インステップ

かおるさとー

 

 立花美弥たちばなみやについて、ぼくが知っていることはいくつかある。

 ぼくの家から50メートルほど離れた場所にある、2階建ての綺麗な家に住んでいること。小学生の頃からの知り合いで、いわゆる幼馴染みであること。とはいっても特別な関係ではなく、普段はそんなに言葉を交わすこともないということ。その割には同じ高校に進んだりしていて、疎遠というほど離れてもいないこと。たまに母さんの実家から届いた野菜をおすそ分けに持っていったりするくらいには、互いの家族の仲は良好であること。

 立花美弥について、ぼくが知っていることはいくつかある。

 目鼻立ちのはっきりした顔は贔屓目なしに整っていること。でも目つきはちょっと鋭くて、気の強そうな印象を与えること。性格もそれに呼応するかのようにきつめで、たまに毒を吐いたりもすること。背は162センチのぼくよりさらに10センチ以上低く、小柄なこと。その割にはスタイルは結構いいこと。今は肩口にも届かないショートにしているけど、昔は背中まで届く綺麗なロングヘアーだったこと。

 立花美弥について、ぼくが知っていることはいくつかある。

 小学校では5回も同じクラスになったこと。その頃はまだ一緒に家に帰ったりもしていて、お互いに下の名前で呼び合っていたこと。中学校では一度も同じクラスにはならず、そのために自然と触れ合う機会がなくなったこと。同じ高校に入ったと聞いたときはびっくりしたけど、1年のときはクラスが別々だったので中学のときと関係は変わらなかったこと。

 こうして列挙していくと、彼女のことをよく知っているように見えるかもしれない。

 でもぼくは、ぼくにとって大事なことを知らない。

 美弥は、ぼくのことをどう思っているのだろう。


      ◇   ◇   ◇


 ぼく、戸川功一とがわこういちは、ずっと昔から立花美弥のことが好きだった。

 その片思い暦といったら小学生の頃からだから、10年近くになる。

 告白は、していない。

 だから美弥は当然に、ぼくのことをただの幼馴染みだと思っているだろう。

 ひょっとしたら友達とさえ思われていないかもしれない。

 なんといっても、呼び方が変わった。

 小学生の頃は「みやちゃん」「こーいちくん」と呼び合っていた。

 けど、中学からそういう呼び方をしなくなり、お互いに苗字で呼ぶようになった。

 彼女はぼくのことを「戸川くん」と呼んだ。

 それは非常に他人行儀な感じがして、まるで「あなたと私は友達でもなんでもない」と言われているかのようだった。

 とはいえ、ぼくの方も彼女のことを「立花さん」と呼ぶようになった。

 どちらが先だったかは覚えていない。ただ、いつの間にかそうしなきゃならないような距離でしかいられなくなって、どうしても名前で呼ぶことができなかったことだけは覚えている。

 気恥ずかしかったせいだろうか。今思うとつまらない理由だけど、中学生の頃は本当に彼女と接するのが恥ずかしかったのだ。

 だって、好きだから。

 正面から彼女の顔を見ることさえできず、学校外でも彼女と距離を置いてしまった。

 それが今の関係にそのまま影響を及ぼしている。

 美弥はもうぼくのことを気にも留めないし、ぼくも彼女に声をかけたりしない。同じ高校に入って、だけど1年のときはクラスも違ったから、関係は何も変わらなかった。

 しかし、何のいたずらか、2年で同じクラスになってしまった。

 おかげで4月の間はずっと落ち着かない気分だった。

 ラッキーといえばそのとおりなのかもしれない。確かに彼女と離れてしまってはいたけど、好きだという想いはずっと変わっていなかったし、それは1年間同じクラスで過ごしていても少しも変わらなかった。

 いや、むしろもっと好きになったかもしれない。

 同じクラスになると、彼女の普段の様子がよりよく見えた。真剣な顔で授業を受けている様子、友達と楽しそうに何かを話している様子、クラスの委員長に選ばれてしぶしぶながらも真面目に仕事をこなしていく様子、それらすべてがぼくの想いを強くしていった。

