前人未到のハイキック

清水らくは

 大画面モニターに映し出される二つの棒線グラフでは、常に二体の危険信号ファーストサインが読み取れるようになっていた。一方の青い線は底辺で一定レベルを保っているが、もう一方の赤い線は中ほどから制限値ギブアップ付近ラインまでを激しく往復していた。そのことが示すのは、試合が一方的ワンサイドである、ということだった。

 観客の熱狂も、どこか予定調和的だった。チャンピオン王者のClemencyクレメンシーは、見事な流線型のボディを曲線的に操作し、挑戦者チャレンジャーの攻撃をことごとくかわしていた。誰の目にも実力差は明白であり、楽しみはどうやって試合が決まるのかの一点に注がれていた。王者は入力インプットされたとおりに、確実な好機チャンスが訪れるまでは勝ちを急がなかった。相手も弱いわけではない。隙を見せれば一気に極めにかかれる技が入力されているのだ。しかしClemencyは落ち着き払っていた。隙を、見せなければいいのだ。

 焦っているのか、挑戦者はタックルを繰り返してくる。王者はそれを軽くあしらう。上から潰し、有利な位置ポジション確保キープする。首を抱え、膝蹴りを数発見舞う。逃れようと身をねじるところを、上手く捕まえ、絶好の位置取りマウントポジションを獲得する。上から殴り、あわよくば腕を取ろうとする。挑戦者の危険信号の値が、次第に高まる。

 Clemencyは、一瞬全ての動きを止めた。観客もつられ、息を飲んだ。そして挑戦者の腕をつかむと、体を反転させ、腕十字に移行した。もがく相手の動きに合わせ、あっさり腕を放すと、次には素早く足を取っていた。がっちりと裏膝十字に捉えられ、挑戦者は動く事すらできない。危険信号が、制限値を越えた。ゴングが鳴り響き、王者の勝利が告げられた。

 駆け寄った王者側のセコンドが、Clemencyを抱き上げた。負けた挑戦者側のセコンドは、必死に冷却材をあてがっていた。会場は盛り上がりを見せたが、熱気には程遠かった。多くの人が溜息を漏らした。どこか、冷えていた。人々が求めるのは、期待を裏切らない強さとともに、期待を裏切られる興奮だった。

 セコンドの中で、タキシードを着た長身の男がマイクを渡された。短く刈られた金髪、すらっとした頬、歳は中年だが、体付きは非常にがっしりしている。彼、Jim ジムSimonsシモンズを知らぬ者はこの会場にはいない。かつて格闘技界を熱狂の渦に巻き込んだ、伝説を作り上げたうちの一人である。

「皆様、本日はどうもありがとう」

 流暢な日本語だった。しかし、誰もそのことに驚きはしない。

「今日もこうしてClemencyは勝つ事ができました。勿論幸運のお陰です。しかし、次のことも事実です。もはや、彼を脅かす者も少ないということも。なので」

 毎回恒例のことだった。もはや主催者には対戦相手を指名する権限はない。王者側の要求する相手が、即次期挑戦者候補になる。

「次の挑戦者は、本人の口から言ってもらいます」

 JimはClemencyにマイクを渡した。

「次に私が挑戦するのは、柏木応樹おうじゅだ」

 いつもなら歓声なりどよめきなりが起こるところだった。しかしほとんどの観客があっけに取られていた。もしくは反応の仕方を思いつかなかった。予想できようはずのない名前、しかし誰もが知っている名前が呼ばれたのである。誰かが呟いた。馬鹿げている、と。

「もはやロボットには、敵はいない。人間のチャンピオンに、私は挑戦する」

 冷たさが、更に増幅したようだった。そして、誰もが一点を見つめた。一人の青年が、やはり呆気にとられている様を、皆が注目した。しばらくしてその男、柏木応樹はゆっくりと息を吐き出した。

 再びマイクはJimの手に戻った。愉快そうな声で、言った。

「一番強い者を決める戦い、見たくはないですか。私はすごく見たいです」

 応樹、誰かが呟いた。応樹、誰かが応えた。応樹、何人かが呟いた。応樹、多くの人が応えた。応樹、応樹、応樹、応樹。応樹コールが湧き上がった。

 応樹は戸惑いながらも立ち上がった。彼の名を呼ぶ観衆の熱意が、自然と彼の足を動かした。花道に上がる時には、王者の顔になっていた。そして、総合格闘技The BESTのミドル級チャンピオンが、ロボット格闘技For Futureのリングに足を踏み入れた。

