五/犬神は理解できない

『ふぅむ』

江戸中から集めた瓦版を眺めながら、犬神は首をかしげる。

なにしろ、考えるのは苦手なのだ。ふぅむと唸れば考えているように見えるだけで、実際にはなにも考えていない。

なにしろ、犬神やら大部分の八百万の神やら妖やら……本当の神ならぬ身では、人間の考えることなどまったく想像もつかないのだ。

楓は「燈籠が倒された、だから犯人は人間」という。

しかし、妖の感覚では「灯篭が倒れた、というのは、つまり灯篭が倒れたということだ」くらいの意味しかない。

瓦版に混じって、楓が奉行所から盗みだしてきた(!)、件の屋敷の見取り図もある。


『わからん』

楓にはすでに答えがみえているようだ。

根城にしていたあの森で、瓦版を見たとたん、人の仕業であって妖の仕業ではないと断じた。

どうも人間の考えというのはよくわからぬ。


まぁいい。人の仕業でも妖の仕業でも、おれには本来関係ないことだ。難しいことは楓にまかせておけばいい。おれは蕎麦さえ食えればそれでいいのだ。


犬神は考えるのをやめて――というよりは、考えるふりをするのをやめて、丸まった。

とそこで楓がため息を付いて言った。

「わからないですねぇ……」

その言葉は意外で、思わず聞き返した。

『なんだ、自信たっぷりだったくせに、弱気じゃないか』

楓は瓦版を眺めながら言った。

「刀傷がどうして付いたのかわからないんです」

『刀傷って、そりゃあ賊がつけたんだろう。自分で付けたんじゃない限り』

「そうですね、刀傷であるのは間違いないようですし、それも傷跡が真っ直ぐで、刀を勢い良く、つまり殺意をもって振り下ろされてついた傷なのも、間違いないみたいなんですよね」

『それのなにがおかしいんだ』

「あとこれだけなんですよね。わからないのは」

そういって楓は瓦版を置いて、おれの顔をじっと見る。

「考えを整理したいので、話を聞いてくれますか?」

『……おぉ、構わないぞ』

(そもそも謎が何なのかすらおれにはわからんが……)

楓は、指折りしながら話し始める。

おれに説明するというよりは、誰かに話すことで自分の考えをまとめたいようだ。

「分かっていることは*つ。まず、この妖が偽物であること。つまり人間だということ」

『そこがまずわからん。なぜこれが人間の仕業だと思う。……まぁ、おれも人間を切って回るような酔狂な妖がいるとは思わんが、かといって人間だと断ずる理由も見当たらないんだが』

「それは、燈籠が倒されていたからです。にもかかわらず、山本家の塀にはくっきりと足跡がのこされている」

『よくわからんな。それがどうした』

「六尺の壁を飛び越せるような妖が、人間に追われることを恐れますか?……というよりは、そもそも燈籠を倒しせば時間稼ぎになる、なんていう発想そのものが、ないと思うんですよね」

『……なるほど。まぁおれだって追われるときに燈籠を倒せば時間稼ぎになる、なんて発想はしないだろうな』

「それに、塀を越えて、蕎麦の香りを嗅いだとたん……実際に蕎麦の香りが苦手かどうかはともかく、ドロン」

楓は手の平で花火が散るような仕草をして、妖がきえた状況を再現する。

「刀を持った人間よりも、蕎麦の香りが苦手というのも無理がありますけど、まぁそれはいいです。それより、簡単にドロンできるなら、そもそも逃げる必要なんてないわけです。追われるという状況がそもそもありえません」

『ふむ。まぁおれも人に追われるなんて状況は想像つかないな。姿を消せばいいし、そもそも人の武器ではおれを傷つけることもできぬ』

「たいていの妖がそうですよね。よほどの銘刀なら妖に傷をつけられるのかもしれませんが、毛利さんの抜いた刀はそこまでの物のはずありません。そんな高級品なら、腰にぶら下げてうろうろしないでしょう」

『……つまり、その妖は刀を怖がり、人に追われることを恐れ、燈籠を倒して時間稼ぎが必要だった』

「実際に、山本さんの悲鳴が聞こえるまでに、いくらか時間があったはずなんですよね。毛利さんは悲鳴が聞こえてようやく塀を乗り越えたわけですし。妖もどきさんは塀の上で自分の姿を見せつけていたそうですが、そこでドロンと消えていれば山本さんを傷つける必要もなければ、山本さんちの塀に足跡を残す必要もなかった」

「なるほど。要するにそいつは」

「妖じゃないです、人間ですね」

「じゃあ、どこに消えたんだ。切られた山本某は塀を指さしたらしいが」

「その時点で、もうそこで何があったかは想像がつきます。ただ、わからないのが山本さんの刀傷なんですよね」

「切られた直後に腐り始めたというやつだな」

「いえ、それはもうどういう事かわかってるんですけど」

「……妖刀か!」

妖刀!妖刀だぞ!おれも実際に見たことはない。ちょっと興奮してきた。

刀を使う妖はいなくとも、刀の妖はいるのだ。

これは面白くなってきた、と思ったら、楓は首をふってそれを否定した。

「違いますよ、ただの刀です、これ」

おれはちょっとがっかりする。なんだ妖刀じゃなかったのか。見てみたかったのに。

『妖刀の可能性だってあるだろう。なぜ言い切れる』

「だって、毛利さんの腕も斬りつけられてますけど、そっちは普通の刀傷ですよ」

「じゃあ、どういうことなんだ」

「ここで瓦版には出てきていない、もう一人の人物が居るはずなんですよね。つまり、山本さんを斬った人」

『妖もどきじゃないのか』

「妖もどきは、山本さんを斬ることは絶対にできません」

「なぜ」

「刀傷がまっすぐだからです」

説明不足だ、それじゃ。

しかし楓はブツブツとつぶやきながら

「そうか、共犯者がいたのかもしれない……でもそれだとつじつまが合わない……」

瓦版をパラパラと見直す。

「あ」

と、楓は何かに気づいたようだ。

「ああ、なるほど、そういうことですか」

「ちょっとまて、なにがそういう事なのか説明しろ」

「これです、これ」

そういって、瓦版をおれに差し出し、そのうちのひとつの記事を指さした。


――神田の川で辻斬りあり


辻斬り……?なんの関係があるのかわからなかった。

だが、おれにはわからなくても、楓にはよく解かっているようだった。

どうやら考えても無駄なようだ。おれはため息を一つついて、ずっと気になっていたことを口にした。

『……それより、蕎麦はいつになったら食えるんだ』

「今は食べられません。だってお金がありませんから。でも、この件が終われば好きなだけ食べられますよ、きっと」

そう言って、楓はにっこりと微笑んだ。

「……そうか」

おれはすぐにでも蕎麦を食べてみたいのを我慢して、付き合うことにする。

なに、腹がすいているわけではない。それに、楓の言うとおりにして間違いがあったことなど、これまで一度もない。

楓の言うことをきいていれば、まちがいなく蕎麦を腹いっぱい食えるはずだ。

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