二人目:偏食家

 俺は目を覚ました。カーテンの隙間から朝日が差し込んで丁度俺の顔に光が当たっている。まぶしいと感じる間もなく、腹から気持ち悪さがこみあげてくる。体もダルい。起き上がるのも億劫に思う。

 昨日はひどい目に遭った。

 浮気調査の依頼人が調査結果を見て、飲みに付き合えと言い出し、一緒に飲む羽目になった。いくら怒りを紛らわす為とはいえ、それに付き合う俺の事も少しは考えてほしいものだ。しこたま飲まされた為に見事に二日酔いだ。胸がむかつくし頭痛が酷く、吐き気がこみ上げて布団にぶちまけてしまいそうだ。

 何とかのろのろと起き出してトイレに行き、便器を抱えて盛大に吐く。これでもかというくらい胃から吐き出す。最後には胃液しか出なくなった。

 口の中が酸っぱい。喉も痛い。

 吐しゃ物をあらかた吐き出したら今度は水が欲しくなった。洗面所で口をゆすいで水を飲む。


「……はぁ」


 水を飲んだ事によってようやく吐き気も収まった。しばらく酒は御免だな。

 俺はリビングにあるソファに座り、テレビの電源を付けた。

 いつも朝はニュースを見ながら簡単な朝食を摂っている。昨日は胃がもたれる程飲んで食べたので、今日はお茶漬けでサラサラ流す程度で良い。

 冷蔵庫に保存していた冷や飯にお茶漬けの素をパラパラと乗せ、あらかじめ沸かしておいた熱い湯をたっぷりとかける。その上に酸味と塩味がきつく利いた梅干を乗せる。この梅干が寝ぼけた目を覚まし、胃腸を落ち着かせてくれる。近所の馴染みの漬物屋で漬け込まれた極上の梅干だ。

 テレビではキャスターが原稿を眺めながらニュース内容を読み上げている。

 

「昨日、ドイツのデュッセルドルフにて日本人が殺人と死体損壊容疑によって逮捕されました」


 外国で日本人が殺人とは珍しい。俺の感覚では、大概日本人は海外では殺される側だというのがお決まりだ。

 更にキャスターがニュースを読み進める。


「容疑者の名前は長谷川寛治はせがわかんじ。年齢は35歳……」


 俺は耳を疑い、更にニュースで映し出された容疑者の姿を見て目も疑った。

 テレビに映し出されていたのは俺の友人の姿だった。前に会った時よりも更に太っているように見える。腕や足はまるで某タイヤメーカーのマスコットキャラのようにパンパンになっていて歩くのすら億劫な有様だ。

 彼は移送されている間も笑っていた。嫌悪を催す爬虫類のような笑みは、しばらく俺の脳裏にこびりついて離れなかった。

 俺は茶漬けを食べる食欲すらなくし、職場に出向く準備を始めた。

 

 


* * * * *




 数年前、長期出張から帰って来たと長谷川から連絡があった。

 確か彼は中国に行くと言っていた記憶がある。俺は中国に依頼で何度か行った事があり、中国文化や食事について教えてくれと請われて会った事がある。

 その時の彼は本当に憂鬱そうな表情で、何度も何度も本当は行きたくないと愚痴っていた。よっぽど行きたくない彼なりの事情があった。

 だが彼はその苦難を乗り越えて帰って来た。

 どうやって中国での暮らしをしのいできたのか単純に興味があるのと、久しぶりの友人の顔を拝むために、俺は大学時代に二人でよく利用していた馴染みの喫茶店でコーヒーを飲みながら待っていた。


 待ち合わせ時間の五分前に、長谷川はやって来た。

 最初は彼だとはわからなかった。俺の記憶にある長谷川という男は、ガリガリに痩せて死神と揶揄されるような奴だった。

 それが今会ってみたらどうだ。まるで相撲取りのごとく恰幅が良いではないか。横幅が以前と比較して単純に二倍かそれ以上はある。特注サイズと思われる黒いスーツも、動くたびにはちきれそうで見ているこちらがなんだかハラハラする。

 ふうふうと息をしながら、俺の向かいの席に長谷川は座った。この店の椅子は大分頑丈な作りのはずだが、みしりみしりと嫌な音を立てる。


「糸田、久しぶりだな。お前はちっとも変わらないなぁ」

「長谷川が変わり過ぎなんだよ。二年前の記憶の姿とまるで違うから最初は人違いだと思ったぜ」


 彼はポケットから厚手で大きめのハンカチを取り出した。額に浮かぶ汗をぬぐうためのようだ。太っている人は少し動いただけで結構な汗の量が出る。彼も例外ではなく、手放せない品となっている。

 今日は春という割には肌寒い日なので、周囲の人々は長袖の上着や薄手のジャケットを羽織っていると言うのに、彼はやたらと暑がってスーツを脱いで椅子の背もたれに掛けてしまった。


「あ、すいません。アイスコーヒーお願いします。シロップとミルクありありで」


 そしてアイスコーヒーの注文である。以前ならばコーヒーの匂いは鼻を突きさしてくるので嫌がっていた筈なのだが。


「長谷川、お前コーヒーも飲めるようになったんだな」

「ふふふ」


 ニヤリと長谷川は笑い、注文されてすぐさま来たアイスコーヒーにたっぷりとシロップとミルクを入れてかき混ぜる。コーヒーの黒とミルクの白がまだらに混ざっていき、やがてお互いに完全に混ざりきって色合いが茶色へと変わっていく。

 混ざりきってもまだマドラーをぐるぐると長谷川はかき混ぜている。底に溜まったシロップも均一に混ぜる為だ。シロップの混ざり具合など肉眼でわかるはずもないのだが、長谷川は真剣な表情でコーヒーを見つめながらマドラーを回す。

 やがてシロップも均一に混ざった時、長谷川はストローも使わずに一気にアイスコーヒーを飲み切った。その飲みっぷりに唖然としていると、


「すいません! アイスコーヒーのおかわりお願いします」


 と、通りがかった店員に勢いよくアイスコーヒーの注文をしたのだった。

 


