【供養企画】赤い看板の雑貨店

綿貫むじな

一人目:赤い糸

 俺はいい加減うんざりしていた。

 せっかくの休日だというのに、たまには遠出でもしてみようと思って土地勘のない街へ来たのが間違いの始まりだった。駅を降りて、気の向くままにあちこち歩き始めたのはまだ良いのだが、気まぐれに細い路地裏に入ったのが運の尽き。右に曲がり、左に曲がり、右往左往しているうちに自分がどこにいるのかを見失ってしまった。

 来た道を引き返そうと決意した頃にはもう遅い。ここらへんはどうも似たような景色が延々と続いており、小さい商店と少し古くなった個人の住宅が並んでいるだけで特徴らしい特徴が見当たらない。少しでも大きい通りに出られれば駅の方向もわかるのだが、果たしてどちらが大通りなのか、それすらもわからなくなってしまった。

 スマートフォンの地図アプリケーションでも使えばよかろうという意見もあるだろうが、残念ながら俺が持っているのは携帯電話、ガラケーと呼ばれる類のやつで、今日の進んだアプリケーションは全く使用できない。電話とメール以外全く使えないので、それを補うためにいつも持ち歩いているタブレットも今日に限って持ってくるのを忘れてしまい、全く八方ふさがりでどうしようもないのが現状だ。

 おまけに天気も悪くなってきた。鈍い灰色をした雲がどんよりと空を覆いはじめ、今にも雨が降ってきそうな雰囲気を醸し出している。これはまずい。早いところ雨宿りできる場所でも見つけなければずぶ濡れになっちまう。そうこうしているうちにぽつぽつと雨が降り出してきた。

 小降りなうちにどこか適当な店へ、そう思って路地を小走りしているといつの間にか袋小路に入り込んでしまった。


「行き止まりか。引き返そう」


 そう思って来た道に戻ろうとすると、この地味な街並みに不釣り合いなほどに赤い色合いの看板が目に入った。看板には雑貨を示すような図柄が描かれているが、店名は何もない。看板とは対照的に、店の入り口はいたって地味で茶色のちょっと頑丈そうで飾り気のない扉で、OPENというプレートが掛けられているだけだった。

 とにかく雨さえしのげれば構わない。なんなら雨宿り代金として適当なお土産っぽい何かでも買っていけばいいだろうと思い、勢いよく俺は店の扉を開けて中に飛び込んだ。

 店の中は外から見た感じよりも広い印象を受ける。照明は点けられているが微妙に薄暗い。木製で重厚感のある棚に並べられた品物は、どれもこれも見たことがある様な商品だが、値札も商品名もつけられていない。

 店の奥まで行くと、レジが置かれたテーブルに何か商品を置いてあれやこれやといじっている中年男性が居た。ワイシャツと黒いスラックスに、赤いエプロンを掛けている。恐らく彼が店主だろうか。

 テーブルの上に置かれているものはルーペか?何枚ものレンズが折りたたまれて入っているタイプのもので、それぞれのレンズで倍率が違う。

 店主はようやく入店してきた客に気づいた様子で、人懐っこい笑顔をこちらに向けてきた。


「いらっしゃい。どうぞゆっくりと商品をご覧ください」

 

 といっても、どれもこれも街の雑貨店やコンビニで売られていそうな物ばかりで目新しい商品など何もない。適当に暇つぶしをして雨が上がったら帰るかと思い始めたころに、店主がルーペを使って俺の手を見始めた。


「ほうほうほう、これはこれはこれは……」


 なにやらしきりに頷いては笑っている。俺の手に何かついているとでも言うのだろうか?


