三人目:ピーピング・トム

 間もなく憂鬱極まりない仕事が終わろうとしていた。あと5分もすれば終業のチャイムが鳴り響くだろう。

 僕は仕事を片付けて机の上を整理して終業のチャイムを待っている。他の人間はまだ忙しそうに仕事をしているがそんなのは僕には知った事ではない。残業の頼みも断ったし今日も定時で上がる事が出来る。

 

 終業のチャイムがオフィス中に鳴り響く。


 僕はすぐさま席を立ち、真っ直ぐ会社の入り口まで向かってタイムカードを押す。タイムカードに刻まれた数字は17:30ピッタリ。

 僕はタイムカードを所定の場所にしまい、会社のドアを開けて外に出る。会社は繁華街の中にあるから、この時間に外に出るとすぐさま喧噪の中に巻き込まれる。空は赤色に染まる夕暮れ。ぽつぽつと店のネオンや街灯が点灯しはじめ、繁華街は独特の雰囲気に包まれる。

 今日は週末の金曜日。多くのサラリーマンや学生が仕事の後の飲み会やレクリエーションを楽しみにしながら街を歩いている。週末の繁華街ともなれば騒々しさは平日の二倍はある。チェーン居酒屋、キャバクラ、風俗の店員の呼び込みが次々と上がり激しくなり、人々はその合間をするりと抜けていく。

 その中には僕もいる。

 僕はひとりで飲みに行くわけでもなく、下半身の欲望を直に解放するわけでもなく、ぶらぶらと歩いている。ターゲットを探す為に。果たして僕の眼鏡に適う人はいるだろうか。

 30分くらい繁華街をうろついたが、収穫が無かったので僕は駅に行き、電車に乗り込んで揺られて帰る事にした。

 早い時間だと言うのにもう酔っ払いのオッサンが電車内に居る。しかも顔色が悪いなと思っていたら案の定リバースした。

 電車内は酸っぱい匂いに包まれ、たまらず他の車両に逃げ出す乗客たち。

 酔客のおっさんは吐いてすっきりしたのか、座席に仰向けに倒れ込んで眠ってしまった。びたびたに広がったそれを革靴で踏みつけながら。

 僕も匂いに耐え切れず、電車が止まってドアが開いた時に思わず車両から降りてしまった。電車はそのままドアを閉じ、次の駅へと向かっていく。


 いくら臭かったからといって電車を降りるのは失敗だった。

 次の電車が来るまでには間が空いて20分くらい掛かる。

 スマートフォンの電池も切れかかっているし、文庫本も今日は鞄に入れていない。 どうしたものか。

 近くにあったベンチに座って、ふと前を見る。

 目前には電車が走る為に延ばされたレール、電線。さらに視線を遠くに移すと侵入防止用の金網。その向こう側に見えるのは雑居ビルが立ち並ぶ風景。飲食店や中古本、ゲームショップやネットカフェが軒を連ねている。

 すると奇妙に目を引く赤い、鞄やお皿といった日常雑貨をモチーフにした看板が目に映ったのだ。

 名前のない赤い絵柄だけの看板。

 20分もの間ベンチで待つのは退屈極まりない。いったん僕は駅から出て、その赤い看板が目印の雑貨屋に向かう事にした。


 店は雑居ビルの一階にある。看板以外にはポップも謳い文句も何もない、非常に簡素な店構え。

 こういった雑居ビルに入っているテナントの入り口は自動ドアなのが当たり前なんだけど、この店は木製のがっしりとした作りのドアに作り替えられている。多少何かがぶつかった程度ではびくともしないだろう。

