はじまり
1
早紀は信号待ちの交差点で
ふと空を見上げた
朝のオフィス街の空は
薄日が差して淡い水色だった
10月のはじめにしては気温が低く
足を止めると冷たい風が通る
トレンチコートの襟元を手でにぎり
赤く光る信号に視線を戻した
*間野 早紀*
短大を卒業してすぐ
求人募集をしていた
大手カード会社に入社した
《 職種は営業事務。
土日祝日休み。
賞与は年2回 》
特にやりたいことも
目指すものも無かった早紀は
条件欄にあったこの一文で
就職先を決め
今年で入社4年目になる
向かいの信号の下には
周りのビルへ出勤していく人や
乗り換えの地下鉄へ急ぐ人で
何列にも重なっている
その信号の奥
大きなビルにはめ込まれた
電子ビジョンに
今日の占いが流れているのが
目に入った
『今日のふたご座
出会いのチャンスがいっぱい
ラッキーアイテムは
携帯電話
お気に入りの靴』
早紀は手に持っていたスマホを見た
「出会いと、携帯に靴ねぇ…」
つぶやいたところで
信号の色が青に変わった
人の波に押されるようにして歩き出す
その時…
カツンっ!
音と同時に左足がもつれ身体が前に傾いた
ー あっ、転ぶっ ー
そう思った瞬間
少し甘くて我の強い香りとともに腕を掴まれて
身体がふわりと後ろに戻る
自由のきかない足元を見ると
横断歩道の真ん中にあったマンホールの溝に
ヒールを取られていた
「大丈夫?」
その声に掴まれた腕の方を見ると
少し褐色の顔が早紀を覗き込んでいた
ダークグレーのスーツに
黒のコート
少し褐色の顔
片方の目尻の少し下に小さなホクロ…
年齢は30代くらいだろうか
「あ、ありがとうございます
大丈夫です」
慌てて姿勢を戻す
「それなら良かった」
男性は口元だけ笑うと足早に横断歩道をわたり
人の波に見えなくなった
マンホールにハマったヒールを抜いて
早紀も急いでわたり終え
見えなくなった黒いコートを探したが
もう確認することは出来なかった
早紀は掴まれた腕をさすった
強い手の感触と
甘く、でも我の強い香水の香りが
少しだけ残っていた
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