 美弥は、昔と何も変わっていなかった。

 彼女は気が強くて、真面目で、固いところもあるけどたまに見せる笑顔がとても魅力的で、ぼくの好きな立花美弥そのままだった。

 変わったのは、ぼくとの付き合い方だけ。

 クラス委員長だから、多少は言葉を交わす機会もあった。しかし距離感を縮めるような出来事ややり取りは、なかなか起きなかった。

 当たり前だと思う。なぜなら、ぼく自身が距離を縮めることに積極的じゃなかったからだ。

 彼女は同じクラスになっても、特段ぼくに近づいてくることはなかった。むしろ一定の距離を保ち続けているようにさえ感じた。

 だから、思ったのだ。美弥はきっと、ぼくに近づいてほしくないのだと。

 嫌われているわけじゃないだろう。ただ、仲良くするには、ぼくらは長く疎遠でありすぎた。

 要するに、『いまさら』ということだ。

 いまさら昔には戻れない。ならばこれまでどおりの距離感でいましょう――そう言っているように思った。

 だからぼくは近づかない。

 彼女もぼくに近づかない。

 ただ、心の内で彼女を「美弥」と呼ぶようになっただけ。

 同じクラスで同じ時間を過ごしても、その距離は変わることなく――

 そして、11ヶ月が過ぎた。


      ◇   ◇   ◇


「立花ってさ、お前と何かあるの?」

 クラスメイトの吉野が何気なく言ったその言葉に、ぼくの心は激しく揺れた。

 3月も半ばを過ぎた、ある日の昼休み。ぼくは友人たちと一緒に、教室で持参した弁当を食べていた。この時間、クラスの半分が学食に行ったり購買部に向かったりする中で、もう半分の弁当持参組は空いた席に好き勝手に陣取り、悠々と包みを開いていく。ぼくもその持参組の一人で、気の合う連中と一緒に食事を取るのが常となっていた。新学年になればクラスも新しく編成されるので、来月にはこの面子も変わる。だからこうして机を寄せ合う回数も、残り少ない。そのことに若干の寂しさを覚えないでもないけど、まあそんなことはこれまでに何度も繰り返してきたことなわけで、学年が上がればそのうち慣れるだろうと思っている。

 ただ、その質問はあまりに唐突で、ぼくは口に入れたから揚げを、思わず呑み込んでしまった。まだろくに味わっていないのに。

「……なんだよ、急に」

 ぼくが聞き返すと、吉野はなぜか苦笑いを浮かべた。

「だって、お前ら幼馴染みなんだろ。付き合ってるわけじゃないよな?」

「……え」

 思わぬ不意打ちに、うまく言葉を紡げない。

 ぼくと美弥が幼馴染みだということは、この学校ではぼくは誰にも言っていない。美弥もおしゃべりな性格ではないから、誰にも言ってないと思う。

 なのに、どうして彼はそのことを知っているのだろう。

「お前と同じ小学校のやつに聞いたんだよ。けっこう仲良かったとか」

「誰に聞いたの? いや、それよりなんでそんなことを」

「……お前、ひょっとしてそれマジで言ってるのか?」

 どういう意味かわからなかった。

 吉野は、いや、吉野だけじゃなく周りのみんなも、じっとぼくを見ている。それらの目は単なる好奇心を含んでいるだけじゃなく、どこか呆れているように映った。

 みんなの気持ちを代弁するように、吉野がため息をつく。

「あのさ、俺だけじゃなくて、みんな変に思っているんだよ。『こいつら何かあるな』って。お前が立花のことを気にしているのはずっと前からバレバレだったけど、立花の方もお前のことを気にしているみたいで、なんかお前ら、ずっと変な感じだったぞ。この一年間」

「…………」

 そのときのぼくの顔は、たぶん真っ赤になっていたと思う。

 一年間ということは、最初から気づかれていたということで、この場から逃げ出したいくらい恥ずかしくなった。しかもそのことに気づいていたのは吉野だけじゃなくて、他のみんなも同じらしい。自分はここまで鈍かっただろうか。そういえば昔よく美弥に注意されたっけ。ぼーっとしてると車にひかれちゃうよとかなんとか。それは関係ないか。

