第36話 蛾泉と蠍火
ガチャッ。
前触れもなく、多賀の部屋ドアが開かれた。
李の護衛二人は、すかさずスーツの内側に手を入れ、拳銃のグリップをつかむ。
部屋にいた四人は口を開けたまま、ドアを注視した。そこには誰もが思いもよらぬ人間が立っていたのだ。女性である。
多賀は驚いた表情のまま、中腰になっていた。
紫色に輝くカールしたロングヘア、艶めかしいアイシャドウにルージュもパープル。しかも革製の袖なしジャケットにミニスカート、ロングブーツにいたるまで、すべて紫色。
和と西洋の血が混ざった色気のある顔立ちに、スカートからのぞく白い大腿部。
「あ、あんたは誰だい? 何しにきた」
女とわかったとたん多賀はソファに座り直し、好色そうな目つきで女、蛾泉に問うた。
蛾泉は入口のドアに片手をかけ、両足を交差させて立っている。
すでに部屋にいる四人の男たちは、蛾泉の立ち姿に心を奪われ始めていた。鼻孔を直接刺激するわけではないのだが、麝香に似たフェロモンが蛾泉の身体から湧き出しているのだ。脳を直接痺れさす、官能の香り。
魔奏衆の操術のひとつだ。
「ふふん、どうだえ。堪らないだろ、おまえさんたち。私にかしずくなら、もっと気持ちいい世界へ
蛾泉は両手で自ら髪を、下からすくいあげた。
紫色に光る髪が、まるで細い毒蛇がうねるように宙で弧を描く。
役員室の蛍光灯が、バチッとはじけて消えた。
夜光塗料を全身に塗ったように、蛾泉だけが闇に浮かび上がる。
男たちの脳は、二つの指令を出していた。目の前に立つ女は尋常ではない、早く逃げろ! と。もうひとつは、媚薬のような女の香りにもっと包まれたい、と。
四人は額に脂汗を浮かべ、苦悶ともとれる形相で身動きできずにいる。
「この中に、大将がいるのだろう。誰だい」
闇に浮かぶ紫色の蛍光色。蛾泉は眼を細めた。
李と配下の顔が、ギリギリと音を立てるように多賀に視線を送る。多賀は否定しようと首に力を入れるが、動かない。
「そう。あなたが総大将なのね。ふふふっ、今までのお返しをたっぷりさせていただくわ」
蛾泉のロングブーツの音がカツン、カツンと響く。
「馬鹿ねえ。鹿怨さまや私たちに逆らおうとするなんて。今までもそんな人間はいたけど、みんな地獄で永遠にさまよっているわ。
亡者としてさあ」
多賀は何を言われているのか、皆目見当がつかなかった。しかし、口も身体も痺れていて自由がまったく利かない。
「ご存じかしら、魔奏衆の狂楽の接吻。うふふ、あなたが味わったことのない強烈な快感よ。一気に天国に昇らせてあげる」
蛾泉の顔が多賀の目の前に迫る。
「でも、その後は、地獄へまっしぐら。さあ、おいで」
蛾泉は紫色に淡く輝く両手で、多賀の顔を優しく包む。
ペロリ、蛾泉の舌が爬虫類のようにくちびるからぬめり出た。
~~♡♡~~
横腹に大きな傷を負ったミニクーパーが東郷町にあるゼペット爺さんの工場へたどり着いたのは、日付の変わる一時間ほど前であった。
珠三郎は相変わらずの超法定速度で走ってきたが、パトカーに追われることはなかった。
警察は神出鬼没の暴走族の追跡に、やっきになっていたからだ。
いつもはこの工場も午後六時にシャッターを下ろしているが、ここ数日は一昼夜灯りがついていた。
「いやあ、精がでますなあ、ゼペット爺さんにミカエル」
珠三郎は重たい身体を、よいしょと車からひねり出した。
工場の中では大型扇風機をフル稼働させながら、ゼペット爺さんと弟子のミカエルが作業中であった。旋盤、溶接と二人は忙しく走り回っている。
「おう、いとしのタマチンの、ごらいじょーでーす」
ミカエルが溶接用のサングラスをかけたまま、ふり向いた。
「水ようかんを、差し入れしまーす」
珠三郎はコンビニの袋を高々と持ち上げた。
「ちゃんと、栗入りじゃろうな」
ゼペット爺さんは首に巻いた日本手ぬぐいで、汗の浮かんだ額にあてる。
「もっちろんさ。栗入りと抹茶味だよーん」
