三
Jimは、左手のブレスレットを右手で触りながら、にやにやとしていた。隣にはClemencyがじっと立っていた。向かいには貝塚が座っていた。
森澤会長は、じっとテレビに見入っていた。練習中の者も、ちらちらと伺っていた。
「つまりですね、以前は全ての可能性を網羅するのがやり方だったわけですよ。しかしそれでは、人間の直感に勝てない
「しかし、Jimはそこを乗り越えたわけですね」
「ええ。僕たちは直感で戦うといっても、傾向があるわけです。僕なんかで言えば、間合いを詰められるとローキックが出るんですけど、ムエタイなら前蹴りとか、単純に回って逃げるとか、人によって違うわけですよね。だから、ロボットにも完璧を求めていいとこ取りしようとするのがいけないと思ったんです。ロボットの性格を育てていくというか」
「なるほど。確かに、選択肢を減らす事によって、ロボットは驚くほど賢くなりますよね」
「そうなんです。人間は脳みその大部分を休めているわけですが、ロボットは全て働かす事ができます。全ての場所が目的に適応して計算処理できる。これはもはや人間を超えたとも言えますね」
「まさにそうですね。ある意味、ロボットは人間を超えてるんです。なのに奴隷扱いするなんて冗談じゃない」
「まったく、冗談じゃない」
掃除ロボットが傍らを通り過ぎていく。それを見て、森澤は舌打ちした。
森澤ジムは、規模の割にはロボットが少ない。世界王者を抱えるようなところは、高精度のロボットを無駄なぐらいに配置する。かつては美人の受付嬢が果たしていた役割を、ぴかぴかのロボットが果たすようになったのである。しかし森澤は、掃除や調理といった雑務以外にはロボットを用いなかった。受付には若い会員が出て行くし、電話の応対は自分でする。今では非常に珍しい事である。
「ロボットが人間を超えるなんてのは、驕りだよ」
森澤は、じっと右手に視線を落としていた。引退をせざるを得なかった、どうしようもないほどの怪我。安全なはずの
「人間は今後、ロボットと共存していく道を真剣に考えなきゃならないですよ。でも、今のところ賛同する人は少ない。だからJim、是非今度の試合ではClemencyに勝って欲しいんです」
「任せてください。Clemencyは最高の格闘家だし、私は最高の指導者ですから」
テレビの中では二人の男が笑い、テレビの前では一人の男が怒っていた。
「応樹、絶対勝てよ」
突然、掃除ロボットが立ち止まった。森澤は忌々しげにコードを引き出し、コンセントにぶち込んだ。
「ロボットなんかに負けるんじゃねえぞ」
ファミレスで、応樹はコーヒーを飲んでいた。
深夜だが、そこそこ人が多い。応樹だと気付き、指差す者もいた。
何故ここに来たのか、応樹にもわからなかった。普段も滅多に来る事がない。
音の出ないテレビが、海の中の映像を垂れ流している。ぼーっとそれを見る。魚の群れ。イソギンチャク。水泡。水泡。水泡。
何時からかわからない、戦いの歴史が頭の中で渦巻いていた。強敵との試合、かませ犬との試合、厳しかったスパーリング……
それらを手に入れるために、応樹は故郷を捨てたのだ。なのに、何故こんなに苦しいのか?応樹は、心のうちで頭を抱え、もだえ苦しんでいた。
「あのー」
暫く気付かなかったが、顔を上げると、一人の女性が応樹のことを覗き込んでいた。
「柏木応樹さんですよね」
にこやかな笑顔だった。しかし、よくあることだった。
「そうですけど」
「いつも見てます!頑張ってくださいね」
応樹も、少しだけ笑った。
「ロボットなんかに、負けないで下さい!」
笑顔は崩さなかった。しかし、なかなか言葉が出てこなかった。
「ええ、Clemencyには絶対負けません」
ようやく振り絞った言葉だった。女性は満足したのか、手を振りながら去っていった。
「Clemencyだろ、俺の相手、Clemency……」