 ドアの金属製の取っ手を掴み、押して開く。

 店の中は薄暗い。白熱灯が所々にあるくらいで、棚にある物は手に取ってみないと何なのかがはっきりとしない。

 商品自体も他の雑貨店と比較してあまり目新しいものはなさそうに思える。赤い看板に妙に惹かれたんだが、期待外れか。

 色々と物色していると、奥から白ワイシャツと黒いスラックス、そして赤いエプロンを着た、人懐っこい笑顔を浮かべた中年男性が姿を現した。


「こんばんは。我が雑貨店にようこそ。ゆっくりと商品をご覧くださいませ」


 店主はレジ前の丸い木製テーブルになにやら物を置いてそれを首を傾げながら見たり、時折触ったりしてうなずいたりしている。

 僕は再び棚を見ながらゆっくりと歩く。生活用品の棚を過ぎると、その先にはなぜか小型カメラ――鞄や靴の先に仕込めそうなサイズの――や、双眼鏡、古ぼけた手のひらサイズのAMラジオなどが置かれている。雑貨店というのはこういった製品も置くのか?

 物珍しさに惹かれてそれらを触っていると、いつの間にか背後には例の笑顔を浮かべた店主が手もみをしながら立っている。音もなく。


「うわっ!」

「驚かせてしまいましたか。申し訳ございません」


 店主が深々と頭を下げる。


「さすがはお客様、お目が高い。そちらのラジオや双眼鏡をお選びですか?」

「いやあ、べつに買うつもりでは……」


 つい本音が漏れてしまった。

 しかし店主が続けて言った言葉に僕は耳を疑わざるを得なかった。


「実はですね、このラジオ、周波数を合わせる事で人の心を受信する事が出来るんですよ」

「……なんですって?」


 いくらなんでもジョークだろう。あらかじめ誰かの言葉が入った音声データをランダム再生するだけのおもちゃか何かに違いない。僕が怪訝な目でラジオと店主を交互に見つめていると、店主は次にこう言って僕の手からラジオを取り、操作している。


「では試しに、貴方の思っている事を受信してみせましょうか」


 店主がAMラジオの周波数をつまみを操作して合わせ、ラジオを僕の方に向ける。


「このくらいの周波数かな。じゃあ電源を入れますね」


 AMラジオの電源ボタンが押される音と同時に、それは聞こえ出した。


『どうせおもちゃか何かでしょ。まったく子供だましに付き合わされるのは疲れるなぁ……。暇つぶしなんだし早く駅に戻らなくちゃ』


 ラジオから発される音声内容を聞いて、僕は顔を青くする以外何も出来なくなった。続けざまに僕が驚いている内容の音声が聞こえてくる。マジックか何かか?