「お客さん、貴方、奥さんとうまくいってませんね?」


 いきなりの核心を突いた発言に、俺の心臓が口から飛び出そうになった。


「な、なにを根拠にそんな事を言うんだ。失礼な事言っちゃいかんよ」

「いえいえ、根拠ならございますよ。このルーペを使ってご自分の右手を見てください」


 ルーペを渡されて、言われるままに自分の右手をルーペ越しに眺めると、小指に赤い糸がどこからか巻き付いて結ばれている。その糸は色あせて、ほつれて今にもほどけそうだが。そしてもう一つ、真新しい糸が小指の根元に巻き付いている。


「な、なんだこりゃ?」

「運命の赤い糸、という話を聞いたことくらいはあるでしょう。このルーペで眺めるとそれが見えるのですよ」

「だ、としてもだ。俺と妻の関係が冷えているってのはどうしてわかるんだ」

「糸の色とほつれ具合でわかりますよぉ。それに、貴方愛人もいますね?そりゃあ奥さんとの関係も冷めきっちゃいますよねえ」


 店主は意地の悪い笑みを浮かべて俺を見ていた。ここまでバレてしまっているのなら、今更しらばっくれても仕方ない。ため息をついて苦笑いするしかなかった。


 俺と妻の関係は、先ほど店主が話したように既に冷え切っていた。

 自慢というほどではないが俺は不動産会社を経営しており、可児かに不動産と言えば地元では道行く人々に聞けば誰でも知っているくらいの有名な会社だ。

 仕事といえば、山ほど積みあがった書類を片付け、顧客と会って物件の話をし、また何かと呼ばれては飲み会に付き合ったりと多岐に渡る。

 その上長時間労働を強いられる。とはいえ親から受け継いだ会社を俺の代でつぶすわけにもいかない。そりゃ、仕事に精を出すしかないだろう。

 最初は妻も俺の事を支えていたが、俺が自宅にあまり戻らないのをいいことに好き放題しはじめた。友人と遊びほうけたり、俺に断りもなく高いバッグや宝石などを買い漁ったりなど、挙げればきりがない。それを問い詰めると私を構わないお前が悪いと言わんばかりにふてくされるし、全くどうしようもない。

 そういうすれ違いが重なって今では仮面夫婦だ。俺が朝早く仕事に出かけても見送りもしない。もちろん朝飯も作らない。その前に俺よりも先に目覚める事が無い。おかげで自分で料理を作ることにも慣れてしまった。

 夜の営みもない。仕方がないから風俗で欲求を解消するとなぜか怒り狂う。こちらがいくら求めても応じやしないのにな。流石にこれには、いい加減俺の堪忍袋の緒も切れた。

 妻としての役割も果たさない女に用はない。一度別れ話を切り出した事があるが、そうしたら突然泣き出した。別れないでくれと言って俺にすがりついた。その時はかわいそうになってよりを戻す事にしたが、数か月もすれば元の木阿弥だ。

 俺は確信したね。この女、最初から金狙いで俺と結婚したんだ。結婚前から金遣いが荒く贅沢好きな女だったが、ここまでひどいとは思わなかった。この調子だと十数年もすれば俺の資産を食いつぶす勢いだ。やってられない。

 こんな生活に嫌気がさした俺は愛人を作るしかなかった。俺を癒してくれる人が欲しかった。荒み切っていたある日、顧客のひとりだった小鳥遊エリと何気ない事から付き合う事になった。彼女は妻なんかよりもよっぽど愛嬌があるし何をしても喜んでくれる。何より魅力的で、それはもう会う回数も増える一方だった。

 最近は会う回数を重ね過ぎたせいか、妻が愛人の存在に気づき出した。もちろん俺だって細心の注意を払ってはいたが、こういう事に関しては女の勘は異様に鋭い。まだ確証をつかんではいないようだが、気を付けていなければいつ証拠を叩きつけられるかわからない。

 いっそのこと不倫をバラして逆に離婚してもらうか、と考えたがそうとわかったら妻は容赦しないだろう。むしり取れるだけ俺の資産をむしり取る腹積もりだろうし、不倫されて別れる羽目になったと周囲にある事無い事を言いふらすだろう。そうしたら俺の社会的信用もがた落ちだし、妻と別れるリターンよりもそういったリスクの方が高くてあまり良い案とは言えない。