 かつての長谷川は極端な偏食家だった。

 食べられる料理と言えばカツ丼とハムエッグ、塩おにぎりにヨーグルト。野菜は辛うじてキャベツの千切りが口にできるくらいで、他の料理は全て受け付けなかった。

 飲み物に関しても同じで、コーヒーみたいに刺激の強く癖のあるものは駄目で、せいぜい緑茶と牛乳程度しか口にしなかった。

 食べられる物がほとんどないと良く嘆いていた。無理やり何かを食べようと思ったら調味料をふんだんに使って味を誤魔化すしかないというのだ。

 その上に食も細く、茶碗一杯のご飯も残す有様で、ガリガリにやせ細っているのも頷ける有様だった。ビタミン類は錠剤などでなんとか補っていたが、カロリーが圧倒的に足りず、栄養失調で倒れては病院で点滴を受けるという事も度々あった。

 そんな彼だから、なるべく出張等をしないようにと立ち回っていたのだが、ついに死刑宣告に等しい通達が彼の元にも来たのだった。


 長谷川寛治、中国への出張を命ずる。


 偏食で体が虚弱気味ではあるものの、彼は営業職としては抜群の成績で、月間トップの売り上げを何度も上げた事がある。上司の覚えも良く出世コースに乗っていた。ここらで海外出張する事で更に高い役職への見通しも出てくる。

 常人であれば是非もなく出張に行くだろう。

 彼は難色を示した。しかし社命である。行かなければ左遷もあるぞと暗に上司は言って来た。

 もちろん、出世はしたい。

 だが出張には行き難い。この極端な偏食の為に。

 国内出張ならば薬やサプリメントの手配もどうにかなるし、食事もカツ丼程度であればコンビニや定食屋、チェーン店でも置いてあるのでどうにかなる。渋りながらも出張に行く時は行っていた。

 だが海外出張ではそうもいかない。数少ない慣れ親しんでいた料理はあるかどうかすらわからず、薬やサプリメントの手配もどうなるか分かったものではない。

 

 結局出張に行くのは確定事項となった。

 ならば、やる事は一つしかない。

 どうにかして偏食を治す。治すまでは行かなくとも食べられる品目を増やす。そうしなければ中国で暮らせやしない。

 試しに彼は牛肉のステーキを食べてみた。カツ丼なら食べられるので肉類ならいけるのではと安易に思ったが、これは駄目だった。肉の脂が強すぎて気持ち悪さがこみあげてくると言っていた。

 あっさりとした料理ならば良いかというと、そういうわけでもない。

 スープ類は使われた素材の匂いが強く鼻につくと感じ、匂いだけでパスらしい。もちろん野菜なんかは苦みや酸味、えぐみが苦手なため、どんな調理法であろうとも受け付けない。

 無理やり食べて慣れようともしたが、即座に胃腸が拒否反応を起こして嘔吐する為、慣れるという問題でもなかった。

 様々な手段を講じたり、料理法を試してみたり、限りなく良い、新鮮な食材を探したりと出来る事はやりつくしたが、それでも彼の偏食は一向に治らなかった。

 中国出張を諦めるしかないのか。

 そんな考えが彼の頭を支配し始めた頃、奇妙な店に出会ったのだと言う。


 長谷川が中国出張に行く数か月前、新規開拓で地方の小さな都市へ出向く事があったと言う。その街のとある場所で、道に迷ったらしい。

 方向感覚が突然狂ったと彼は言っていた。そんな事がありうるのだろうか?

 それは置くとして、彼が迷い込んだのは形が似た様な住宅と小さい商店が交互に延々と立ち並ぶ所で、初めて来た人はまず間違いなく迷う場所だ。

 彼はしばらくカンを頼りに歩いていたが諦め、地図で現在位置を確かめる為に、電柱に書かれている住所を見ようとした時、赤い看板の店を見つけた。

 理由もなく、その看板に強く惹かれたという。

 目立つ看板とは引き換えにひどく地味な店構え。がっしりとした作りの古めかしい入口のドアの取っ手を掴み、店へ入る長谷川。

 店の中は天井からの薄暗い白熱灯による照明のみで、あまり遠くまでは見通せない。もっとも、店自体がそこまで広いものではないので強い照明が必要ないのだが。

 棚の商品ひとつひとつを眺める長谷川。どれを見てもそこらの商店やコンビニに置かれているような雑貨しか見かけない。どうやってこの店は利益を出しているのだろう? 道楽で店をやっているのかなどと考えながらゆっくりと歩を進めると、店主がレジ前のテーブルでなにやら商品を見ながら唸っていた。

 テーブルには、木製のペッパーミルらしき古めかしい入れ物が一つだけ置かれている。


「……ふーむ、うーむ」

「あの、すいません」


 長谷川が声をかけ、ようやく来客に気づいた店主は、人懐っこい笑顔を彼に向けて言った。


「これはこれは、気付かずに失礼しました。わが雑貨店に何か御用ですか?」

「いや用というか……道に迷ってしまいましてね」


 思わず口から出て、自分が道に迷っている事を改めて思い出す長谷川。


「この辺りは似た様な景色が続きますからね。こないだも同じようなお客様がいらっしゃいましたよ」

「そうなんですか。……ところで、その、なんですか、その胡椒入れみたいなものは? 入れ物だけですか?」

「中身もちゃんと入ってますよ」

 

 長谷川が尋ねると、店主はそれを持ち上げて、白い皿の上にミルの取っ手を握ってゴリゴリと中身を削り出す。中からは黒胡椒に似た粉末が少しずつ皿の上に落ちてきた。長谷川は怪訝な顔をしてその粉末と店主を交互に見る。