 僕の様子を見て店主は本物でしょう? と言わんばかりの満面の笑みを作る。


「当店は心からお客様が欲しいと願う物を数多く取り揃えております。他にも多くございますが如何でしょうか?」


 訪れた人々が真に欲しいと思う物。

 この店主の前では何を考えていても全て見透かされているような気がする。

 僕の薄汚い欲望でさえも。

 店主自身は、自分の考えや欲を全く見せない。丁寧な物腰ながら、どことない胡散臭さを醸し出している。扱う商品自体も嘘みたいな物だ。

 だがその嘘みたいな商品は、僕が真に願っている物の一つなのだ。

 いくら人の事を知りたいと思ったとて、人の心までは知りえるものではない。内心の自由。心の中でどう思ってようが人は表の顔で繕う。僕はその中身まで知りたい。


「……これ、いくらですか?」


 僕が懐から財布を取り出すと、店主は先ほどまでの愛想の良い笑顔から商売人特有のいやらしい笑みに表情を変える。


「そのラジオはもう古すぎるのでたったの1万円で結構ですよ。お客様にはこんなものもご用意しておりますが如何でしょうか?」


 店主が棚から取り出したのは、先ほど僕も手に取っていた双眼鏡。

 真鍮製のボディに、幾何学模様的な装飾がなされたもので、実用品というよりは美術品に近い。見た目的に双眼鏡と言うよりは遠眼鏡とでも例えた方がしっくりくる。


「この双眼鏡はですね、倍率を変える事によって見えるものが異なるようになるんですよ」

「見えるものが異なる?」

「例えばこの一番小さい倍率にセットして、と。さ、あちらの壁をこれで見てみてください」

「壁を……?」


 言われるがままに双眼鏡を手に取って壁を見る。


「……これは」


 双眼鏡から得られた視界は、壁の向こう側の世界だった。道路が見え、街を歩く人々が見え、金網の更に向こう側に電車が止まっているのが見える。

 つまみを弄って倍率を更に大きくすると、道行く人々の服が透けて見える。思わず僕は女性たちの姿を追いかけ、鼻の下を伸ばしてしまう。その様子を見て店主は更に笑みを浮かべる。僕は即座に懐から財布を取り出した。


「これはいくらですか?」

「少々お高いのですが……20万円になりますがどうですか」

「もう少し、安くなりませんかね」


 懐が寂しいわけではないが、流石に高い。


「では出血大サービスで15万円でどうですか? これ以上はまかりませんよ」

「わかりました。ちょっとお金を下ろしてきます」


 近所にあるコンビニのATMにカードを突っ込み、現金を下ろしてくる。

 店に戻り、万札を見せると店主の笑顔が更に喜色を増す。手渡すと丁寧に枚数を数え、確かに15万円ある事を確認してアンティーク物のレジスターにお金を入れ、商品を袋にいれる。

 商品を手渡す段階で、急に店主は真面目な顔つきになって僕に注意事項を言った。


「では商品をお渡ししますが、最後に注意していただきたい事がございます。この品々は、くれぐれも貴方個人だけが楽しむようにしてください。他人に譲渡したりすることが無いように。また他人にこれを持っている、或いはこれを使って何かしらの事実を掴んだ事を知られないようにしてください。知られた場合、貴方がどうなるかの保証は一切出来ませんがよろしいでしょうか?」

「勿論ですよ。というか、こんな趣味を人にバラすような真似できませんよ。犯罪ですからね」

「それを聞いて安心しました。くれぐれも大事にお使いくださいませ」


 僕は袋を抱えて店主に礼をして店を出た。

 次の電車の時刻を調べたらもうすぐ到着するらしい事を知り、僕は慌てて駅へと戻ったのであった。

 


「ふう、良い買い物をしたよ」


 買い物をしたおかげで僕の帰宅は遅れ、21時を過ぎていた。とはいえ一人暮らしなので誰にも気兼ねする事はない。ワンルームマンションの一室。誰も聞かないただいまを言い、部屋に上がって荷物をこたつテーブルに置く。

 晩飯は僕の家の最寄り駅の近くにある牛丼屋で済ませた。あとは酒をあおりながら寝るだけだ。その前に確認したい事がある。

 僕はパソコンデスクの前に座ってパソコンを起動する。少しの間の後にデスクトップ画面が開き、僕はあるツールを起動する。

 するとモニターにウィンドウ画面が表示される。

 映し出されているのはどこかのマンションの一部屋だ。

 そこには女性が椅子に座ってビールをあおりながらバラエティ番組を見て笑っているのが見える。風呂上りなのかバスローブだけを羽織っていてとても煽情的な姿だ。正直、勃起が止まらない。誰にも見せるつもりのないだらけた日常の姿を、この僕だけが見ているという状況がたまらない。僕も缶ビールの蓋を開け、あおる。


 僕には生来の覗きの性癖があった。

 最初は直接誰かの部屋を覗き穴や窓の隙間から除く程度で満足していたが、徐々に欲求はエスカレートしていき、人の隠されている一面が知りたいと思うようになり、このようにカメラや盗聴器を設置して人のあられもない姿や醜い本音を捉えようとしている。特に女性の、そういう姿を見聞きすると脳から脊髄に掛けて電流が走るような感覚を覚える。

 しかしその為にわざわざ尾行して住居を探ったり、GPS付き盗聴器を鞄に仕込んだり、盗撮カメラを設置する為に業者に偽装して侵入など、リスクが高い行動をしなければならなかったのだが、これからは手軽に人を探る事が出来る。