呪うような声だった。応樹は、頭を抱えた。
森澤も頭を抱えた。
応樹の動きにまるで精彩が無い。切れがない、力がない、スピードがない。
上の空だった。ただ、数をこなすだけの練習になっていた。
「応樹、おい、応樹!」
「……え? あ、はい」
「今日は休むか?」
「あ、いや……」
「休むんですか、応樹さん」
「あ、司ちゃん」
練習場に現れたのは、大きな旅行バックを抱えた司だった。
「もうなんか、こいつおかしくなっちまってね。まるで別人なんだ」
「そんな感じですねえ」
応樹はまるで来客に気付かない様子で、サンドバッグを力なく蹴り続けていた。
「応樹さん、応樹さん!」
「え、あ……司ちゃん」
応樹は司へと視線をおろしたが、その目は完全に死んでいた。それは、司にとっては初めて見る、情けない姿の応樹だった。
「あのぉ……頬、いいですか?」
「え?」
ジム内に、激しい掌打の音が鳴り響いた。打撃の専門家たちさえ、聞いた事のないほどの大きさだった。
「私は、こうやって先輩に気合入れられたんです」
得意げに言う司だったが、しかし視界から応樹の姿は消えていた。足元で、頬を押さえてうずくまっていたのだった。
「やっぱ、プロレスラーは平手打ちのプロなんだなあ」
森澤の感心を横に、応樹はいつまでも立ち上がらなかった。頬を押さえたまま、ぶつぶつと呟いていた。
「あれ、効かなかったですか?おかしいなあ」
「俺、どうしたらいいだろ……」
応樹は震えていた。司は、腕を組んでその姿を見つめていた。
「俺、わかんねえよ……誰と勝負するんだよ……」
「あまったれんじゃねぇよ、このくそがきが!」
二度目の平手打ちが、見事に炸裂した。ジム中の視線が、司に、そして応樹に注がれた。
「って、これもよく先輩にやられます」
もはや、司の目は少しも笑っていなかった。いつもの明るい様子は影を潜め、応樹に向かって鋭さを叩きつけていた。そして、応樹が立たなければ、すぐにでも次の平手、それだけでなく、拳や蹴りまで用意していた。
応樹は立ち上がった。泣きそうな目をしていたが、それでも司と向き合った。
「司ちゃん、俺……」
「応樹さんは、Clemencyと勝負するんでしょ。Clemencyが怖いんですか?」
「それは……」
「Clemencyとの勝負を受けたんなら、他の事はもういいじゃないですか。ねえ」
応樹は黙ったままだ。しかし、もう、弱音を吐くことはなかった。
司はバッグから、封筒を取り出し、応樹に差し出した。
「今度、初めてメインなんです。よかったら、見に来てください」
「……ありがとう」
応樹は唇を噛み、天を仰ぎ、そして大きく頷いた。
「絶対見に行く」
格闘ロボットも練習をする。
ロボットにとって重要なのは、データの蓄積と判断力の上昇だ。いくらパターンを多く備えていても、出しどころを間違えては意味がない。弱いロボットは、同じ過ちを繰り返す。重要なのは、何が引き金となってその過ちが行われるのか、しっかりと見極めてやることである。
「いいぞ、Clemency、そこは我慢だ」
JS Club、通称ジムジムでは、Clemencyと人間のスパーリングが数多くこなされていた。普通はロボットの相手などしない大物も、さまざまな理由からClemencyと肌を合わせることを了承した。興味本位の者もいたし、応樹に対する嫉妬からの者もいた。彼ら一流の格闘家たちは、Clemencyに対して本気でかかっていくのだが、やはりどこかロボットに対する侮りがあった。最初はJimに対する礼儀からおとなしくClemencyを「鍛えてやる」のだが、いずれは仕留められるという自信があった。しかし一分もすると、自信は失われ、焦りばかりが噴出してくる。Clemencyは相手の心のうちを読むかのように、自分はただじっと息を潜めている。一流の人間を相手に、じっとしていられることがすでに見事なのだ。