珠三郎は深呼吸し、機械油の匂いが充満する空気を思う存分吸いこんだ。
「ところでね、ちょっと時間がなくなってきちゃってさあ」
「時間? まだ完成しとらんぞい」
やすり掛けしていた手をとめ、ゼペット爺さんが珠三郎を見上げる。
「うーんと、でも九割がた出来ているよねえ」
「そりゃそうだが、肝心の実験がまだじゃからな。うまく機能せんかったらいかんぞね。それに頭の部分は、ほれ、まだ作成中じゃわい」
「実験か。いいよ、ゼペット爺さん。本番で実験を兼ねるから。ヘルメットもなかったらないで、なんとかするしー」
「本番って、いきなり使用するんかいな」
「うん。いきなり、やっちゃうことにしたんだよーん」
ゼペット爺さんはしかめ面で、腕を組んだ。
「ミカちゃんや」
「はーい、あるじ。ここにおわしますぞ」
「アレを持ってきてくれんかの」
「りょうーかい、されますー」
ミカエルは金髪に汗を光らせながら、事務室へ走った。
「ふむ」
何やら考え込む白髪に目をやりながら、珠三郎は口を開いた。
「大丈夫だよお、天才タマさまと、稀代の神職人ゼペット爺さんがタッグを組んだのだからさあ。まあ、NASAとペンタゴンの技術が半分入っているけど、けど」
陽気な珠三郎に、ジロリと一瞥をくれる。
「わしが気になるのは、アレの具合なんじゃねえぞ。まあ、わしが九割といやあ、もう完成しとるのと同じじゃい。
それよりも、あんなモノを使うて、何をやらかそうちゅんじゃい」
「えっ、何をって、それは秘密でーす」
「まだ首から上の部分は、形状を記憶させておらんから使えないんじゃが。首から下はパーフェクトに出来あがっちょるわい」
そこへミカエルがもどってきた。
「あるじー、タマチーン、おまたせされましたあ」
ミカエルの手には銀色にきらめく幅五センチ長さ六十センチほどの、しなやかな板状の金属が三枚握られていた。
~~♡♡
N市内。
十台の改造オートバイがすさまじい排気音をたて、国道百五十三号線を爆走していた。その後方から、三台の県警交機隊のパトカーがサイレンを鳴らし追跡してくる。
「オートバイ、停車しなさい! すみやかに減速せよっ」
先頭を走るパトカーの拡声器から、警官の怒鳴り声が夜の国道に響き渡る。最後尾のオートバイのタンデムシートにまたがっているのは、青いメッシュを入れたボブカットの蠍火である。全身青いコスチュームだ。
「おうおう、また官憲どもかいね。私ゃ、しつこい殿方は嫌いだよ」
蠍火は猛スピードで疾走しているにも関わらず、青い革ジャケットの懐から木製の横笛を取り出した。蠍火の奏でる笛の音は、もちろん風圧によって聞き取れない。
「あいつら、いっこうに停まる気配がないですね」
先頭車両でハンドルを握る若い警官が、横に座る中年の警官に言う。
「構わないから、このまま突っこんで引き転がすか」
中年警官は、正義の人とは思えない暴言を吐く。
バチッ! バチュ!
奇妙な音に、警官たちは首をかしげた。
「これ、虫が飛んできてフロントガラスに当たっていませんかねえ」
「えっ、虫だぁ?」
バチッ、バチッ、バチッ! バチュ、バチュ、バチュ! 音がどんどん増えていく。
「おいおい、なんだこれっ!」
中年警官が思わず身を引く。
ガラスに当たってつぶれたのは、どうやら蠅のようだ。その大群が、パトカーの視界を遮り始めたのである。
ハンドルを握る警官はワイパーをフル回転させたが、おっつかない。
蠅自体が、時速百キロ前後で走る自動車に追いつくはずはない。つまり進行方向から逆に向かってきているのだ、何万匹もの黒蠅が。
パトカーは大きく減速を余儀なくされた。後続車両にも、蠅の大群が降り注いでいる。
黒い煙幕に包まれたように、三台のパトカーは停止せざるをえなかった。
蠍火は淫猥な微笑を浮かべ、後方に一瞥をくれると再び前方に顔をもどした。
つづく
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