑いを隠せない様子だったが、すぐに不愉快そうな表情を浮かべ、低い声でこういった…
「お前たち…一体何をやっているんだ…」
「中、中正先輩…?」
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