「黒胡椒ですか?」

「と思うでしょ? 匂いを嗅いでみてくださいよ」


 言われて粉末に鼻を近づけると、長谷川の目が大きく見開かれ、信じられないと言われるような表情を浮かべた。


「凄い芳醇な香り……。甘くてバニラに似ている。でもそこまで甘ったるくないんですね。鼻を通り抜ければふっと消えてしまう儚い香りですね」

「わかります? この香りのよさ。でも本当の効能は食材にかけた時にあるんですよ」

「食材に、ですか?」


 店主は粉末が乗った皿をテーブルに置き、長谷川を品定めするかのように靴の先から頭までを眺めた。改めて長谷川を見て、なにやら嬉しそうにうなずいて彼に問いかける。


「ところで、あなたのお名前は?」

「長谷川と申しますが」

「失礼ながら長谷川さん。貴方、食が細そうですね」

「え、ええ」

「そして、貴方偏食を患ってませんか?」


 どきりと、長谷川の心臓が跳ねる音がした。

 長谷川は何も答えなかったが、店主は彼の様子を見て目を細めた。

 なぜこの店主はそこまで見通せるのだろう。


「ええ、ええ。見ればわかりますよ。神経質で少々頑固そうな顔だち。偏食を抱える人々に共通してますからね」


 もっともらしいことを並べ立てる店主。長谷川はこの店主には全てを見通されていると感じた。藁にもすがる思いで、店主に事情を話す。


「実は……これから中国へ行くことになってまして」

「中国ですか。食の本場じゃないですか、実にうらやましい。おっと、貴方にとってはそうでもないですね」

「ええ。偏食ですからね。カツ丼くらいしか食べられないんですが中国にはそんなもの、たぶんないでしょう。偏食を治そうと努力もしたのですが結局無駄でしたよ。この出張さえこなせば、出世ルートに乗れるんですけどね」


 長谷川が自嘲気味に笑うと、店主は微笑みながら彼の手を両手で握った。

 

「大丈夫。これはそんな貴方にこそ必要なものですよ」

「私にですか?」

「はい。実はこれ、調味料なんですよ。見ればわかるかと思いますけどね」

「はあ」

「それでですね。この調味料を料理にかければ、なんでも美味しく食べられるようになるんですよ」

「なんでも……ですか?」


 なんでも美味しく、という言葉にわずかに反応する長谷川。しかし、その手の商品を幾度と掴んでは失敗してきた。疑いの目で商品を見ざるを得ない。

 もちろん、その程度の事を見抜けない店主ではない。不敵に笑い、こう言った。


「まあ、そんな事を言われても信じられないでしょう。この手の商品は一度体験してみませんとね」


 いつの間に用意していたのか、店の奥から店主が持ってきたのは生野菜のサラダだった。瑞々しいトマトとレタス、キュウリに大根が綺麗に敷き詰められている。店主はそのサラダに先ほど粉末にした調味料を指先ひとつまみだけを振りかける。


「さあ、召し上がってみてください」

「……え、ええ」


 ほとんど何も食べられない長谷川だが、特に苦手なのが野菜だ。食べたとたんにえずく事になるのをわかっているので、恐る恐ると言った風にトマトを口に運ぶ。

 顔をしかめ、口を動かしている。

 一噛み、二噛み、三噛み……。

 噛むごとに長谷川の表情が変化していく。困惑し、驚きに目を見開き、そして歓喜と幸福の渦へと感情が変わっていく。彼の舌は今、野菜の旨味を確かに味わっていた。口を手で抑え、思わず唸った。


「これは凄い……。野菜ってこんなに甘かったんですか? 私には野菜なんて苦みとえぐみしか感じ取れなくて、とても食べられる物ではないと思っていたのですが」

「でしょう? これは素材の味わい、旨さを極限にまで引き出してくれる。また食した人の味覚の感じ方を良い方向に引き直してくれるのです。だからこそ苦手な食べ物がなくなるというわけでしてね」


 長谷川は即座に懐から財布を取り出し、万札に手を掛ける。


「いくらなんです?」

「そうですね。これ一つで十万円です」

「十万、ですか?」


 たかが調味料だというのにそこまでの値段がするのかと一瞬躊躇する長谷川。

 それを見て店主の笑みが、微笑みからいやらしいものに即座に変貌する。

 

「おやおや、そこで躊躇うのですか? 今の貴方に最も必要なものだと思うんですけどね……。欲しくないと言うのなら仕方がない。他のお客様に購入してもらうとしましょう」

「ま、待て! 買わないとは言ってない。ちょっと高いと思っただけだ。金はある。金はあるから買わせてくれ!」


 店主が調味料を仕舞おうとした所、泡を食って長谷川は財布から十万円を取り出した。お金を受け取り、数えて金額が合っている事を確かめると店主は満面の笑みを浮かべた。


「そう、それでよいのです。貴方はもっと色々な物を食べたいでしょう。これはその欲を叶えてくれるものでもあるのですから」

「欲……」

「そうです。貴方は他の人がおいしそうに何かを食べているのを横目で見ている事が多かったでしょう。そのような思いを、もうしなくてもいいんです。貴方にも存分に様々な料理、食材を楽しむ権利はあるのです」

「そうか。そうかもしれないな」

「ではその調味料、大切にお使いくださいませ。……もっとも、二つ注意点がございますが」

「注意点?」


 店主の笑みが引き、真剣な眼差しで長谷川の目を見据えた。


「ええ。使用する場合はごく少量にとどめてください。例えば、サラダであれば一振りだけ振るとかね。そして、なるべく自分に馴染みのない調理法、食材に使用してください。この調味料の説明書にそう書いてありますので」

「はあ」


 長谷川は気の抜けた返事をした。

 警告をしたのち、店主の表情は先ほどの微笑みに戻り、丁寧なお辞儀をした。


「長谷川様の食生活が豊かになる事を祈っておりますよ。またのご来店をお待ちしています」


 店主に見送られながら、長谷川は店を後にした。また来る事があるかもしれないと思い、彼はこの店の住所を確認しスマートフォンのメモに記録する。

 店から出ると、大通りへの道を確認して彼は会社へと戻った。あの調味料を鞄に携えて。

 それから、彼はあらゆる食材、料理にこの調味料を使ったと語る。

 長谷川にとって、ほとんどの食材は食べた事のないものだから仕方ないとも言えるが、それにしてもその使いっぷりは尋常ではなかった。

 調味料を手に入れたとはしゃいでいた時の長谷川と一緒に食事をした事があるが、彼はその時の料理に惜しげもなく調味料を振りかけていた。


「おい、説明書の注意書きとやらに従わなくてもいいのか?」


 俺が質問すると、長谷川はニヤリと笑って


「そんな事守ってたらね、何も食えないさ」


 意に介さずに料理を口に運んでいた。

 確かその時俺たちが行った料理店は、一風変わった店で日本では馴染みの無い食材を提供する店だった。カエルや蛇程度ならまだしも、虫料理まで出てくるのは閉口した覚えがある。虫を退治するのは平気だが食うのはぞっとする。