 今現在も妙案は浮かばず、俺たちは仮面夫婦をいたずらに続けている。


 ……以上、すべての事情を店主に打ち明けた。こんな話、誰にも話せやしなかったが、知らぬ街の知らない人になら話してもいいだろう。何より溜まりにたまった鬱屈をどこかでぶちまけたかった。

 そんな俺の話を、店主は笑顔で頷きながら親身になって聞いてくれた。あらかた話し終わったあたりで、店主は商品が並んでいる棚に向かい、あれでもないこれでもないとなにやら商品を探している。程なくして、店主は右手に黒く鈍い輝きを放つはさみを持ってこちらに戻って来た。

 

「……はさみ、ですか?」

「ええ、人間関係にお悩みの貴方にぴったりの商品ですよ」


 はさみはよく研がれていて指で刃をなぞろうとするだけで皮膚が薄く切れる。恐ろしいほどの鋭い切れ味を持っている。


「このはさみはですね、縁切りばさみと言って縁を切りたくなった人との縁を切ってくれる道具なんですよ」


 俺は耳を疑った。何より、あまりにも都合がよすぎる。そんな道具などあるはずがないだろう。


「冗談が上手いんですね」

「お客さん、貴方見たでしょ?ルーペに映し出された赤い糸。見えざる人の縁というものを具現化する道具の存在をこの目で見たじゃないですか。今更疑うのはよしましょうよ」


 何かの手品かとも思ったが、ひとまずは店主の言う事を信じる事にした。何よりも嫌な奴との縁が切れるなら、喉から手が出る程望んでいるものなのだから。


「縁切りばさみは見えざるものを切るという道具です。むやみやたらにシャキシャキ切ってると知らず知らずに様々なものを切ってしまいます。そこでこのルーペと併用するんです」


 店主は改めて先ほどのルーペを取り出した。


「このルーペを使って、目的の物だけを切れるようにするわけですね。人の恋愛関係、赤い糸を見たい場合は一番倍率の低い奴を使います。それと他の倍率の奴なんですが、すいません、付属の説明書がどこかに行ってしまいましてね、ちょっとわからないんですよ」

「そうなんですか?」

「ええ、なので他の倍率のレンズのルーペで何か見ても、はさみで切らないようにお願いしますよ。どういう事が起こるのかわかりませんからね。あとで見つかり次第ご連絡差し上げますので」


 なるほど。しかし俺は配偶者との縁切りに使用したいだけだから他のレンズで何が見えるかなんて知らなくても別に問題はない。


「それともうひとつ」


 店主は人差し指を立てて言う。


「このはさみは強い力を持つ道具です。ゆえに、適切に使える時期というものが決まっています。この道具の場合は新月の夜だけです」

「なぜそういう制約が?」

「私にもわかりかねます。説明書にはそのように書いているだけで、理由などは一切記載されていないんですよ。ただし、適切な時期に使用されなかった場合、望まない結果を招く恐れがあるという警告はありました。できれば適切な時期に使用していただくのが良いでしょう」

「なるほど。……もしもだが、他の時期、例えば満月にはさみを使ったらどうなる?」

「それがですね……このはさみの説明書も、途中で破れてましてね。どこかに残りのページがあるはずなので探している最中なのですよ。くれぐれもお願いしますが、新月の時以外には使わないように」


 店主は怖い顔をして念を押すように言う。

 これで大体の説明は終わりのようだ。俺は懐から財布を取り出す。


「カードは使えるか?」

「申し訳ありませんがウチは現金のみの支払いになっております」

「仕方ないな。いくらだ?」

「どちらも一点ものですので、ちょっと高いですが……両方で二百万円と言ったところでしょうか」


 値段を聞いて、財布の札を入れるスペースを漁る。ちょうど百万円の束が三つほどあった。俺は一万円の束を勢いよくテーブルに叩きつける。店主は札束を念入りに数え、確かに二百万円があることを確認すると、レジにお金をしまい込んで今までで一番の笑顔を見せた。