 僕はビールを飲み干し次の缶ビールを開ける。

 テーブルに置いた袋の中身をいつ使おうか、考える度に笑いが漏れた。

 

 翌週。僕は職場で早速使ってみた。

 手に入れたAMラジオと双眼鏡は一言で言えば最高の代物だった。

 職場で課長の内心を探ってみると、彼は浮気をしている上に会社の金を浮気相手の為につまんでいる事を知れた。しかもそれがバレつつあるというから最高だ。この先どう転落していくのか楽しみで仕方がない。

 いつも仕事をサボっているOL達にも使ってみると、脳内で他人の陰口のオンパレードで背筋がぞっとした。そうでない場合は何らかのドラマの内容を反芻してたり恋人の事を考えていたりとしょうもない内容だ。

 ラジオを使うのはこの辺にして、今度は双眼鏡を使う事にした。

 仕事中に使うのは無理があるから休憩中に、バードウォッチングでも装って会社の屋上に出る。見るのは違うものだがな。

 試しに向かいの高層ビルの窓際でデスクワークをしている綺麗なお姉さんに双眼鏡を向けて倍率を合わせる。すると先週試した時のように、服が透けてあられも無い姿が見えた。服の上からだと巨乳に見えたその胸は、実はパッドで誤魔化しているだけの上げ底だった。男の夢が壊れた瞬間だ。がっかりだな。

 隣にたまたま居合わせた女性の姿も同様に見る。こっちはスレンダーなようにみえて実はかなり着やせするタイプらしく、胸がかなり大きくかつウエストもきっちり鍛えて絞られている。肉体美が美しい。最高だ。

 僕は天を仰ぎ、雄たけびを上げてこの品物と巡り合わせてくれた神に僕は感謝の祈りを捧げたのであった。


 覗き行為を一人楽しんでいた、そんなある日の事。

 会社に人が中途入社してきた。

 女性で、彼女を一目見て僕は惚れてしまった。背が高めでスラッとして凛とした雰囲気を持つ彼女――灰谷葵はいたにあおい――は僕と同じ部署に配属された。

 彼女の教育係となり一緒に仕事をしているうちにお互いに良い雰囲気となり、自然と二人で昼食を食べに行ったり、夜に飲みに行ったりと関係を深めていった。僕は今までこのように女性と長く付き合った事は無かった。付き合ってみた事はあったが性格が合わずに短ければ数日、長くても三カ月くらいで終わってしまう。女性は覗いたり盗聴するに限ると思っていたものだが、運命の人というのは存在するらしい。

 僕たちはしばらくして恋人同士となった。

 幾度となく葵と体を重ねたが、お互いに今までで最高の相性だった。

 それに性格や趣味、好みなど何もかもが合う。人生を共に歩むうえで最良のパートナーだと僕も葵も感じていた。

 僕はこのまますぐに結婚まで行くのではないかという予感があった。が、彼女は自分の親と僕を会わせるのをすごく渋っている。理由を聞いてもはぐらかして、あまり乗り気ではないようだ。

 もうひとつ気になる事として、彼女は背中を人に見せるのを非常に嫌った。

 なんでも昔に大やけどをしたらしくその痕が醜いので見せたくないらしい。僕はそんなやけど痕くらい気にしないと言っても頑として見せるつもりはない。

 日々共に生活をしている間に、仕事中の葵のスーツ姿の背中を見ているうちに、僕はむらむらとある欲求が鎌首をもたげてきているのを感じていた。葵と出会ってから忘れていたあの欲望を。

 

 ……彼女の秘密を覗いてみたい。


 いけない事だと理性が抑えつけようとする。彼女が知られたくない領域に土足で踏み込む行為だと警鐘を鳴らしている。それをすればどうなるか、予想はある程度ついている。

 僕はどうしても知りたかったんだ。その背中にあるものを。



 あくる日。

 僕は葵が住んでいる部屋に訪れた。うちの会社の収入だけでは決して住めそうもない立派なマンションの一室。何度も訪れてはいるがそのたびに胸にかすかな違和感を抱く。何故彼女はこんな立派な家に住めるのだろうか。

