第20話 親友オボロ
蒸し暑さは、太陽が沈んでも変わらなかった。
N市中町区のオフィス街。大小さまざまなビル群に灯りがつき始めるころ、伊佐神興業株式会社本社ビルの裏手から一台の自転車がゆっくりと走り出した。
自転車はかなり年季の入った、いわゆるママチャリである。
ハンドルを握りながらペダルをこいでいるのは、伊佐神であった。
中学生が使う自転車通学用の白いヘルメットを大きな頭にのせ、なぜかモスグリーンのジャージの上下を着ている。しかも、上着の胸には伊佐神と黄色い刺繍が入っていた。
高校時代の体操服である。
青レンズのサングラスをはめたまま流行りのポップスを口ずさみ、やや禿げ上がった額には汗を浮かべながら、立ち漕ぎで自転車を走らせていく。
たすき掛けした白いアディダスの四角いビニール鞄が、自転車の振動で、背中で揺れていた。
これは、伊佐神の通勤スタイルである。
会社の幹部連中からは再三注意を受けており、自宅との行き来には頼むから護衛をつけた乗用車に乗ってほしいと懇願されているのだ。
ヤクザ組織と縁を切ったとはいえ、過去に遺恨のある輩も当然いると考えているようだ。
伊佐神は、しかし頑として聞き入れなかった。
「俺らはもう極道じゃねえ。一般市民だ。俺は大手を振って、会社通勤をしてえんだ。
もし仮に昔の怨恨で俺を狙う奴がいたとして、あの社長車を通勤に使えば誰が乗っているかなんて、一目瞭然だわな。
もしも一般の市民の方々に迷惑が及んだら、いったい誰がその咎を背負うのですかい、多賀専務」
伊佐神は会社のナンバーツーである、初老の多賀に問う。
「し、しかし、社長」
伊佐神はニコリと微笑んだ。
「おいちゃん、心配かけてすまねえな。だがもう命を張った、獲ったってえ時代じゃねえんだ。
昔ながらのシノギや、ましてシロウトさんに迷惑をかけるなんてことは、絶対にご法度。それにな、この格好でチャリ漕いでいるのが、まさか元伊佐神組組長だなんて、誰が思うよ」
「し、しかし」
伊佐神の言葉に、昔堅気の博徒は反論することができなかったのであった。
伊佐神は自転車のライトを点け、家路へ向かう。自宅は自転車で十五分ほど走った、中村区の下町にある。
ビル街の曲がり角では必ず徐行し、右折時は右腕を水平に伸ばし、左折時には右腕を肘から先を直角に曲げて合図を送る。
今では誰もやらない、自転車の交通ルールだ。
交通法規を守ることに、大人も子供もない、当たり前のことであるとの自論を持つ。
伊佐神が社屋を出た数分後、キャップを目深にかむり、ピンクのタンクトップに短パン、腰にポーチをつけたジョギングスタイルの女性が、同じ道を走りだす。
タンクトップの胸元は大きく前に突出し、左右に揺れている。 細く長い脚は日ごろから鍛えているのか、しなやかな筋肉で締まっている。
伊佐神との間に一定の距離を保ちながら、軽快にランニングしていた。
背後を走ってくるランナーに、伊佐神はまったく気付かない。
ランナーは、秘書室長の洞嶋レイであった。
~~♡♡~~
四人の巫女が板敷きの床に正座していた。
せいてんそうの会本殿の、さらに奥の小屋。
教祖である鹿怨が夜の儀式を信者たちとともに執り行い、終了時間になるころである。
紫色のカールしたロングヘアに同色の袴は、蛾泉。
黒髪ナチュラルショートヘアに緋袴は、紅鯱。
緑色のカールショートヘアに深緑の袴は、闇鳩。
青色のメッシュを入れたボブヘアに濃紺の袴は、蠍火。
灯明皿の淡い光がかすかに揺れる。
「そろうておるな」
音もなく、いつの間にか鹿怨が立っていた。
「魔奏衆、ここに」
蛾泉は頭を垂れ、言った。
「地獄より、
我が望み、常世開門の儀までに残された刻もわずか。それまでに邪なるものを、盛大にこの
蛾泉、なに奴にせよ、邪魔だてはさせぬ。よいな」
「あい」
鹿怨は宙を睨みながら、不敵な笑みを浮かべた。
「霊薬、
~~♡♡~~
女子大小路の路地裏一角にある小さなバー、『ゆうづき』。
雨ざらしの小さなネオン管の看板が、夜の街にやけに貧相に浮かんでいる。白髪の無口なマスターが、ひとりでやっているショットバーだ。
店内はカウンターのみで、備え付けの丸椅子が十脚。狭いカウンターの後ろには、世界各国の洋酒が並んでいた。かなりの品ぞろえである
マスターは蝶ネクタイに真っ白なカッターシャツ姿で、無言のままグラスを布巾で磨いていた。
入口から一番奥の席に、ひとりの客が手にしたウィスキーグラスをもて遊んでいる。
ナーティであった。
紺色のロングドレスで、髪をアップにまとめている。