「二百万円、確かに確認いたしました。ではこちらが商品になります」


 紙袋にはさみとルーペを丁寧に入れて、俺に手渡す。しかしこんな良い雑貨屋があるなんて知らなかった。店を出たら近くの電信柱で住所をメモしておこう。


「雨も上がったようですね」


 店主が窓の外を見ている。いつの間にか、鈍色の雲が広がっていた空は晴れており、雲の合間から太陽の光が差し込まれてきているのが見える。


「世話になった。また機会があれば来るかもしれない」

「その時はお待ち申し上げております」


 俺が店を出るまでの間、店主は深々と頭を下げていた。

 本当に良い店を見つけた。これからの人生で何か苦労することがあったら、この店に立ち寄って何かいいものはないかと探してみればたぶん楽に物事が進むに違いない。幸運の女神の前髪をつかんだような気持ちだ。

 上機嫌で道を歩いていると、大通りに出れた。ここからなら駅の方向もわかる。あの店に入って以降、人生が好転する時期に来たような気がする。浮かれた気持ちで俺は駅に向かい、地元へと帰ったのだった。


 それから、新月の夜が来るのを待っていた。

 しかし、それよりも早く妻が俺の不倫の確たる証拠の写真と調査結果を叩きつけてきた。今週中に離婚届を出さなければ訴訟すると息巻いている。かといって、離婚をする条件がまた厳しい。俺の資産を三分の二もらった上で更に精神的苦痛を受けたから毎月金を振り込んでこいという、滅茶苦茶なものだ。俺は困り果てた。言われたのが新月に近い時期なら、少し待ってはさみで縁をチョキンと切れたのに。今夜はまだ上弦の月。次の新月が来るには一週間以上もある。どうする、どうすべきなんだ?

 仕事も全く手につかないので今日は会社を早退したものの、家に帰る気分にもならない。離婚するまでは世間体もあるからと言って妻はまだ家に居座っているからだ。あの忌々しい面を拝むのは吐き気を催すほど胸がむかつく。

 こういう時、嫌なことを忘れるには酒に限る。俺は馴染みの居酒屋に入って酒を飲む。つまみも頼まずひたすら酒をあおる。しかし飲めば飲むほど体が酔いに支配されるのとは裏腹に思考はますます研ぎ澄まされていく、そんな気がしてくる。店主に心配されてやがて追い出され、次はバーに入り、そこでも酒ばかり飲んで追い出されてスナックやキャバクラ、はてはぼったくりまがいの飲み屋にまで足を運んだ。何処に行っても飲み過ぎるものだからぼったくり飲み屋の店主までもが心配してくれる。もちろん相場よりも遥かに高い金だって気前よく払ってやる。

 何軒もハシゴした末に、電信柱に長い時間もたれながら吐いて、ようやく家に戻る気になれた。

 上弦の月がまだ空の上にある深夜三時くらい。雲一つない晴れた空。月は誰にでも平等に輝く。真夜中にこんな千鳥足でふらつく俺にも。

 おぼつかない足取りでようやく自宅にたどり着いた。鍵を開けて中に入る。もちろん真っ暗だ。あまりに酔い過ぎて気持ち悪いので洗面所で顔を洗い、水を飲む。一息ついて、ようやく気分が少し落ち着いた。

 そういえばいつもはあの忌々しい女も夜中遊びまわっているはずなのに、玄関口の靴置き場を見たら靴が置いてあった。珍しく家で寝ているのか。俺は寝室へ行き、扉を開いた。妻はベッドでのんきに眠っている。安らかな寝顔が実に気に食わない。

 俺はこんなに身を粉にして働いているのに、この女はどうしてこんなに惰眠を貪っていられるんだ。俺が働いているのはこんな奴の為じゃない。なぜ俺が受け継いだものを血のつながりもない、情の欠片もない奴に渡さねばならない。

 次第に俺の血液が煮えたぎってくる。脳に暗くどす黒い何かが充満してきて目がかすんでくる。視界が狭まってこいつの憎らしい面しか見えない。

 

 何故俺がこのような苦しい目に遭わねばならない。


 こいつが、いるせいだ。こいつが悪い。

 もう新月の夜など待っていられるか。せっかく買ったあの道具を今使わずにいつ使うというんだ?