 ただ、

「……立花さんも?」

 ぼくの問いに、吉野は怪訝な顔をした。

「立花もって、何が?」

「ぼくのこと、気にしていたって……」

「ああ、それか。たぶんな。お前ほど露骨じゃなかったけど」

「ぼくってそんなに露骨だった?」

「いつも立花のこと目で追ってただろ」

 自覚はなかった。しかし、それは確かに露骨だ。というか不審者だ。

「でも立花さんは」

「あっちはお前とは逆だよ。目を向けなさ過ぎてて、逆に意識しているように見えた。……それも気づいてなかったのか?」

 自分は本当に鈍いのかもしれない。何も気づいていなかった。

 美弥は気づいていたのだろうか。

「で、結局お前らどういう関係なの? このクラスでいられるのもあと少しだし、教えろよ」

「いや、その……」

 詰め寄られて、ぼくは口ごもった。そんなの言えるわけないじゃないか。

 美弥はこの教室にはいない。食堂か中庭か、別のところにいるのだろう。彼女も今のぼくみたいに、質問攻めに遭ったりしているのだろうか。それともすでに遭ったか。ぼくとの関係を訊かれたら、彼女はどう答えるのだろう。

 ぼくは質問攻めに耐えながら、昼休みが過ぎ去るのをひたすら待っていた。


      ◇   ◇   ◇


 その日は随分といろんなことが起こる日だった。

 放課後。ぼくはどういうわけだか、美弥と一緒に帰ることになったのだ。

 昇降口で靴を履き替えたところで、いきなり後ろから声をかけられた。振り返ると美弥が立っていて、「一緒に帰らない?」と誘われた。ぼくは思考停止に陥りそうになったけど、なんとか頷きを返した。

 外に出ると風が強かった。この時期は昼と夜の気温差が激しい気がする。昼間の過ごしやすい気温とは違い、夕方辺りから一気に肌寒くなる。この風の強さも一因だろう。早く帰りたい。いつもならそういう気持ちが強くなる時間帯だ。

 でも、今は帰りたくない気持ちの方が強かった。

 隣を歩く美弥は、ぼくの方を見ない。まっすぐ前を見据えたまま、すたすたと歩いていく。誘われたのはこっちなんだけどな、と思いながらも、ぼくは心が浮つくのを抑えられないでいた。

 こうして並んで歩くのは何年ぶりだろう。隣にいて、その小柄さを感じ取りながら、道路に映る影を並べたのはどれほど前のことだろう。

 別に喧嘩をしているわけじゃない。いがみ合っているわけじゃなく、嫌い合っているわけでもないのに、並んで歩くというこんななんでもないことさえ、満足にできないでいたのはなぜだろう。

 距離が離れたことが原因なら、どうして離れてしまったのだろうか。もちろんぼくにも原因がある。自分の想いを伝えられなくて、気恥ずかしさに他人行儀な呼び方や接し方をしてしまったのは紛れもない事実だ。

 でも、それを言うなら彼女だって同じだ。彼女もぼくを「戸川くん」と呼び、よそよそしい接し方をするようになったのだから、どちらに原因があるかなんて明言できない。少なくともぼくには。