寝技で下になっても、Clemencyは確実に防御を続ける。他のロボットならば、数あるパターンの中から脱出の術を何か試すところだろう。しかしClemencyはまず、負けないことに専念する。これまで何体の敵が
スパーリングとはいえ、一流の選手たちがロボットにタップする光景は見る者を戦慄させた。中には協力を約束しておきながら、いつの間にかいなくなっている者もいた。
「Jim、私の調子はどうですか」
それは、Clemencyの口癖だった。相手に勝つ度に、ClemencyはJimに向かって確認をする。
「絶好調だよ。何も心配はない」
そしてJimにそう言われると、表情のない頭で大きく頷く。これも入力された動作なのだが、すでにClemency固有の儀式のようになっていた。
「もうすぐ……もうすぐ、世界が獲れる」
Jimは、勝利を確信して微笑んだ。Clemencyも、再び大きく頷いた。
他方その頃、森澤ジムの前には軽トラックが一台やって来ていた。荷台には直方体の大きな段ボール箱が積まれている。
運転席から下りてきた森澤は、何人かに手伝わせて荷物をジムの中に運び入れた。すでに一階のリング前には応樹を始めジムのメンバーたちとマスコミが何人か待ち構えていた。
「出来立てほやほや、特注品だ」
ダンボールから出てきたのは、ぴかぴかのロボットだった。しかし一切動くことはない。データ入力がされていない、空のロボットなのである。
いっせいにフラッシュがたかれたが、応樹たちは意に介さず、さっさと自分たちの作業を進めた。ロボットをリングに上げる間、応樹は肘や脛に硬めのプロテクターを装着していった。ロボットと対戦するに当たり、協議の結果ルールで決められたものである。そして最後に、オープンフィンガーグローブに手を通し、自らもリングに上がった。
森澤がロボットの姿勢を整え、応樹もその前で背筋を伸ばした。森澤がロボットの頭を押さえつけ、応樹も頭を下げる。
「どうだ、対峙してみた感想は」
「正直、ただのロボットです」
「だろうな」
Clemencyに似せては作ってあるものの、中身のないロボットに威圧されることはなかった。応樹は前に進み出ると、ロボットと握手をしてみた。
「硬いですね。あ、こっちにもグローブ付けてください」
素手のロボットに殴られる姿を想像して、応樹は苦笑した。鎧兜で戦えばどうか、などとどうでもいい想像を巡らしてみた。
その後森澤と応樹は、ロボットを使いさまざまなシュミレーションをこなした。パンチやキックの間合いを確かめ、上に乗られたときの重さを実感した。そして力を込めて殴ってみた。
「体も固いですね」
「どうする、打撃じゃ無理か」
「だったら俺の出番じゃないでしょう」
応樹は、何度かハイキックを試した。彼のもっとも強烈な武器であるそれは、ロボットの頭上を何度も越えていった。
「おいおい、これはClemencyと同じ身長に作ってあるんだぞ」
「いいんです。ハイキックで仕留めるとは限りませんし」
練習は、淡々と続けられた。次の仕事もあるマスコミたちは、日が落ちる頃には誰もいなくなっていた。
「さて、これからが本番、か」
深い息を吐き、応樹はロボットの顔を見つめた。何度見ても、敵対心の沸かない、のっぺりとした顔だった。
次の日のスポーツ新聞の一面には、こんな記事が踊った。
応樹豪語!「Clemencyも、正直ただのロボット」
自信の表れ!「別にハイキックじゃなくても倒せる」
「Jimは相当怒っているだろうなあ」
記事に目を通すと、感慨深げに森澤は呟いた。その一方応樹は、そわそわとしており、時折玄関のほうを眺めていた。
「気になるのか」
「えっ」
「あれ以来こないもんなあ、司ちゃん」
「……別に気にしてませんよ」
司は毎週水曜日は欠かさず練習に来ていた。今日がその水曜日なのだが、あと三時間で木曜日になる。