 俺は自分の部屋の机の中に紙袋のまま突っ込んでいた、はさみとルーペを取り出した。再び妻の寝ている部屋に戻る。

 布団から妻の右手を取り出してルーペで覗く。そこには俺とおなじ、ほころんで色褪せた赤い糸と、根元にもうひとつ鮮やかな赤い糸がくくられていた。

 これはこれは、とてもお笑いじゃないか。俺はあっけなく不倫を知られたというのに、妻は俺に隠しおおせていたというのか。気づかない俺も俺だが、人の不倫を責めておいて自分も同じことをやっているとは、中々の女狐っぷりじゃないか。俺と別れたら新しい旦那となる男とくっつくつもりだったんだな。道理で結論を急いでいたわけだ。これで一週間で離婚届を出せという話に合点がいった。

 ほんの少しは残っていた妻への情も完全に消え失せ、はさみを動かす事に躊躇は無い。酔いのせいか、妻の小指には青い糸やら黄色い糸やらも見える気がするが関係ない。全部ぶった切ってしまえばいい。

 糸に刃を掛ける。糸の見かけのわりに強度はかなりあるようで、ちゃんと力を入れなければ切れそうにない。

 ちゃんとハサミの持ち手に指を入れ、力をこめる。ほつれかけた赤い糸、新しい糸、他全てを切る。


 太い血管を切るような、鈍く嫌な感覚が手に伝わって来た。


 妻は起きる気配を見せない。

 これで本当に、縁を切れたとでもいうのだろうか。全く実感がない。本当に効果があるのか?すべてははさみだけが知っている事なのか。

 ……酔いにまかせて俺は何をしているんだ。こんなはさみで、縁が切れるはずもないだろ。途端に馬鹿らしくなってしまった。そもそも、俺はなんでこんなものを買ってしまったんだ?ルーペで人の縁やら何やらが見えるってのも、あの店主の手品か何かだったんじゃないのか。あの時は藁にもすがる勢いでつい買ってしまったが、よく考えてみれば人の縁など見える道具なんてあるわけもない。

 寝よう。妻との交渉はまた後で考えなければならない。訴訟されるのを覚悟の上で行動するしかない。俺も良い弁護士を雇う準備を進めなければ。

 

 翌日。妻は未だ起きない。今まで通りだ。呼吸もある。生きている。忌々しい。

 俺は昨日さんざん飲んだせいで二日酔いがひどい。部下と幹部と秘書に連絡を入れ、今日は休む事にした。体を動かすのもしんどいが、冷蔵庫の中にあった二リットルペットボトルのミネラルウォーターを確保し、ベッドの横に置いて眠る。

 夢うつつのさなか、玄関が開いて閉じた音がした。

 寝ては起きて、時折トイレに行って吐いては水を飲んで、を繰り返しているうちに、いつの間にか午後三時を回っていた。そろそろ二日酔いも軽くなってきたが、動くのが億劫でたまらない。

 そんな時にインターフォンが鳴る。今日は誰も来ないように念を押しておいたはずなのにも関わらず。連続して鳴らしてくる。頭痛に響くからやめてほしい。たまりかねて、俺はつい叫んでしまった。


「誰だようるせえな!一回押せばわかるんだよ!」


 怒り心頭で玄関の扉を開けると、目の前に立っていたのは制服を着た警察官たちだった。想定外の事にあっけにとられていると、俺の目の前に居たひとりの警官が渋い表情で起こった事を告げてきた。


「ええーとすいません。実はあなたの奥さんがこのマンションから飛び降りて自殺したんですけども……何か事情を知っていればお伺い出来ないものかと思いまして」

「な、なんだって!?」


 顔は驚きと苦悶の表情を作っていたが、俺は心の中ではステップを踏んで踊り狂っていた。さながらキメてハイになった中毒患者のように興奮しまくっている。ようやくあの疫病神が死んでくれた。何より有難い。