 俺が口もつけなかったサソリのから揚げや、タガメの煮つけなんかも長谷川はぺろりと平らげていた。

 やがて調味料はなくなったようだが、そのころにもなれば長谷川は完全に偏食を克服していた。いや、あれは克服したと言うよりも、何かもっと別に例えようがあるような気がしてならない。食に目覚めた? それも違う気がする。

 ともあれ、中国出張する辺りになると死神と揶揄された肉体はすっかり標準体型になっており、彼は元気に中国へと旅立ったのだった。

 


 ……中国出張を終えて戻ってきて俺の目の前にいる男は、更に太って帰って来た。

 仕事の内容もそこそこに長谷川と雑談をしているが、彼が喋る内容と言えば食べる事ばかり。それもゲテモノ喰いと揶揄される物を食べてはどんな味、食感がしたかを爛々と輝く瞳で語るのには辟易した。

 俺も食べる事に興味はある方だが、あの調味料を得てからの長谷川の食欲の昂ぶり具合は異常だと断言できる。既にアイスコーヒーでは飽き足らず、サンドイッチやナポリタンといった軽食まで頼んではすぐに平らげている。口の周りを盛大に汚していてもまるで気にせず、食べ物に対して無心に食らいついていた。


 長谷川と別れる前に、俺は彼から赤い看板の雑貨店の住所を聞き出した。

 長谷川のあまりの変わりように、俺はある予想を立てた。

 もしや、彼はその店主から調味料と偽って麻薬を売られたのではないか。麻薬によって食欲を亢進させられ、なんでも美味しいと感じるように味覚が変わったのではないか。でなければ、他に説明のつけようがない。

 だが、彼には麻薬特有の症状などは見受けられない。傍から見る限りでは行動に異常もないし、手足が震えたり時折ぼうっとする事も無い。至って健康だ。

 麻薬関連からの調査は諦め、その『調味料』とやらを売った店主に事情を聞こうと俺は考えた。

 彼が訪れたという地方都市に赴き、赤い看板の雑貨店の店主に事情を聞こうと思ったが、アテは外れた。住所とされる場所に店はなく、更地が残されるのみだった。

 周辺で店に関する聞き込みも行った。しかし、近所の住人は一様に、そんな店など存在しないとしか言わなかった。誰かに脅されて口を閉ざしている様には見えない。

 では、長谷川はどこの誰から調味料を買ったと言うのだろう?

 霧のように店も店主も消えてしまい、手がかりは失われた。

 俺は長谷川と会って話をした事も、赤い看板の雑貨店の事もいつの間にか忘れて、日常へと意識を埋没させていった。




* * * * *




 彼と最後に会った時の事を思い出しながら歩き、俺は職場にたどり着いた。

 古ぼけたビルの二階の一室。そのドアには『糸田探偵事務所』というプレートが張られている。

 鍵を開けて中に入ると、待っているのは木製のデスクと革張りの椅子が一セット。デスクの上には書類が封筒に入って積まれている。デスクの傍らにはコートハンガーを置いているが、今の季節にはただの置物だ。

 デスクと椅子以外にはパーテーションで区切られた応接スペースがある。もっとも、最近はあまり人が来ないのでそこが使われる形跡がなく埃が積もっている。

 あとは書類をまとめて置いておく為の書棚。

 その程度の殺風景な部屋が俺の仕事場だ。

 昨日、調査を終えてしまったので今日は仕事は無い。俺は椅子に座り、背もたれに体を預けて天井を見上げる。


「……」


 考えていた。

 彼に会って、何をしたのかを聞くべきなのだろうか。

 これは仕事ではない。行ったとて金は一円も手に入らない。

 だが妙に胸糞悪かった。あの醜悪な姿がどうも脳裏から離れない。

 俺は机の上に置いてあったミント味ボトルガムの蓋を開け、二粒掴んで口に放り込んで乱暴に噛む。

 ガムが噛まれて口によく馴染んでくる頃合いに、俺はデスクに備え付けてある固定電話の受話器を取った。



 そして翌日。俺はドイツの刑務所にいる。

 殺風景で寒々しい面会所で俺は待っていた。椅子は固く尻が痛い。古い時代に作られた為か刑務所は石造りの建物だ。ドイツは日本よりも寒く、今日は吐く息が白い。

 面会者と受刑者は区切られた一つのスペースで、アクリル板越しに話をする。もっとも直接会話する事は出来ず、仕切りに備え付けられた受話器で話をする。

 分厚いアクリル板で仕切られた部屋。その向こう側のドアから、刑務官に連れられて男が入ってくる。その男は嫌悪を催すような笑みを浮かべ、口の端からよだれを垂らしながら椅子に座る。一人分では幅が足りないので二人分の椅子をわざわざ用意させている。その椅子も男の体重を支え切るには少々荷が重いようで、金属製のフレームが軋んでいるのが見えた。

 受刑者と会話する為、俺は受話器を取った。男も同じように受話器を取って耳にあてる。俺から口を開いた。


「久しぶりだな。糸田。元気してたか? 前よりも痩せたんじゃないか?」

「……元気だよ。長谷川、お前また太ったな」

「よく言われるよ。で、わざわざ日本から私に会いに来るとは何の用だい。仕事か?」

「いや、友人としてだ。……お前、何があった?」

「何があった? それはどういう意味かな。私が何故こうなったかって事かい?」


 声を上げて笑う長谷川。笑うたびに体の肉が揺れる。その様は飽食を極めた王様と言った感じで、極めて不快だった。思わず俺は声を荒げてしまう。

 

「名前のない、赤い看板の雑貨店に行って得体の知れない調味料を手に入れてからお前はおかしくなったじゃないか。一体あの調味料、何だったんだ? あれは麻薬じゃないのか」

