三年前まで薄汚く狭い大学の一室を居場所としていた倫理学者は今、東京のど真ん中、ツインキャッスルの南三十五階に研究室を構えていた。家賃月三百万円のその部屋には、研究者だけでなく事務員や会計士、そして弁護士までもいた。他の倫理学者が見れば卒倒するか眉をひそめるかだろうが、貝塚美津之みつゆきの名を聞けば誰もが納得するのだった。

「先生、会見のお時間です」

 美しく若く、そして聡明ででしゃばらない女性秘書が、貝塚に声を掛けた。貝塚は落ち着き払った様子で小さくうなずく。そして両目からコンタクトを素早くはずし、ゆっくりとふちなしメガネを掛けた。

 貝塚とその秘書は、研究室を出てエレベーターに乗った。ツインキャッスル南八階には共同会見場があり、二人はそこに向かっていた。

 彼らより先に、もう一人の主役が共同会見場に到着していた。逞しい体躯の中年アメリカ人は、いつも通りにタキシードを纏っていた。今日はロボットを連れていない。

 暫くして、貝塚も姿を現した。Jimよりも若いはずだが、老獪さに満ちた顔つきは、年齢を推測することを困難にしている。その目つきは眼鏡の奥に隠され、感情も窺い知れない。

 貝塚はJimの横に立った。背は低く、そして猫背だ。体の線も細い。しかしそこにいる誰もが、彼を小さいとは思わなかった。彼の著作が、発言が、そして肩書きが、彼のことを実際よりも大きく見せていた。

 記者やカメラマンといったスタッフの反応は、二つに分かれていた。一つは、何かを期待し、じっと会見を待つ人々。そしてもう一つは、嫌悪感たっぷりの目つきで、宿敵を迎えるかのような顔で構えている人々。普段にはない、色のある感情が、会見場の中に渦巻いていた。

「それでは、会見を始めたいと思います。個別の質問の方は後ほどうかがいますので、ご了承ください」

 いつも通りのロボットヴォイス開始合図ではなかった。生身の男性の、生の声だった。それには意味があった。

「貝塚先生、お願いします」

 貝塚は会場を見回し、一つ頷き、そして少し口許を緩めた。フラッシュがその端正な顔を照らす。

「皆様、お待たせいたしました。『ロボットの権利を獲得する会』代表、貝塚美津之です。本日は私どもから皆様にお伝えしたい事があり、こうしてお集まりいただきました。

 ご存知の通り、私たちはロボットにも人間と同等の権利を与えるべきとこれまで主張してきました。全世界百七十万人あまりの会員がおり、現在のロボットの奴隷化に反対する活動をしていますが、いまだにロボットに対する酷使は止むところを知りません。これまで申してきましたとおり、ロボットは危険信号ファーストサインを判断基準とし行為の選択をしています。これは苦痛を避ける行為といえ、功利主義的には権利を認められるべき存在なのです。現在動物にさえこの権利を認めている私たちにとって、ロボットに認めないというのは暴挙と言うより他ありません。

 そこで皆様、今回のこの世紀の一戦を、しっかりと見届けていただきたいのです。無論、Clemency選手と柏木選手の一戦です。Clemencyは自らの誇りに掛けてこの一戦に臨みます。その姿を見てもなおロボットはただの機械だといえるのか、私は皆様に問いたいのです。いわばこの一戦は、ロボットの尊厳を賭けた戦いなのです」



 会見はその後も続いたが、応樹はテレビの前から立ち去ってしまった。森澤はその姿を目で追っていたが、何も口には出さなかった。

 応樹が三階に上がると、丁度清掃ロボットが働いているところだった。彼らは無言のまま、黙々と作業を続けていた。調理ロボットの方は休憩中だ。彼らは何も不満を言ったりはしない。人間に勝負を挑む事もない。ただ、インプットされた通りに行為するだけだ。