 だが、俺の頭には疑問符が数多く浮かんでいた。

 まず妻が死ぬような理由が何も見当たらない。私生活においては自分が好きなように振る舞っていたし、悩み事があるなら誰かに言いふらしている。自分だけが心の中に秘めているような悩み事などありはしない。

 事実、警察が妻の事をさんざん調べまわっても自殺の決め手となるような証拠は何も見つからなかった。当然俺も事情聴取は受けたし、俺が自殺に追い込もうとしていたんじゃないかと警官は疑いの目を向けてきた。だがその考えも外れだ。

 あいつは俺が自殺に追い込もうと仕向けた所で死ぬようなタマじゃない。必ず強烈な反撃を見舞ってくる、そういうやつだ。俺は清廉潔白、何もやっちゃいない。あの夜の事を除いては、な。


 正しい時期に使用しなければ望まない結果を招く、そう聞いていた。この結果は穏便ではないが俺の望み通りではある。俺の目の前から消えるか死んでほしいと願っていた所なので丁度良い結末ではないか。一通りの事情聴取を終えた俺は、ひとりで静かに祝杯を上げた。この喜びは誰とも共有できないしするものでもない。道具に感謝し、酒を喉に流し込んだ。


 そして妻の通夜、葬式を終えて初七日、四十七日を過ぎた。今のところしっぺ返しとやらも何もない。妻の死から半年を過ぎて、もういいだろうと思い俺は不倫相手の小鳥遊エリと結婚した。といっても披露宴を大々的に行うのはまだ早い。籍を入れただけだ。仕事も実に順調、顧客との大口の取引もあって会社の業績は更にうなぎ上りである。笑いが止まらないとはこのことか。

 エリも俺を甲斐甲斐しく支えてくれる。帰って来たら飯も作ってくれるし家事もやってくれる。前の妻ならあり得ない事だ。俺とエリの仲も良く、そのうちに子供も出来たらしい。

 ただ、妊娠してからというもの、エリは俺よりも子供を大事にしだした。今から子供の事ばかり考えている。確かに子供は俺にとっても大事だ。大事な跡継ぎだからな。しかし、子供の為に俺の好きな煙草や酒を辞めろと言い出した。冗談じゃない。せめて家の中だけダメというのなら理解できるが、一切を辞めろと言い出した時は気でも違ったかと思った。子供が成長する前に死んだら子供がかわいそうだろうと言うのがエリの理屈だが、俺に仕事のストレスで死ねと言っているのと同じだ。

 もちろん俺は妥協点を見出すべくエリと話しあったが、エリは子供のこととなると強情で譲ろうとしない。これには俺はうんざりした。俺の忙しい日々を癒してくれる大事なアイテムだというのに、それを理解してくれないのだ。そういえば飲みに連れていってもエリは煙草も酒もやらなかった。俺が飲んでいる横でウーロン茶を飲んでいるような女だった。この点に関しては前の妻の方がまだ理解があった。

 次第に増えるベビーグッズに侵食される俺の家を見て、何だか俺の城が失われる気がした。俺とエリだけの住処だったのに、得体のしれない何かがやってくる事に、なんだか身の毛がよだつ思いがしたのだ。どんどん俺の居場所が無くなっていく。


 エリと結婚して何か月もしないうちに、また俺は愛人を作った。仕方ないだろう。俺の、俺だけの秘密基地が必要だったんだ。家は息苦しい場所になってしまったのだから。

 しかしエリは素早かった。俺が浮気したというのを感じてすぐに興信所と探偵に依頼し、証拠をつかんだ。そして夜遅く仕事から帰って来た俺に、いきなりそれらを叩きつけてきたのだった。

 

「この写真と動画、見てもらってもいいかしら?」


 そこにはまさしく俺と浮気相手のあられもない姿が映っていた。


「妻が妊娠してる時に、夫は妻をほっといて浮気相手と逢瀬を交わしているってどういう神経しているのかしらね。せめて風俗通いならまだ理解はできるんだけどさぁ。ま、私が言えた事じゃないし、あなたの性格は理解してたからちょっとの火遊びは見逃そうかなって思ってたけど」