「そんな事は私にも知らないよ。知りたければ店主にでもあたるべきだね」

「店はもう無い。連絡もつかない。お前だけに別の連絡先を教えていたりはしないのか?」

「店の連絡先しか知らないね。……そうかぁ、店もなくなっていたのか」


 長谷川はなにやら目を瞑って頷いている。

 店主に関することはこれ以上追及しても無駄か。ならもう一つの質問をぶつけるとしよう。


「率直に聞くぞ。長谷川。お前、何をやらかした?」


 その質問を聞くなり、長谷川は目を見開いた。顔にまで肉がでっぷりとついているため、以前よりも目が細く見える為に見開いていると気づくには少しばかり時間を要したが。


「この面会時間で語れる話題じゃない。あとで手記にでもまとめて君に送るとしようかな。君が嫌がらなければの話だが」

「……」


 答えないでいると、長谷川はまた嫌らしい笑みを浮かべて俺に問う。


「私がただの人殺しを犯しただけなら、君はここまで来ないだろう? 私の変貌ぶりを間近に見てる君なら、何をやったか薄々わかってるんじゃないのかい」

「……俺の想像が外れてる事を願うばかりだよ」

「手記を書いても中身が検閲されるのが心配だな。あ、日本語で書けばいいのかな? ははははははは」


 笑う肉塊が揺れている。本当に醜悪で気持ち悪い生き物だ。これが同じ人間だとでも言うのか。

 どうしてああなっちまったんだ? どこで奴は道を間違えた?

 俺の頭で考えても答えが出る筈もなく、空虚な思いに胸が締め付けられる。

 長谷川が笑い終え、喋る事もなくなり二人で受話器を持って黙り込む時間が続く。

 そのうちに、刑務官が腕時計を見つめ始めた。


「どうやら、そろそろ時間のようだね。何かほかに聞きたい事はないのかい」

「……いや、今のところは思いつかない」

「なら、思いついたらまた来てみればいいさ。まあ、日本からドイツなんてそうそう来れないだろうがね。たぶん手記は一か月くらいでまとめられるはずだ。その時を楽しみにしてくれ」


 その言葉の後、二人の刑務官が長谷川の脇を抱えて運ぶ姿勢を見せ、彼を立ち上がらせる。


「じゃあ、元気でやってくれよな、糸田君」

「……」


 俺はなんと言葉を返せばよいのかわからず、受話器を持ったまま長谷川を見ていた。彼はゆっくりとした足取りで歩いていき、ドアの向こう側へと消えていった。


 長谷川との面会後、俺は自分が宿泊しているホテルに戻り、ベッドに寝転んで天井を見上げていた。

 今回の事情聴取の為に三泊四日の予定を組んではいたものの、あれ以上話をしたところで限られた面会時間程度では何もわからない気がする。

 だからといって観光でもする気分にはなれない。

 俺はベッドの脇のサイドテーブルに置いておいたボトルガム容器からガムを二粒取り出して口に放り、乱暴に噛む。

 

「……ちっ」


 手記が来るまでのうのうと日本で待ってなどいられない。

 動機が何なのかはあいつの手記を待つとして、何をやったのかだけでも知りたい。

 確かニュースでデュッセルドルフで犯行に及んだと言ってた覚えがある。

 俺は持ち込んでいたノートパソコンで今いるフランクフルトからの電車の時間と経路を調べ始めた。



 デュッセルドルフは経済の街とも言われているらしく、その為か街を行きかう人々の数はかなり多い。日本人街も存在するようで、街中でも存外日本人と思しき人々の顔を見る事も多い。

 俺はデュッセルドルフの駅に降り立った。

 中国出張後の長谷川とは電話やメールでやり取りをしていた事がある。ここ一年ほどは全くの音信不通だったが、最後の連絡ではこの街に出張して住んでいるとのことだった。

 日本人街があり、日本人が住んでいてもなんらおかしくない場所。この街での犯行になるほど合点が行った。だが、あれだけの体型の持ち主なら日本人の中に居たとしても目立つだろう。

 実際に街で聞き込みをしてみたが、すぐに彼が住んでいた所はわかった。

 駅にほど近いマンションの一階角部屋に住んでいたと言う。現在は誰も住んでおらず空き部屋になっている。まあ人殺しの住んでいた部屋なんて敬遠するだろうな。


 マンションの管理人に連絡を取って事情を話してみると、すぐにこちらまで来てくれた。

 話しを伺ってみると、長谷川は周囲の部屋の住人とトラブルを起こす事もなく、平凡に暮らしていたと言う。営業という仕事上、不規則な帰宅ではあったが特に苦情などもなく貸した側としては楽な人だったと語っていた。

 許可を取り、彼の部屋の鍵を借りて入る。

 部屋は既に空っぽになっており、殺風景極まりない様子だった。荷物やベッドなどの家具は全て管理会社によって撤去されている。長谷川が刑務所から出る事が無いと言う見込みの元に動いた結果だろう。証拠品となるものは警察が押収している。

 血痕くらいはないかと思ったが、部屋は綺麗に掃除されていた。まあ、血が付いた部屋なんか誰も借りたくないだろうしな。

 俺は管理人に感謝を述べ、マンションを後にした。


 結局、俺は何も得られずにデュッセルドルフの街を彷徨っている。

 冷静に考えてみれば当たり前だ。

 犯人は逮捕された。事件も全容は明らかになってないが、どうやらただの殺人ではないという事は認知されている。今更調査したところで何がわかる?

 ただの自己満足だ。

 これ以上の調査に何の意味があるかと問われれば、意味など無いと返すだろう。

 意味はない。それは俺にもわかっている。

 やれることをやらなければ気が済まないのだ。

 今ある時間を使って、出来うる限りの事が知りたい。

 あまり気が進まないが、俺は被害者の家族にコンタクトを取る事を試みた。一応、長谷川は彼らとも一度だけ面会したことがあり、その時にお互いに連絡先を交換したのだと言う。もっとも長谷川が何か手紙を送った所で何のレスポンスも無い。俺が被害者の家族だとして、自分の娘を殺した奴から出てくる言葉なんて一言も聞きたくはないから当然の反応だとは思うがね。


 果たして、被害者家族はインタビューに応えてくれることになった。といっても彼らはこのデュッセルドルフには住んでおらず、電話でのインタビューと相成った。

 ただの探偵が気まぐれに調査しに来ましたと言った所で話しに応じるはずもないので、俺の身分はジャーナリストという事にした。インタビューに応じてくれた分の礼金も払う。それは義務であり当然の事だ。

 インタビューに応じてくれたのは被害者の年老いた父親だった。

  