 応樹は、まっすぐにJimを見つめた。かつて世界中から応援された男。かつて何度もベルトに挑戦し、そして敗れ、それでも支持され続けた男。そして今、ロボット格闘技界においてもっとも優秀な育成者オーナー

 ロボットの技術は、育成者の技術であった。ロボットの主体性は、育成者の主体性でもあった。応樹は、本当に戦うべき相手に向かって行ったのだ。

 リングアナが、新しいマイクを応樹に渡した。応樹は、初めてちらりとClemencyを見た。そのレンズは、紛れもなく王者のものだと応樹は感じた。

「ちょっと、未だ整理ができないんですが……今日は、個人的に観戦しに来ました。楽しかったです。ただ、まさかこんなことになるとは思いませんでした。僕としては今は何と言っていいか……」

「即答は望みません、Mr.Kashiwagi」

 Jimは余裕たっぷりだった。まるで、答えはわかっている、とでも言いたげに。

「ですが、最強は、二人はいらない、人間の格闘家は常々そう言いますがね」

 そう言うや、Jimはマイクを投げ、リングを下りた。Clemencyもそれに続いた。

 一人残された応樹は、ばつが悪そうに周囲を眺めた。観客も、どうしていいのかわからない様子だった。

「時間を下さい。少し、考えないといけない」

 結局、For Future、通称ffフォルテッシモの17回目は、中途半端な空気のまま幕を閉じた。



 いつも、森澤ジムの中で一番朝早く訪れるのは応樹だった。毎日、早朝に玄関を掃除する応樹の姿がレンズによって目撃されている。しかしこの日は違った。朝早くから、様々なマスコミが建物を囲んでいた。

 そして、やってきたのは森澤臣至しんじ。会長だった。

 瞬くようなフラッシュがたかれる。いくつものマイクが向けられる。雑多な質問が浴びせられる。しかし胡麻塩頭の会長は、泰然自若としていた。ただ一言、

「何も決まってないよ」

 とだけ言った。

 扉をぴしゃりと閉める。そして、電気をつける。

「応樹、えらいことになったな」

「ほんとですよ」

 道場の隅から、寝ぼけた声がした。寝袋にくるまった応樹が、眼をこすりながら起き上がった。

「自宅まで来るんですよ。何考えてるんだか」

 応樹は髪を掻きむしりながら苦笑した。

「何も考えとらんよ、うちらの事など」

 二人は箒と塵取りを手にして、ジムの中の掃除を始めた。一度練習が始まれば掃除ロボットの仕事となるのだが、朝一の掃除は儀式のようなものだった。

「で、お前はどう思ってるわけ。やるの、やらないの」

「そうですねえ」

 応樹は、箒を動かすのを止めて、斜め上を見上げた。

「正直どうしたらいいものか」

「いいことを教えてやろう」

 森澤もまた、手を止めた。

「その昔、チェスの王者チャンピオンとコンピューターが対戦したことがある」

「へえ。その人は無茶をしたもんですね。コンピューターに挑むなんて馬鹿げてる」

「まあ、今じゃ全くそうなんだが、当時はまだ人間の方が強かった。強いと信じられていたと言うべきかな。で、初めて人間の王者が負けて、そのニュースは世界中で話題になった。計算では負けても、複雑な思考を必要とするゲームでは負けたくなかったわけだ」

「そんなもんですか」

「将棋に至ってはそれから三十年を要した。持ち駒を使うからな。やはり人間の名人がコンピューターに負けた時もすごい衝撃だったよ。俺はまだ子供だったが、親父は相当複雑な顔をしていた」

「つまり、格闘技でもその時は来ると言いたいんですね」

「むろんそうだし、そうでない。なぜなら、やろうと思えばロボットが人間に勝つのは簡単な事だからな。制限値設定リミッターをはずせばいいんだから。誰が走っても車には勝てない。それだけに特化させれば、機械は人間の能力を簡単に超えるものだ。格闘技でも、最高馬力でぶん殴れれば、勝負にならんよ。しかしロボット格闘技は、最初から人間の規格を前提にしている。制限値設定内で争う純粋なゲームだ。どれだけ人間に近づけるか、それがロボット達の実力になる。そもそも人間に勝つためには存在していないのだから、人間には勝てないと考えられる」