 次に出してきたのは小型録音機だった。


「これ聞いて、見逃す気も失せたわけよね」


 録音機の再生ボタンを押すと、エリと別れて浮気相手と結婚するだのなんだのと言った俺の言葉がつらつらと流れてきた。この音声は浮気相手の家に行った時に喋った奴だが、こんなところにまで録音機を仕掛けていたというのか。あまりの手際の良さに、俺は黙って俯いているしかなかった。


「ほら、離婚届書いてよ。私は前の奥さんより強欲じゃないから、資産なんか要らない。自分で稼いだお金もあるしね。ただ、夫の、親のケジメとして子供の養育費くらいは毎月支払いなさいよね。子供が十八歳になるまで毎月ね。これ守らなかったら訴えるからそのつもりで。あ、あとあなたの顔、見たくないからこの家から出てってくれないかしら。今すぐ出てけとは言わないから一週間以内に荷物をまとめてね。あなたが出ていきたくないなら私が出ていく」


 そう言ってエリはもう夜も遅いから寝ると言い、部屋を後にした。

 何も言う事が出来ない。ぐうの音も出ないほど完膚なきまでに叩きつぶされた。何もかもがエリが上手だった。

 このままの気分では寝る事も出来ないと思い、俺は台所の酒を入れている棚に向かった。歩いていく途中に、フックに掛けてあるはさみが目に入る。


 それは俺が買った、鈍く輝くはさみに形状も色合いもひどく似ている気がした。


 まさかエリも俺との縁切りをするためにはさみを買ったとでもいうのだろうか。

 そう考えると、合点が行く。今までの手際の良さもはさみの力によるものだ。きっとそうに違いない。

 店主め、一点ものと言っておいて同じ物をそろえていやがったのか。

 俺は唇を白くなるまで噛んでいた。いつの間にか血がにじんでいるのすら気づかずに。怒りを忘れる為に酒を勢いよく流し込んで、布団に潜り込んだ。

 朝起きて、妻の冷たい視線に耐えながら会社に行けば行ったで今度ばかりは部下が白い眼で見ている。今回の件についてはさすがに部下も知っており、二度も同じ失敗するなよといわんばかりの視線を向けてくる。今日ばかりは俺を見てくれるな。

 エリの両親からもキツイお灸をすえられ、しばらく取引は無しと言われておれは顔面蒼白になる。エリの両親とは大口の取引を多く交わしており、これがなくなると会社の業績も下手したら黒字から赤字に転落してしまう。かといって代わりとなる顧客は中々見つからない。

 結局、何も出来ないままに坂を転がり落ちるかのように業績も落下していく。くそ、会社まで潰すつもりか。養育費を払えなくなってもいいというのかあの女め。全く持って忌々しい女だ。

 いやそれよりも、はやいところあの憎らしい店主を問い詰めなければならない。


 俺は再び、かつて行った雑貨店の店主に会いにいった。

 今度は住所も調べてタブレットも持っていったので、迷う事なく赤い看板の雑貨店に辿りついた。相変わらず派手な看板と地味な店構えだ。

 俺は怒りを込めてドアを開けると、前と変わらずに微笑みを浮かべながら店主がレジの上に何か商品を置いて弄っていた。そしてしばらくして俺に気づくのも、前と同じだ。


「これはこれは、可児さまではございませんか。いかがいたしました?」

「どうもこうもねえよ!お前、あのはさみ一点ものだって言ってたよな?」


 店主は頷いて答える。


「もちろん、この商店に置いてあるものはどれも一点もの、他にはない商品でございますがそれが何か?」

「嘘を吐くな!俺の妻がこのはさみを持っていたんだよ!」


 俺は台所のフックにかけてあったはさみと、俺が買ったはさみを並べて叩きつけた。店主はうやうやしく二つのはさみを鑑定していたが、やがてはさみを置いて俺にこう言った。


「ふむ、貴方の奥さんが持っていたというはさみですが、これは普通のはさみですよ」

「なんだって?」

「私が貴方に売ったはさみは、持ち手の部分に刻印をつけているんです。ウチの看板の図柄のね。こっちにはそれがない。という事は、ただの普通の店売りのはさみですよ」


 言われて俺は例のはさみの持ち手を良く観察した。なるほど、確かにあの何とも言えない絵の刻印がはさみに刻まれている。

 じゃあ、エリが浮気を突き止めたというのは?