「インタビューに応じていただきありがとうございます。早速ですが、貴方の娘さんはいったい何故長谷川と連絡を取り合っていたのですか?」


 俺が話を聞くと、父親はしゃがれた低い声でぼそぼそと話を始めた。


「元々ウチの娘は少々頭がおかしかったんだよ。自殺願望だか何かがあるらしくてな、腕をナイフで切ったり首を吊ったり等の自傷行為が激しかった。だから今回の事もある意味では当然の事だと思うとる。そんなのでも娘は娘だ。愛娘をあんな酷い目に遭わせた奴の事は一生涯許す事など……ありえないがな」


 許すことなどあり得ない。当然の言葉ながら、その意味は重い。

 一呼吸置いたのちに、父親はまた語り始める。

 

「娘が長谷川と名乗る太った男と連絡を取り始めたのは、二カ月ほど前の事だった。

娘みたいな奴と交際するとは珍しい男も居たものだと思っていたよ。娘は程なくして長谷川の所へ行くようになり、その都度彼が理想の男性だと口にしていたよ。その時は呑気についにこんな娘にも引き取り手が現れたかと胸をなで下ろしたもんだ。だがその思いは間違っていた事に後になって気づくのだがね」

「先日の……事件ですね」

「そうだ。ある日、娘はデュッセルドルフに行くと言い残して帰ってこなかった。大人なのだから何日か帰ってこない事もあると思っていたよ。だが、娘の勤めていた職場から娘が無断欠勤しているという連絡があって、嫌な予感がした。警察に行方不明者の連絡をすると同時に、私は娘のパソコンのインターネットの閲覧履歴を調べた。いつも娘はインターネットをしていたから、何か手がかりでもないかと思ったんだ。すると、いかにも怪しいサイトが見つかった」

「怪しいサイト?」

「なんという名前だったかな。……忘れてしまったが、娘が書きこんでいたスレッドのタイトルが衝撃的だったな。確か、食べられたい人募集というスレッドだったように思うが」


 食べられたい人募集。その文面を一度見れば、誰もがジョークだと思うだろう。特に不特定多数が居る掲示板ともなれば。だが、このスレッドに限ってはジョークなどではなかったのだ。

 

「娘のハンドルネームと、スレッドを立てたと思われる奴のハンドルネームがやり取りをしていた。内容については申し訳ないが割愛させてもらいたい。口にするのも嫌になるのでな」

「ええ、わかってます」

「次に私はメールの内容を見た。そこではスレッドでのやり取りから踏み込んで、何をどうすべきかの連絡を取り合っていたよ。内容は……吐き気がする程おぞましいものだった。私の娘がいつどうやって食べられようかという相談だったのだからな。今思えば、何度か長谷川の元へ行っていた時の娘の様子にもう少し気を払うべきだった。その時々に、娘は腕や足に包帯を巻いていたのだから」


 腕や、足に、包帯……。何かを想像しそうなのを、頭を振って無理やり止める。


「吐き気と同時に怒りを感じたよ。理不尽もな。後日、長谷川は捕まった。私の娘は、断片しか残されていなかった。顔と胴体の一部と、手と足の一部分。それでどうやって娘は天国へ旅立つというのかね? いや、自殺に等しい事をしていたのだ。きっと地獄へ落ちているだろうな」

「……」

「ともあれ、私が知っている事はこれで全てだよ。あまり協力出来んで申し訳ない」

「いえ、とんでもない。ご協力感謝いたします」


 あらかた会話が終わった後に俺は父親に口座番号を聞き、日本に帰り次第お金を振り込む事を約束し、俺は会話終了のボタンを押して携帯電話を胸ポケットにしまい込んだ。

 父親にインタビューをしたのは正解だった。動機はともかく、大体は俺の想像通りの出来事が起きたのだ。

 予想が当たっていてもまるで嬉しくもなかった。俺の友人はいつの間にか人間ではない、何かの怪物になってしまったのだから。


「にしても、食べられたい願望か。そんなものを持つ人間がいるなんて業が深いというか、なんというか。……あいつにしても業が深いのは同じだが」


 俺はインタビューをまとめながらひとりごちた。

 もう少し調べていきたい所だったが、この電話によるインタビューをまとめ終わった時には、既に空港へ行かなければならない時間だった。できればもう一度長谷川に会って細かいところを聞きたかったが仕方がない。

 俺は飛行機に乗り、長い時間を掛けて日本へと戻った。


 ……俺が日本に戻ってからきっちり一か月後に、長谷川の手記は届いた。

 革の装丁がなされた簡素な手帳に、日本語で書かれている。

 来るべきものが来た。俺はその手帳を開きたいと思ったし、同時にずっと机の奥底に埋めてしまいたいとも思った。

 だが、友人であった俺が読まずしてどうするというのだ。

 恐る恐る手帳の一ページ目を開く。前書きらしき文が綴られている。

 


 ――どうして私がこのような行為に至ったのかを説明した所で、誰が理解者になってくれるだろうか。私の知る限りの人々には恐らく居ないだろう。手記にまとめようと思ったのは自分の行為と考えをまとめる為だが、同時に誰かに理解されてほしいとも思ったからだ。まずこれを読むのは、恐らく人に見せようとしてない限りは糸田君だろう。……人は誰しもが欲望を抱えている。私の場合は食欲に振り切れた。勘違いしないで欲しいのは、『調味料』はただの切っ掛けに過ぎないという事だ。仮にあれが無かったとしても、私はまた別の欲望を見出していたかもしれない。何が起こるかなんて誰にもわからないからこそ人生は面白い――

 

 前書きを読み終えてページをめくる。偏食を治してから最初の頃の事が綴られている。そこの内容は比較的穏当で、あらゆる食べ物に興味が湧いて色々と食べ歩きをした、ある街の定食屋を制覇したと言った雑多な内容が記されていた。

 