 美弥はどう思っているのだろうか。

 ひょっとして、今がチャンスなのではないだろうか。

 せっかくこうして一緒に帰っているのだ。今ここで訊ねてみるのはどうだろう。美弥はごまかしやうそをつく性格ではない。たぶん率直に答えてくれるはず。

 ぼくは彼女の横顔をちらちらと見やる。

 彼女はぼくの方に見向きもしない。

 吉野が言ったとおりかもしれない。ぼくは彼女を見ている。彼女はぼくを見ていない。

 そして、お互いに口は聞かないのだ。

 不審がられて当然かもしれない。こんなに近くにいるにもかかわらず、互いの距離感は教室にいるときと変わらないぼくらは、きっとクラスで浮いていたのだろう。

 それでも彼女は委員長に選ばれて、ぼくも何気ない日常とともに一年間を過ごしてきた。

 その日々も、もうすぐ終わる。

 来月からは、また違うクラスで一年が始まる。

 受験だってあるし、ぼくらの高校生活はあっという間に過ぎ去っていく。

 こうして並んで歩く機会も、今日が最後かもしれない。

 なら、

「功一くん」

 彼女の名前を呼ぼうと口を開きかけた瞬間だった。急に美弥がこちらに向き直って、ぼくの名前を呼んだ。

 下の名前を。

 心臓が止まりかけた、というのは冗談でもなんでもない比喩だと思う。胸がばくばくと激しく鳴って、血の巡りが速くなったような気がした。

 美弥は、その鋭い目つきを和らげることなく、じっと見つめてきた。

「何か、私に言いたいことがあるの?」

「……え?」

 美弥の目が、ぼくを捉えて離さない。

 さっきまで少しもこちらに向けられなかった視線が、今は強烈にこちらを刺してきて、ぼくは目を逸らしたくなる。

 でも、その綺麗な顔は、ぼくが長年恋をしてきた女の子のもので、魅入られたように視線を外せなかった。

 形のいい唇がゆっくりと開く。

「今日の昼休みにね、友達に言われたの。私と功一くん、一体どういう関係なのかって」

「……それは」

 ぼくが問い詰められている間、美弥も同じような目に遭っていたらしい。

 これは偶然だろうか。いや、そうは思えない。吉野が言うには、ぼくらのことをクラス全体が気にしていたらしいから、男子と女子で示し合わせて探りを入れてきたに違いない。探りというには直球過ぎるけど。

「私、うまく答えられなかった。あなたと私の関係性なんて、小学校からの知り合いって程度で、別に何でもないと思うんだけど、友達に言わせればそうは見えないんだって。お互いに意識しているようにしか見えなくて、やきもきするって言ってた。それってどうなのかな。勘違い?」

 美弥の口調は早口で、なんだか苛立っているように見えた。

 ぼくは彼女の強い目線を受けて、押し潰されるような錯覚にとらわれた。

 近い。精神的には依然として隔たりがあるけど、物理的にはものすごく近い位置に、彼女がいる。顔をぐっと近づけてきて、夕日を浴びて伸びる影も、寄り添うようにくっついている。

 その状況にどぎまぎしつつも、ぼくは気まずい思いに支配された。

 なんでこんな風に詰め寄られているのだろう。というか、彼女は何をぼくに求めているのだろう。

 ぼくは君がどう思っているか知りたいだけだ。

 君はぼくの何を知りたいの?

「……何か言いなさいよ」

 沈黙に耐えられなかったのか、美弥が乱暴な口調で言った。

「……立花さんは、何を知りたいの?」

「……」

「ぼくには、立花さんのことがまるでわからないんだ。昔からの付き合いだけど、幼馴染みと言えるほど近い間柄でもないし。でもぼくは君のことが知りたいって、ずっと思ってた。立花さんはどうなのかな。ぼくについて、何か知りたいことあるの?」

 思いの外、言葉はすらすら出てきた。

 だけど、これは違う。これはぼくが本当に言いたいことじゃない。今のは単に勢いに任せて言葉を並べ立てただけだ。

 ぼくが本当に言いたいのは、

「いつからその呼び方に変わったのかな」

 美弥の冷たい言葉が、ぼくの体を凍りつかせるように響いた。

「私、その呼び方嫌い。よそよそしくて、拒絶されているように感じるから。他の誰かに呼ばれるのは別にかまわないけど、あなたには苗字で呼ばれたくない。ずっと下の名前で呼んでくれていたあなたにだけは、『立花さん』なんて呼ばれたくない」

「――」

 痛烈に感情をぶつけてくる美弥の表情は、怒りながらもどこか悲しそうに見えた。

 しまった。美弥はちゃんとぼくのことを名前で呼んでくれたのに。きっとそれは、ぼくとの距離を少しでも縮めるためにしたことだろう。なのにぼくは、それを読み取ろうともせず、浮ついたまま適当に応じてしまって――

「……私が言えた筋じゃないかもしれない。私の方も、あなたを苗字で呼んでいたからね。要はお互い様ってこと。だけど、あなたは今、私のことが知りたいって言ったよね。その割には、あなたは近づいてきてくれない。あなたにとって私はその程度ってことなの?」