「別に怒ってはないと思うけどなあ。あれは司ちゃんなりの応援だったんじゃないかな」
「だから気にしてないですってば」
応樹はそれきり黙りこくってしまった。手と足は動いているが、やはり目だけはちらちらと玄関を見ていた。
そして、結局、司が現れることはなかった。
新潟ドームを借り切って行われたロボ権のイベントは、いつにない盛り上がりを見せていた。メディアに露出することにより認知度が上がり、一般からの参加が大幅に増え、またマスコミも数多く集まったのである。
会場内にはロボットはいるものの、自由に動き回り労働に従事することがない。入り口の看板にはこう書かれている。「どなたもご参加自由! もちろんロボットも!」
会場の様子を見回し、貝塚は非常に満足そうな笑顔をしていた。昨日は不快なスポーツ新聞の記事に激怒したものの、今ではすっかり落ち着きを取り戻している。
そして、人々が最も多く集まっている場所に、貝塚は向かっていた。そこにはリングが設置されており、予告はしていないものの、誰もがゲストの存在を信じて疑わなかった。
そして、開場に突然大音量の曲が流れ始めた。リング前の熱気は増していく。Clemencyの入場曲だ。
そして、いつものようにClemencyは登場した。派手な演出は何もない。幕をくぐったロボットは、一度だけ右腕を高く掲げた以外は、ただ淡々と歩くのみだった。
会員たちは崇拝するように、尊敬するように、懇願するようにその姿を見つめていた。それ以外の人たちは、ある者は敵視し、また別の者は興味本位だけで眺めていた。
「今日は、格闘家のClemencyです」
滑らかな音声が響き渡った。ロボットたちを見慣れた人々にとっても、今この瞬間のClemencyの立ち振る舞いは驚嘆に値するものだった。入力されたとおりに動くのではなく、自らの選択で動き、話し、時には首を傾げて見せる。それを見たほかのロボットたちが、慌てて人間らしく振舞おうとして逆にギクシャクしてしまうほど、Clemencyはその存在感を周囲に撒き散らしていた。
「今日は私たちロボットの権利を守ってくださる皆様のため、是非挨拶をと思い一人でやってきました」
会場がざわめきに包まれた。内心人々はJimがいつ出てくるのかと訝しがっていたのである。いくらロボ権主催イベントとはいえ、ロボットが一人で新潟までやってくるなど前代未聞だった。
「ご存知のとおり、私は今度人間の王者、柏木応樹と試合をします。かつてない強敵との勝負にわくわくしています。ですが、使命を帯びて緊張していることも確かです。私たちロボットは、まだ市民権を得ていません。人間に劣ると思われているのです。私たちは誓って言いますが、人間を憎んでいるのではありません。ただ、友人になりたいのです。どうか、今度の試合、私の戦いぶりを見ていてください。ロボットも感動を与えられることを、お約束します」
完璧だった。あまりの完璧さに、誰もが一瞬、Clemencyがロボットであることを忘れ、そしてロボットだから完璧にこなすのだ、と思い直すのだった。
「そして、今日は皆様に、見てもらいたいものがあります」
Clemencyがそう言うと、リング上にマネキンが運び込まれてきた。顔は描かれていないが、その体型の
「まあ、見ていてください」
マイクを手放したClemencyは、左足を大きく振り上げた。空気を裂き分ける冷たい音が、波打っていく。そのままハイキックは右側頭部に直撃し、マネキン人形は吹っ飛ばされ、リングの下に落ちた。
歓声も起きなかった。驚愕に満ちていた。ただ一人、貝塚だけが小さく、頬を緩めていた。
「ハイキックじゃなくても、倒せますけどね」
地声でそう言うと、Clemencyはリングを後にした。観衆は理解していた。Clemencyは、怒っている。
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