「なんだ、しょうもない内容ばっかりだな……」


 半ば呆れながらページをめくっていくと、俺の記憶と整合する内容が書かれたページに当たった。

 それは俺と長谷川が一緒にゲテモノ料理屋に行った時の記録だった。俺が辟易しているのを尻目に、長谷川は出された料理を全て食い尽くしていた。彼は次のように記している。


 ――驚いたことに、私の食欲は衰える事を知らない。あの調味料によって内臓機能までもが強化されたのだろうか。全く有難い限りだ。今日はいわゆるゲテモノ料理屋という所へ面白半分で行ってみたが、中々どうしてカエルや蛇、サソリやタガメなんかも美味じゃないかと舌鼓を打った。タンパク質は豚や牛、鳥だけじゃないって事だな。栄養源としてもそうだが、虫は実に旨い。同行した糸田は青ざめた様子で私が食べているのを酒をあおりながら眺めているだけだったが……。それにしても、世の中には私の知らない食材がたくさんあるものだ。私の仕事を利用して、世界中のあらゆるものを食べたいものだ――

 

 ここから、彼の食に対する欲求や熱望は更に加速していく。

 ある時はマレーシアやタイに赴いて虫料理を食べた。またある時はオーストラリアに行って芋虫の仲間を食べたと言った内容だった。虫だけにとどまらず、普段は食用とされない生き物の味まで確かめようとして危うく死にかけた等の記述もあった。全て味や食感等を事細かに記してある。まさかコアラやコウモリと言った物まで食べようとしているとは思わなかった。執念にも似た何かが彼を突き動かしているとしか思えない。

 俺は更にページをめくる。


 ――私は出張とプライベートの旅行で、行ける所へは行き、食べられると聞いたものはあらかた食べつくした。世界中のあらゆるものをこの数年間で食べきった。もはや私の興味を惹く食べ物は何もない。そう思っていた矢先に、私の脳天は電撃めいた閃きを得た。まだひとつだけ、口にしていないものがあるではないか――


 この記述の先をできれば読みたくはなかった。だが、目は文章を追い続ける。


 ――そう、人だ。人間だ。カニバリズムというやつだ。同族を食べる。禁忌とされる行為であり、忌み嫌われるもの。世界中の事例を見ても常時行っている部族はほとんどない。一部見られるのも緊急避難的に行うものと、個人が興味や嗜好をもって行われるものだけだ。純粋に食人を目的として行われた事例は更に少なくなる。食人行為には得てして性的欲求も伴うものだが、私には一切それはない。純粋に、どうしようもなく味を知りたかった。感触を確かめたかった。肉を、歯で噛みちぎった時、果たして硬いのか、柔らかいのか。どう調理すれば美味しくなるのか。

 煮込み? 焼き? フライ? 興味は尽きない。私には倫理や道徳的観点からの罪悪感や遵法精神はもはや存在していなかった。どうすればそれが味わえるのか、その一点しか考えていなかった。そんな折に、ドイツへの出張を命じられたのだ――


 ページを更にめくる。めくる。めくる。

 道端に吐き捨てたくなるような嫌悪を催していると言うのに、指の動きは止まらない。


 ――過去、ドイツでは結構な件数の猟奇殺人事件、それも人の肉をさばいて売ったり食べたりしていた事件があったと聞いている。勿論、過去に事件があったからといって私がこれから行う行為が正当化されようとは夢にも思っていない。どうすれば望む人と出会えるのか。考えるよりも過去の事例を見た方が手っ取り早いと思って検索すると、インターネットに広告を出して募集するという手法を取っていた男が居た。それを参考に、私はインターネットの掲示板を利用する事にしたのだ。

 しかし、その手の嗜好を持った人など中々現れるものではないだろう。気長に待つかと思っていた矢先に、応募してくれた人が現れたのだ。

 真に自分は運が良い。

 応募してくれた三十代の女性とも意気投合し、何度も会ってはどうしたいか、どうされたいのかを話し合い、相手の意図を深く探っていった。そうして計画は練られ、実行へと移した――


 ――最初は意識を覚醒したまま解体されたいと望んでいた彼女だったが、痛みに耐えきれないと言った様子で殺してくれと懇願されては仕方ない。不本意だが彼女をアルコールと薬で眠らせてから失血死させた。血抜きは肉を美味しく食べる為には不可欠。あらかた血を抜いた所で私は解体にかかった。素人がやる解体作業である。豚や牛の解体はこの数年で何度か体験したが、人間はまた構造が違うので多少時間が掛かった。数時間かけて、内臓の取り出しと手足の解体は終わった。大量の血は風呂場に流し、内臓は強酸で溶かしてこれまた下水に流した。肉の重さを測ればおよそ十五キロくらいにはなっただろうか。肉と顔は冷凍保存し、ひとまず食事にありつく事にする。勿論食べるものは今さっき解体したこれだ。

 どうやって食べるべきか頭をひねり、まずは日本人らしく刺身でいただく事にする。皿に盛りつけると実に美味しそうに見える。醤油は持っていたがワサビが無い。仕方がないのでマスタードを使う事にした。マスタードをちょいとつけて、肉を食べる。あの女性は運動していたためか、肉質が締まっている。だが脂も適度にあり、実に旨いではないか。でも、牛や豚ほどではない気もする。パリで人肉食事件を起こした犯人は人肉の味に美味いと叫んで踊り狂ったという逸話を聞いたが、あれは恐らく憧れのものをついに口にしたという歓びも混じっていたから極上の味に思えたのだろうな。全く不味いというわけでもないので、しばらくはこれで食費も浮かせる。

 ……様々な調理法を楽しんでいたが、煮込み料理が一番旨いのではという結論に達した。どうも今回の肉については癖がある。恐らく食べている食材や生活習慣によって肉質にも差が出るのだろう。そこは育てられた家畜でも違いが出る所だ。シチューやカレーで食べると一番具合が良い。そうやって消費し続けても冷蔵庫の中にはまだ肉が残り半分程度ある。

 そういえば頭部がまだ残っていた。脳味噌が旨いと聞くので今度食べてみようかと思っていたが、残念ながら脳味噌を食べる前に警察がやってきてしまった。全く残念だ。肉の残りと頭部は、家族の元に帰る事になるのだろう。全てを私の体の血肉にしたかったのに。それが彼女の望みであったのに、不本意だ。

 ともあれ、私はこの世でおよそ食べられそうなものはすべて食べつくした。

 悔いはない。もう死んでもいいが、ドイツには死刑制度が無い。終身刑が最大の罰だと言う。そういえば、私は刑務所のメシはまだ食べた事が無かった。刑務所のメシがどんなものかを知る前に死ぬのは勿体ないな――