 彼女の綺麗な顔が、辛そうに歪んでいる。

 歪ませてしまったのはぼくだ。ぼくが臆病なばかりに、そんな顔をさせてしまった。

 好きなのに。

 君のことがずっと好きなのに。

「私はね、あなたを嫌いだと思ったことなんて一度としてない。離れようと思ったこともない。だから、あなたと同じクラスになれたときは、ちょっとうれしかった。昔みたいに仲良くなれるかもって思ったから。でも、そんなにうまくいくものじゃなかった。きっかけをつかめないまま今日まで来てしまった。馬鹿みたい。私はうじうじしているのは嫌いなのに」

「……ぼくも、嫌いだよ」

 美弥の目が線を引いたように細まる。

 ぼくは決意を固める。君の顔を歪ませたことに対して、歪ませただけの理由があることを、せめて伝えなければいけないと思った。

「誰だって、悩むのは嫌いだと思う。けど、嫌いなだけじゃない」

「……あなたは悩んでるの?」

「ずっと悩んでる」

 即答すると、美弥は意外そうに目を見開いた。

「ずっとずっと悩んでる。それはもちろん苦しい。だけど、捨てるわけには、やめるわけにはいかなかった。悩まないといけないことだってあるから」

「……何について悩んでたの?」

「……君のことについて」

 今度は即答とはいかなかった。しかしなんとか口にすることができた。

「……私?」

「ぼくだって、君と離れるつもりなんてなかった。でも君のそばにいることが、以前のぼくには恥ずかしかったんだ。君のことが恥ずかしいんじゃない。近づきすぎると、心が見透かされそうな気がして、自分自身を恥ずかしく思ったんだ」

「……? 何を言っているの?」

 一度深呼吸をして、ぼくはもう一度決意を固め直す。

 言うぞ。

「だって……ぼくはみやちゃんが、……好きだったから」


      ◇   ◇   ◇


 4月1日の午後1時は、ぼくにとって昼食を済ませたばかりの、特に何事もない平和な時間だった。

 修了式は10日ほど前に終えて、今は春休み。今日は日曜日だから、新入生にとっては明日が入学式になる。ほとんどの在校生には関係ないことだ。入学式に出席する在校生は、生徒会やブラスバンド部、その他一部の生徒に限られる。

 そういえばクラス委員長の美弥はどうなのだろう。出席するのだろうか。それとももう委員長ではないから関係ないのか。

 ぼくはベッドに寝転がりながら、美弥のことを思う。

 彼女と一緒に帰ったあの日から、しばらく経つ。

 あのあと、ぼくは自分の想いを自分なりに一所懸命に伝えた。最初はまともに受け取らなかった美弥も、真剣さが伝わったのか、次第に表情が変わった。

 あんなにはっきりと動揺する美弥を見るのは初めてだった。

 顔を真っ赤にして、何かを言おうとしてもうまく舌が回らず、そのまま口ごもってしまう。そんなことを何度も繰り返し、結局話を無理やり打ち切って、先に帰ってしまった。

 翌日から、彼女はぼくをあからさまに避けるようになり、そのまま春休みを迎えた。返事を聞きたい思いは当然あるけど、しばらくは別にいいかなとも思っていた。

 あんな美弥を見るのは、本当に初めてだったから。

 ぼくのことで、そんなに動揺してくれたというのがうれしかった。少なくとも嫌われてはいないようで、それだけでも告白の甲斐はあった。

 きっかけをくれたクラスのみんなには感謝している。

 始業式は6日後だ。そのときには新しいクラスも判明する。美弥と一緒のクラスになれたら最高だけど、なれなくても別にかまわない。

 もう距離をとる必要はないから。

 昔と同じように、“みやちゃん”と仲良くすればいいのだ。

 早く始業式来ないかな。単純なもので、しばらく前とは比べ物にならないほど、気分は良かった。

「今頃何してるかな、美弥」

 うつぶせになりながら、一人ごちる。あ、つい呼び捨てになってしまった。まあいいや。誰かに聞かれているわけでもないし。

「そうね。今は、昼間からごろごろしていてだらしがない幼馴染みの様子を、呆れ混じりに眺めている、かな」

 冷ややかな声が後頭部に浴びせられた。

 すぐさま身を起こすと、美弥が腕組みをして立っていた。挑発的な笑みを浮かべて、ふん、と鼻を鳴らす。

「な、なんで」

「おばあちゃんちから十和田とわだの短角牛送ってもらったから、おすそ分けのついでに上がらせてもらったの。喜びなさい、今日はすき焼きか焼肉だと思うよ」

 言葉の意味がわからない。タンカクギュウってなんだろう?