「そうですかねえ。単純に奴等は固くて頑丈そうですけどねえ」

 しばらくたっても外は騒がしい。マスコミたちは相変わらずどうにかしてコメントを手に入れようとしていたが、森澤も応樹も相手にしようとはしなかった。次第に他の会員達もやってきたが、まっすぐにジムの中に吸い込まれていった。

 森澤ジムは、本来はキックボクシングのジムである。応樹の成功により総合格闘技の環境も整えられたが、最大の目的はキックボクシングの王者を作ることだ。森澤もキックの出身だし、応樹も元キックの王者である。

 いつもと変わらぬ練習内容だったが、どこか皆上の空だった。誰かが鉄アレイを転がし、他の者が一斉に振り向いた。

 応樹はずっと二階でサンドバックを蹴っていた。鈍く重たい音が響き渡る。雑念が混ざっても、案外その鋭さはそがれないものだった。しかし、正確さは失われていた。ローキックが空振りし、バランスを崩してこけてしまった。

 応樹は汗を拭き、首を振り、そして三階の食堂に向かった。森澤ジムは専属のシェフと栄養士を雇っており、それぞれの状況に応じた食事が提供されるようになっていた。

 応樹はそこで早い昼食を採った。他には誰もいない。

 そう、誰もいなかった。応需を悩ませる事。前には誰いない。迫り来る者も、誰もいない。完全な一人旅は、やる気テンションの維持にも影響を及ぼす。強い敵が欲しい。切実に応樹は願っていた。そしてそれゆえ、Clemencyの気持もわかる気がした。

 テレビの中に自分の顔が映っていた。ロボットの顔が映し出される。応樹は凝視した。そこには、二人の格闘家の顔があった。

「やってもいいかなあ」

 あまりやる気のない呟きだった。



 都市交通は幹線道路を縫うように走っている。多くはモノレール方式の電気稼動車両で、ほぼ自動運転されている。都市内は私有車両進入禁止となっているので、市民は都市交通か地下鉄を使用することになる。下車してから目的地までは、徒歩かタクシーを使うことになるが、今ではすっかり皆歩くことに慣れていた。ロボットの発達により人々の労働時間は短縮され、あくせくと動き回る必要がなくなった。経済発展の沈静化こそが、地下資源が残りわずかとなった中では求められていた。

 夕方の車内は、人もまばらだった。応樹に気付いている人もいたが、あまり興味はなさそうだった。服を着ていれば、ただの背の高い若者の一人にしか見えない。

 都市交通は異様なほどに静かに走る。車窓からは中央分離帯の木立が見える。車内アナウンスが、次が終点だと告げる。

 終着駅の先には広大な都市公園があり、所々に露店が出ている。会社帰りのサラリーマンや、草サッカーを楽しむ子供たち、おしゃべりにいそしむ主婦。目立たないように緑色に塗られた防犯ロボットが時折循環し、治安を守っている。

 応樹はあてもなく公園の中を歩き回った。彼は、子供の頃からこの公園が好きだった。空手に明け暮れた幼少期。野球に浮気した青年期。キックボクシングに出会った学生時代。大学を中退し、それ以降格闘人生まっしぐらだった。何時も変わらず、悩んだ時は此処に来た。通り抜ける風が、淀んだ気持を運び去ってくれるように感じたのである。

 いつのまにか、応樹は負ける事を知らなくなっていた。

 試合に出始めたころは、それほど目立つ選手ではなかった。器用ではないし、パンチが下手だったのだ。しかし、例外なく対戦相手が長期欠場することになったのである。しばらくして森澤は気が付いた、応樹のキックは異様に力強いのだ、と。応樹と対戦した相手は、打たれた場所だけでなく、ガードした腕をも痛めていたのである。

 次第に応樹は、異常に力強いキックを中心に組み立てる選手として活躍していった。ガードの上からでもガンガンと打ちこんでいく。彼は、瞬く間にチャンピオンへと駆け上がっていった。