 それ以降、手記に綴られた文章はなく白紙のページが続いている。

 常軌を逸した人間の記述を目の当たりにして、俺の頭はぐるぐると回っていた。

 理解し難いものに触れるのはこれほどまでに精神力を削られるのかと実感し、また内容のあまりの酷さに手記を壁に叩きつけようと本を右手に持った時、俺はカバーの中に何かが隠されている感触を得た。

 慎重にカバーを外すと、その中にはメモ書きとSDカードが隠されていた。一体どうやって検閲をすり抜けてきたのかは知らないが、上手い事隠しおおせたというわけか? メモにはこう記されている。


 ――これに気づいた君は幸運か、或いは不幸か。私が行った一部始終を収めた動画がここに入っている。見るか見ないかは君の自由だ――


 知らず知らずのうちに、俺は固唾をのみ込んでいた。

 今更何を見た所で怖くない。

 嘯いて俺はスマートフォンのSDカード挿入口に差し込んだ。

 SDカードのフォルダを選択し、001という動画ファイルを再生する。

 

 ……薄暗い灯りの中に、女性が裸で立っている。場所はバスタブの中らしく、腕を縛られて吊るされている。

 女性は苦痛の為に喘いでいた。よく見れば、手首には切り傷があって血が流れだしている。深い傷ではないがそのまま放っておくと命にかかわるものだ。

 バスタブに、もう一人の太った男が入ってくる。上半身は裸で、下半身は汚れても良い様なズボンを着ている。手には鋭いナイフと、注射器を持っている。

 喘ぐ女性に注射をする男。数分もしないうちに彼女は意識を失う。

 次の瞬間、ナイフの刃が閃いて彼女の首を薙ぐ。

 鮮血が心臓の拍動と共に勢いよく飛び出す。

 そうか、血というものは首からこうやって噴き出すのか。

 かすかにヒュー、ゴボゴボゴボという音がする。肺に血が混入して呼吸がしづらいのかもしれない。何故か冷静に回る脳みそがそんな事を考えていた。

 徐々に、噴き出す血の勢いが弱まっていく。彼女の顔色も血の気が引いていく。下からは小水を垂れ流していた。

 男は彼女が絶命した事を確認すると、今度は足を縛り上げて逆さまに吊るした。

 腑分けを行うつもりか。

 男は女性の肛門周辺を切り取り、ナイロン袋をかぶせる。下には大きなポリバケツを置いている。

 そうして、まず腹を慎重にナイフで切っていく。すると内臓が重力に従って下に落ちていく。横隔膜を切り取って内臓を切り離す。バケツには内臓が溜まっていく。

 次には皮を剥ぐのだが、男は脂肪が皮についてしまわないように慎重に作業している。脂肪の色は黄色い。

 だが男は体だけ皮を剥いで、頭の皮を剥ぐことはしなかった。

 次にバスタブの横に置いていた台を使って、女性だったものをそこに置く。

 肋骨と背骨の間にナイフを入れると、あっけなくあばら骨は開かれて外された。

 そこで男は疲れたのか一息ついて座って休む。本当に淡々としている。思っていた程の気持ち悪さはない。ただの解体作業。男にとっては何もかもが食材であり、ある種の神聖さや興奮を見出して作業している様子は見受けられない。画面上は赤でまみれているというのに。

 男は立ち上がり、手足の解体作業にかかる。

 手足の解体は難儀するだろうと思っていたが、関節部にナイフを差し込んだ後に、へし折るとすぐに外れた。ばきり、という骨を折る音がバスタブ内に響いている。

 手足を解体し、腿肉を股関節から外し、背の肉、肩肉と手早く切り分けていく。

 そうして袋の中に次々と肉を入れていく。

 すべての解体作業が終了した。見入っている時間はおよそ二時間くらいだったろうか。男は袋詰めした肉を見て満足そうに笑い、映像を撮っていたスマートフォンの方へと歩み寄って、そこで映像は途切れた。


 人であった存在が切り分けられ、ただの肉になっていく映像。

 何故彼がこれを記録に取ったのか、俺には知る由もない。

 見て後悔したとか、気持ち悪かったとか、そういう気持ちは案外沸きあがってこなかった。ただただ、作業の記録の為の映像にしか俺には思えなかった。

 人の解体とはどのような行為なのか。

 神聖なものも見出さず、何らかの嗜好的な興奮もなく、その他の食材を扱うのと同じように作業する長谷川。彼は完全に、人間を食材と見做している。

 気づいた瞬間、冷たい氷を背骨の中に突っ込まれた気がした。

 奴は俺には理解しがたい、理解したくない存在へとなっていた。人間とは違う何かになってしまったんだ。そうとでも思わなければ自分には整理がつけられない。

 胸糞の悪さが俺を支配する。

 ひとまずテレビでもつけようとリモコンの電源ボタンを押した時、俺の目には信じられない事が飛び込んできた。


「先日報じたドイツでの食人事件の犯人が、刑務所内で死亡しました」


 俺は口をぽかんとあけ、唖然とするしかなかった。

 ニュースキャスターは更に続ける。


「情報によると、長谷川受刑者は体の至る所に欠損が見られるという事でした。特に、舌を噛みちぎった形跡がある事から、警察は長谷川受刑者は自殺したと見て捜査を進めています」


 あいつが自殺をする? そんなバカな。

 確かに手記には美食を極めたと書いていた。だが、刑務所のメシを食べて過ごして行きたいとも奴は書いていた。まだまだ生きるつもり満々だったはずだ。

 報道と手記の意識の差に、違和感を覚える。

 俺はテーブルの上に放り出していた手記をもう一度開き、改めて内容を読み返す。

 特に白紙以降のページ。最後の最後まで、きちんと目を通してみる。

 すると末尾のページにインクではなく赤黒い何かで書かれた文章が綴られていた。

 

 ――私は世界中のあらゆるものを食べたと思い込んでいた。人に至るまで。しかし、最後の最後に、まだひとつだけ食べていないものがある事に気づいた。できれば一生気付かずに居たかったが、気付いてしまったからには食べないと気が済まない。どうしても私は、心に芽生えた好奇心と興味を抑えきる事が出来そうもない――

 

 手記の最後の文章はそこで途切れていた。



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二人目:偏食家 END



 

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