「それは奥さんがちゃんと自分の力で貴方の浮気を突き止めた、それだけでしょう」


 聞いて、俺はがっくりとうなだれる。

 店主はその様子を見てなにやらピンときたのか、エプロンのポケットから新たなルーペを取り出して俺を見ていた。これはレンズが一枚のもので、虫眼鏡のような形をしている。


「ほうほうほう、これはこれは……」


 店主はなにやら含みを持った笑いを浮かべる。何故かそれを見て、俺はひどく嫌悪の感情を覚えた。


「何か……?」

「可児さん、あなた適切な時期にはさみを使いませんでしたね?」


 店主のぞっとするほど冷たい声が店内に響き渡る。低く、大きな声ではないのに、俺の脳を殴りつけるような感覚があった。

 

「な、なにを根拠に……」

「このルーペを通してしまうと、すべてわかるんですよ。繕っても無駄です。ああそういえばね、こないだ貴方に買ってもらったはさみとルーペの説明書、見つかったんですよ。それによるとね、はさみは使う時期を間違えると力が正しく相手に向かわずに、この世からの縁切りばさみになってしまうらしいんです」


 すべて知られてしまっている。俺の心臓が早鐘のように打ち鳴らされている。


「貴方が使用した時期、つまり上弦の月の時だと、相手も自分も一緒に死んでしまう効果になっているようですね。それも一年以内に」

「い、一年以内…」


 妻が死んでからもう既に十一カ月経過している。俺の背筋に冷たいものがはしり、冷や汗がどっとあふれてくる。


「じゃ、じゃあ、他の時期にはさみを使ったら、例えば、どうなる」

「さあ、わかりませんね。試してみましょうか」


 店主はあざ笑うかのようにこちらに視線を向け、はさみを鳴らしながら言う。


「そのうえ、貴方は赤い糸のみならず青い糸や黄色い糸まで切ってしまったようですね。ひどいお方だ」

「……それが、どうしたというんだ」

「見つかったルーペの説明書によるとね、すべての倍率のルーペを使うと他の色の糸も見えるんですね。それによると、青い糸は魂とこの世を繋いでいる因果の糸と言うらしいです。黄色い糸は魂が積んできた善行の記録らしいですね。どちらも切ってしまったら、人間まで上り詰めた貴方の一人目の奥さんはまた虫や微生物から魂のステージを始めなければならず、その上因果も切られたとあってはこの世に転生する事すらかなわないでしょう。貴方は一人の魂を地獄にも天国にも行けない、さまよえる魂にしてしまった」

「し、しょうがないだろ!俺は何も知らなかった、知らなかったんだ!」

 

 狼狽し、俺は尻もちをついてへたり込んでしまう。俺は何も悪くない。だってそんな事事前に知らされなかったのだから。


「貴方の行った行為は貴方が責任を負わなければいけないのですよ。もうすぐ今までの報いも受ける事でしょう。それまで楽しみに時を待つんですね」


 店主は俺をルーペで眺めてはにやにやと笑っている。何が見えているというんだ。 俺は店主から無理やりルーペを奪い取り、店内にあった姿見に映った自分の姿をルーペ越しに覗いてみた。



 鏡に映った俺の体には、血にまみれた一人目の妻がまるで縄のように絡みついていた。体はねじれて俺の胴体に巻き付き、俺の腕と足には彼女の折れた腕、足が食い込んでいる。首筋には噛みつかんばかりに俺を睨む、空洞の瞳があった。


 

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赤い糸:END

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