「めちゃくちゃ上等なお肉だと思っとけばいいよ。それにしても、昼間から寝転がって何やってるの? 天気いいんだから外に出ればいいのに。それとも宿題をやるか」

「宿題は、終わってるけど」

「お、感心感心。私も終わったから時間あるんだ。ねえ、どこか遊びに行かない?」

 ぼくは働かない頭を必死に動かして事態の把握に努める。

 今日の美弥は随分と機嫌がいいようだ。ぼくを遊びに誘うなんて。

 遊び?

「ね、ねえ、みやちゃん」

「何?」

「それって、デートの誘い?」

 美弥はんー、と首をかしげた。

「そうね、そう受け取ってもらってもいいけど」

「じゃあ、この前の返事は、」

「ストップ」

 美弥は言葉をさえぎるように、手のひらを突き出した。

「悪いけど、返事は保留にさせてもらうから」

「え?」

 ぼくはベッドから起き上がり、彼女の前に立つ。

 小柄な彼女はぼくの顔を見上げながら、轟然と胸を反らした。

「考えてみればさ、今の功一くんのこと、私あんまり知らないんだよね。だから返事は、今の功一くんのことをもっとよく知ってからでも遅くはないかなって思ったの」

 あっけらかんと言う彼女。それってつまり、

「……友達から始めましょうってこと?」

「平たく言うとそんな感じかな。しょうがないよね、相手のことがわからないと、返事ができないんだから」

 いや、ぼくら幼馴染みじゃん。

 普通の友達同士よりも、お互いのことをよくわかってるじゃん。

「言っとくけどね、功一くんが言ったんだからね。『君のことがわからないんだ』って。それならお互いのことをよりよくわかるためにも、友達からでいいんじゃない?」

「……」

 納得がいかない。

 確かにそんなことを言った覚えはある。でもあれは勢い任せの言葉で、深い意味はないのだ。

 後悔の念に襲われた。勢いで告白なんてしなきゃ良かった。

 そういえば今日ってエイプリルフールだよね。

 ひょっとしてうそだったりするのかな。

「あ、先に言っておくけど、エイプリルフールは関係ないから。興味もないし」

 美弥らしいその言葉が、無情にぼくの想いを打ち破る。

 すると、美弥はくすりと笑った。

「そんなに落ち込まないで。たぶん、すぐに答えは出せるから」

「え?」

 美弥は、きつい目つきを緩めて、柔らかく微笑んだ。

「私だって、昔からあなたのことが好きだったんだから」

 ぼくは呆然と、彼女の告白を聞いた。

「……エイプリルフール?」

「言ったでしょ。関係ないって」

「両想いじゃん」

「今のあなたを好きとは言ってないよ」

「……」

 詭弁だ。あまりに詭弁だ。

 幼馴染みは楽しげに笑っている。

 彼女はこんな冗談を言う性格だっただろうか。

 確かにぼくも、今の彼女のことをよくは理解できていないようだ。

 なら、しばらくはこの幼馴染みを理解するために、のんびり付き合っていくしかないか。

 ぼくは脱力して、小さくため息をついた。




「なんか悔しいから、無理やり押し倒しちゃおうかな」

「……は?」

「いや、だってスカート姿かわいいし、男の部屋にずかずか入ってくるとか警戒心ゼロだし、誘ってるんじゃないかと邪推もしたり」

「な、し、してないよそんな!」

「少しは自分がかわいいって自覚を持ったほうがいいよ。ぼくも男だし」

「う……」

「冗談だよ。ぼく、そういうの苦手だし」

「……」

「……」

「……」

「本気にした?」

「うるさいっ」


 案外すぐに理解できそうな気がした。

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