ナーティはマスターと会話するわけでもなく、すでに三杯のウィスキーを飲み終え、四杯目を手にしていた。
からん、店の入り口に取り付けられた小さなカウベルが、鳴った。
マスターは顔を上げ、新しく入ってきた客に一瞥をくれた。
客はそんな無愛想な店主に慣れているのか、特段気にすることもなくナーティの座る横の椅子に腰を降ろす。
変わった風体の男であった。
黒いシルクのハットをかむり、夏真っ盛りのであるというのに黒い綿のコートを羽織っている。その下のスーツも黒である。ハットの下から男の地毛なのか染めているのか、銀色に近い長い髪が見える。
丸いレンズの黒いサングラスの顔は、男を年齢不詳にさせていた。
男は無言で指を一本立てる。
驚いたことに、黒い革の手袋まではめていた。
マスターは後ろの棚からジョニーウォーカーの黒い瓶をとると、ショットグラスに静かに注ぎ、男の前に置いた。
男は口元にニヤリと笑みを浮かべ、一気にグラスを傾ける。
「俺を探していたのだそうだね、ナーティ」
男は中性的な、優しげな声で言った。
「お久しぶりね、占術師のオボロさん」
ナーティも四杯目のウィスキーを一口で飲み干し、トンとグラスを置いた。
~~♡♡~~
「よいしょっ、よいしょっ」
軽快な掛け声とともに、みやびは寝間着代わりのスウェットシャツを着て、自室でストレッチを行っていた。
八畳の部屋は窓側にベッドを配置し、机と本棚に衣装タンスを部屋の入口側に設置してある。
石膏ボードの壁ではない本物の土壁には、上から白い壁紙を張り付けて、上からみやびの上半身を撮影した雑誌のポスターを掲げていた。
エアコンは極力使わず、カーテンを閉めた窓ガラスを全開にして、扇風機のゆるやかな風で暑さをしのいでいた。
ベッドに入る前に、身体の調整をかねて軽く動かす。
アイドルになるためには健康第一、それには睡眠を充分とらねばならないと考え、夜中に目覚めないようにストレッチを行っているのだ。
「ふーっ、こんなものかな」
首をコキコキ鳴らすと、ベッドの端に腰を降ろした。
考えなければならないことが、山積みであった。第一は夏休みの課題を含めた勉強である。なんといっても現役の女子高校生なのだ。しかも祖母より必ず大学へ進学し、学問を修めよとのお達しが出ている。
「英語と現国はまあまあだから、この夏休みの重点課題は数学かな」
みやびは独りつぶやく。
二番目は、アイドルとしての基盤を固めるために、さらにスピードアップさせること。
「とにかく弥生さんにがんばってもらって、いい仕事を一本でも多く抑えなきゃね」
ボイストレーニング、ダンスレッスンに加え、表現力アップ講座にも参加して、地味だが重要な勉強もしなければならない。
それに加え、三つ目は宝蔵院流槍術の腕をさらに磨くこと。
「メンタル面の弱さなのかなあ。免許皆伝である以上そんなんではダメ」
槍術の修業は体力筋力に加え、精神面を強化してくれる。これはアイドルになるうえで、欠かすことのできない要素を補うことにもつながる。
「おばあさまだってアタシみたいに悩んでいたって、おじいさまは言っていたよね」
それに関わる最大の問題が、「あの化け物と、なんとかっていう連中とどう戦うか、よね」なのだ。
みやびは自分の両手を開き、見つめる。
「しゃちょーは真剣にアタシたちに頭を下げてくれた。助けてほしいって。
タマサブも、ナーティさんもいっしょに立ち上がってくれた。ここはやっぱり、やるっきゃないっしょ」
両手をグッと握りしめる。
「でも、なんでアタシたちが選ばれちゃったのかしら」
机上のスマートフォンから、電話の着信を告げるメロディが流れた。みやびは取り上げ、相手を確認する。
「ゲッ、タマサブじゃん」
嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「あっ、もしもし」
「ラブリィプリティ、みやびちゃんだぁ!」
珠三郎の能天気なキンキン声が大きく響く。
みやびは片目をつむり、耳からスマートフォンを離した。
「みやびちゃんだ、はないでしょ。自分からかけてきておいて」
「グッヘヘヘッ、そうでした」
「あのー、もうお休みしているのですが、急用なのかな」
またどこからかカメラでのぞいているのではないか、という強迫観念をいだき、みやびはあわてて窓際まで走りより、外に顔を出して確認する。
「みやびちゃん、ボク、のぞいてなんかいないよう」
みやびの一挙手一投足を把握しているかのような発言に、みやびはゾッとした。
「アンタ、どこかに小型カメラ、仕掛けてんじゃないでしょうね」