そして、キックボクシングのチャンピオンは、声を掛けられた総合格闘技のイベントに何の気はなしに出てみた。少しだけ寝技の練習もしたが、立っている間に勝負を決める気だった。当日、世間にとっては無名である彼は、観客の反応で初めて自分の立場を知った。小さな団体のキックの世界チャンピオンは、柔道五輪メダリストへの噛ませ犬だったのである。応樹は、花道で震え上がってしまった。ノックの時にグローブをしないようなもの。頭に浮んだのはそんな事だった。殴る、蹴る、肘打ち、膝打ち、様々な勝ちパターンを想像したが、それでも恐怖を拭い去る事はできなかった。何千万人が見守る中一度も負けなかった寝技使いが、打撃でちっちゃな集団のトップを取っただけの人間をねじ伏せに来る。その事実を実感するにつれ、応樹の足はよりいっそう重くなっていった。

セコンドに付いた森澤や総合のコーチも、応樹の様子を見て半ば諦めてしまった。森澤は、二度とこのような陽のあたる場所には出てこまいと誓った。求められていたのは、打撃系のチャンピオンであるという、肩書きに過ぎなかった。誰も応樹に対して期待していない。柔道の英雄が、いかにして子ウサギを仕留めるかが楽しみだったのだ。だから、森澤は応樹に対して言った。「さっさと決めて来い」さっさと決められて来い、という意味で。一刻も早く、その場を立ち去りたかったのである。

リングに上がると、静寂が訪れた。大舞台に似つかわしくない、世間には無名の男。一部のコアな格闘ファンだけが、応樹の名を叫んだ。応樹は、立ち尽くしていた。観客が息を呑む音が聞こえた。相手のコール。そして大歓声。恐怖が、怒りに変わった。勝利の為に努力して来た日々が、応樹に誇りを思い出させた。勝負である以上勝たねばならない。こんな出来レース、ぶっ潰さなきゃならない。

ゴングが鳴った。胴着を着衣したままの敵が、両手を伸ばしてくる。間合いがわからない。練習してきた事が、全て頭から抜けきっている。だが、奇跡的に、森澤の必死の叫びがそのまま耳に入ってきた。

「相手も打撃は初めてなんだ、しっかりしろ!」

 瞬間、肩の力が抜けていった。相手の構えが滑稽に思えてきた。応樹は、格闘家としての顔を完全に取り戻した。

 応樹は右足を振り上げた。柔道家もハイキックやローキックの対策を積んで来たのだろう、それなりの防御姿勢が出来ていた。しかし、応樹はそのまま足を前に突き出した。踵が、柔道家の肘と衝突する。それでも世界を制した男は平気な顔をしていた。しかし、勝負はすでに付いていた。肘は、破壊されたのである。

 間合いに入ってきた応樹を、当然柔道家は捕まえに来た。しかし応樹は首相撲の態勢から膝蹴りを繰り出した。思わずあとずさる柔道家。そこに狙いすました左ハイキック。とっさに柔道家はガードしたが、今度は右手が悲鳴を上げた。

 場内がざわつき始めた。それでもほとんどの者が、台本通りの結末を期待していた。必死で伸ばされる両手。しかし応樹は休まなかった。パンチも出していく。相手がガードをするのを確認してから、懇親の力で打っていった。相手は素人だ。しかし、こちらも素人だ。応樹が出した結論は、先制、そして勝ちにこだわるという事だった。

 柔道家は焦っていた。教わった通りにガードしているのに、ガードしたところが痛いなど考えてもみなかった。花道のはずだった。勝てる相手を、とわざわざ断ってからオファーを受けたのだ。約束が違うと思った。

 応樹は攻撃をローキックに切り替えた。お膳立てが全て整ってから、セオリー通りの攻めを開始したのだ。柔道家の足が完全に止まった。そして、応樹は的確に間を取り、攻撃の手を休めた。相手はもう出て来られない。誰の目にも、勝敗は明らかだった。そして、タオルが投げ込まれた。

 そんな衝撃のデビューから五年。まじめに寝技を勉強した甲斐もあって、応樹はミドル級無敗の王者となった。目指してなったのではない、気付いたら足を踏み入れていたのだ。

 あのときから、何が変わったのか。少なくとも公園は、何も変わっていなかった。応樹は、時間の経過を探し求めた。空に、風に、空気に。しかし、変わったのは自分だけだった。歳を取った。有名になった。金持ちになった。そして、鈍感になった。

 応樹は、ジムに電話を掛けた。

「俺、やるよ」

 はっきりと、そう言った。

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