「通過点かなあ」

 すでに、能力において清掃や調理はロボットの方が勝っていた。格闘技でも、「魅せる」ことを度外視すれば、人間より強いロボットなど簡単に作ることができる。

「権利とか、関係ないだろ……」

 下の階から、ミットを叩く鋭い音が聞こえてくる。応樹はそれが誰のものかを知っていた。応樹は清掃ロボットの肩をぽんぽんと叩き、下の階に下りていった。

「あ、今日は。お邪魔してます」

 明るく朗らかな笑顔、溌剌とした声、そして小柄だがしっかりと筋肉の付いた体。

「こんにちは、つかさちゃん」

「元気ないですねえ。そんなんじゃClemencyの餌食になっちゃいますよ」

 応樹は引きつった笑みを浮かべた。

「本当に、びびってるよ。受諾するんじゃなかった」

「そんなあ。だって応樹さんは格闘技界の王様なんですよ。どっしりとしていてくださいよ」

 そういって司は応樹の胸にチョップを叩き込んだ。シャツの上からだったが、重たく乾いた音が鳴り響いた。

「いってー」

「あ、ごめんなさい」

 司のチョップは本物だった。何故なら彼女、長坂司は、舞憐ぶれん女子プロレスに所属する若手女子レスラーなのである。

「いやいや、たいしたことない」

 司は、週に二度ほど森澤ジムに通っていた。舞憐女子プロレスは新興の小規模団体で、練習設備も整っているとはいえない。特に打撃に力を入れたい司にとって、このジムでの練習は非常に重要な時間なのである。

「応樹さんは本当に強いんだから。普通にやれば勝てますよ」

「ありがとう。頑張るよ」

 言葉とは裏腹に、応樹の体は強張っていた。これまでにない重圧プレッシャーが、彼本来の気楽さを完全に殺してしまっていた。女の子の声援一つぐらいでは、どうにもならなかった。

 テレビの中では、Jimが話し始めていた。世間は、じっと注目していた。




 どれ程社会が進んでも、田舎の風景はそれ程変わらない。

 三年ぶりの故郷に、応樹は手ぶらでやってきた。

 狭い砂利道は、柿の木々を縫っている。

 応樹にとってここは、子供の頃の遊び場であり、両親の職場であった。そして今は、少し居づらかった。

 視線の先には、木造平屋の大きな建物、柏木家があった。第一次産業従事者が極端に減少する中、ロボットを使用した大規模農業経営においては農作物ごとの独占経営化が進行した。例えば柏木家は県下の柿生産をほぼ独占していた。それでも大金持ちというわけではない。極端な大量生産でしか儲けが得られないほど、農業は採算の悪い職業となっている。

 応樹は生家が大きく見えてくるに従い、歩みの速度を緩めていった。そして100mほど手前で、完全に止まってしまった。

 かつての住処を、遠い目で見つめた。何も変わっていないことが、応樹の存在を浮き上がらせていた。時折、ロボットの運転する軽トラやトラクターが応樹の脇を通り抜けていく。かつてとは違い、応樹のことを特別な固体とは認識しない。

「ここじゃないな……」

 応樹は首を横に振ると、踵を返そうとした。そして振り返った先に、一人の青年の姿を見つけた。

 顔のパーツは全て応樹と同じだった。ただ、顔も体も、全てが骨太だった。

ひで……」

「兄貴、何しに来たんだ」

 柏木秀次は、険しい表情を崩さなかった。応樹は、ため息をついた。

「なんでもないよ。ただ、ちょっと寄っただけだ」

「帰ってくれ」

 にべもなかったが、応樹はじっと耐えていた。こみ上げる思いは、自らの意思で鎮めなければならなかった。弟との思い出は、過去の遺物として尊重しなければならなかった。現実は、理解していた。

「いまさら何しに来たんだ。こんなとこ来てる暇あったら、世界中に恥かかないようにトレーニングでもしてろよ」

「わかったよ。そうするさ」

 応樹は弟の脇を通り抜けていった。立ち止まる事はなかった。

「いいか、あんたが負ければ人間全体の汚点になるんだ。ただでさえ柏木家の恥さらしなんだ。もし負けたら、二度と柏木の名を名乗らないでくれ」

 拳が震えていた。しかし、応樹はその凶器を鞘から抜くわけにはいかなかった。

「そう思ったから、見に来たんだよ。二度と、ここには来ないだろうから」

 どんな顔でその背中を見ているのか、応樹は知らないまま立ち去った。故郷の風は、去り行く彼の背中を押し続けた。

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