「あっ、やっぱりボクがノゾキなんて、恥ずべき行為をしているって疑っているんだ。同じ仲間なのに、信じてもらえないなんて、悲しいですぅ。ウウッ」
「なに下手な演技してんのよう、アンタには騙されませんって」
珠三郎はグヘヘッと笑った。
「ボクは自宅でしたー」
「あの廃墟ね。わかったから、用件を言って」
みやびはスマートフォンを持ちながら、それでも信用できずに、部屋の中に異物がないか確認して回っている。
「そうそう、用件ね」
「はい、言って」
少しの間が空き、珠三郎が口にしたのは、怖気の走る言葉であった。
「みやびちゃんのスリーサイズを、こっそり、お・し・え・てようぅ」
みやびは即座にスマートフォンの電源を、オフにした。
~~♡♡~~
コトッ、とショットグラスを置いた黒ずくめの男、占術師のオボロは指を一本立てた。マスターは黙ったまま、ジョニ黒を生のまま注ぐ。
「ナーティ、変わってないねえ。相変わらずの美女ぶりで安心したよ」
うふふっ、ナーティは口元だけで微笑んだ。
「ありがと。お世辞でも嬉しいわ。女はね、そのお世辞を頂戴するために、オンナを磨くの」
オボロは黒いサングラス越しに、ナーティを見つめる。
「俺がお世辞を言わないのは知っているだろ。今夜はこんな
「よかった、会えて」
「俺もだよ」
二人は言葉を閉じ、ゆっくりと酔いを楽しむ。
オボロが壁のボトル棚を見ながら言った。
「ナーティが俺を捜しているということは、何か困ったことが起きたんだね」
ふっとナーティは小さな溜め息をついた。
「あなたは、世の中の
「ははっ、それは買いかぶりってもんさ」
「ワタクシもこの世界に入って、色々な人に巡り合った。表も裏ものぞいて、身を持って体験もしたわ。
そのワタクシが言うの。あなたほどの人物は、そうはいないって」
オボロはナーティに顔を向けながら笑った。
「こんな絶世の美女にそこまで褒められたら、あとが怖いな」
「いえ、今回はあなたを巻き込むことはないわ。というよりも巻きこめない」
ナーティの真剣な眼差しを受け、オボロは居住まいを正すように背伸びした。
「どうした? 俺が役に立つ事なら言ってくれ。ナーティには返しきれない恩がある」
ナーティは意を決したかのように、重たい口を開く。
「詳しく説明できなくて、本当にごめんなさい。理由も聞かないで」
「わかった」
「マソウシュウ、っていう輩について、教えてほしいの」
オボロの身体がピクリと脈打った。
「どこで、そいつらのことを?」
オボロの緊張した声のトーンに、ナーティの表情が強張る。
「いいかい、ナーティ。忘れろ、その言葉。ナーティが関わるべき奴らじゃない」
「やはり、知っているのね」
「知っている。知っているからこそ忠告している。魔奏衆、なぜ今その名を聞くのか。
今日の俺は、運勢どうだったっけかなあ」
「あなたをそこまで恐れさせる輩なのね。でも、だめなの。ワタクシたちは、そいつらと戦わなければならないの」
オボロの顔から血の気が引いていく。
「た、戦う? ワタクシたち? 嘘だろ、冗談だって言ってくれっ」
「ごめんなさい、それ以上責めないで」
時を止めたような沈黙が、場末のバーを包みこんだ。
オボロは丁寧にグラスを置くと、身体ごとナーティへ向けた。
「いいかい、ナーティ。俺は直接そいつらを知っているわけじゃない。ところで俺が占術を極めるため、世界中を旅したことは前に話したよな」
「ええ、うかがったわ」
「むろん、この国内もだ。特に地方には独特の風習や言い伝えが残っていて、場合によってはそれが占いの秘術につながることもあるのさ」
ナーティは黙ってうなずく。
「奴ら魔奏衆というのは、魔物を奏でて操る衆人と書くのだがな。話は、平安時代までさかのぼる」
オボロは民俗学の権威のごとく、かつて探究したる
ナーティの顔色が蒼く変わっていく。
オボロの説明は背筋が凍るような、信じがたい内容であった。
魔奏衆とは人外魔境に住みつく、悪鬼そのものであったのだ。
「だから、奴らは完全に血筋を絶たれたはずなんだ。
太古の我が国ならいざ知らず、今の世に誰もそんな危険な連中の存在を許すはずはない。
「ごめんなさい。せっかくのお酒だったのに、後味を悪くさせてしまって」
「いや、かまわないさ。それより、どこで魔奏衆のことを知った?
どの古文書からも、表向きの歴史からも連中の存在は削除されてしまっているはずなのに。
いや、唯一残されていた秘聞帳から、俺は学んだのだったっけ。
オボロは疑うように首をかたむけた。
つづく
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