 インターフォンを押して少し待つ。

 玄関のドアが開き、その向こうからは笑顔で出迎えてくれる葵がいる。


「いらっしゃい。今日はゆっくり過ごしましょうね、理人りひと


 職場では凛として美しい葵だが、家ではその雰囲気を全く感じさせず穏やかで可愛げのある姿を見せてくれる。この二面性がたまらない。

 部屋に上がり、革張りのゆったりとしたソファに葵と一緒に座る。今日は映画を一緒に見る為に来たのだが、何を見せられるのか楽しみにしているとホラー映画が始まった。しかも僕の苦手なスプラッター系の奴だ。

 のっけから人が沢山死んでいく。首を切られ、腹を裂かれて皮を剥がされてといった具合に。そのくせ展開がグダグダでテンポも悪く、グロテスクで趣味が悪い。こんなのがあと90分も続くのかと思うと気が重くなった。

 隣にいる彼女の表情を伺うと、ポテトチップスを齧りながら平然と笑って見ている。一体どういう神経をしているんだろうなと思ったが、女性は意外とこういうスプラッターホラーが好きな人も多いらしいしと自分に言い聞かせた。

 映画を見終え、僕は気分が悪くなってすっかりげっそりしてしまった。

 彼女は散々血や臓物が飛び出すのを見て、気を良くしながら台所に立って今日の夕飯を作り始めた。あんなのを見たら僕は食欲を失ってしまったというのに。

 と、丁度こちらから背中を向けている。これはチャンスだ。僕は鞄の中から双眼鏡を取り出して構える。

 距離は少し遠いが、双眼鏡の倍率を合わせれば何なく彼女の背中を覗けるだろう。倍率を合わせる間、逡巡があった。本当に彼女の秘密を探るような真似をしていいのか? 彼女の事を傷つけやしないだろうか。

 その心をねじ伏せるかのように僕は倍率を合わせて双眼鏡のレンズを覗く。

 キッチンで料理をしている彼女の背中は、服が透けてよく見える。相変わらずの綺麗な体。さてその背中にあるやけどの痕とはいかほどか。

 

「……??!!」


 思わず、僕は双眼鏡を手から落としそうになった。

 そしてもう一度、自分が見たものを確かめる為に双眼鏡のレンズを覗く。

 何度見てもそれはやけどの痕なんかではなかった。


 彼女の背中にあったものは神々しい天女の和彫りの刺青だった。


 だがそれは、まだ色が入っていない筋彫りの状態のものだ。

 一瞬で彼女がどういう人なのかを察する。

 給料に不釣り合いな部屋に住めるのも、親に会わせたがらないのもこれで合点が行った。つまりはそういう事、なのだ。

 じっとりと背中に冷や汗をかいている。心臓が早鐘のように打ち鳴らされている。 関わるべきではない。今からでもどうにかして手を切るべきだ。

 いやその前に、まず双眼鏡をしまわなければ……。


「どうしたの?」


 葵が不意に僕に話しかけてきた。気づけば彼女は既にこちらのテーブルにできた料理を運ぼうとしている所だった。


「あら、その双眼鏡綺麗ね。何?」

「な、なんでもないよ。バードウォッチング用さ。夕方のカラスでも眺めようと思ってね」


 誤魔化そうと僕はベランダに逃れて鳥を眺める振りをする。倍率を元に戻して普通の双眼鏡であるかの如く装う。ズーム調整するネジとはまた違う、一見してわかりづらい所にあるから説明を受けない限り普通はわからないはずだ。


「ふーん。でもカラスなんか眺めても面白くないでしょ。料理も出来たし一緒に食べようよ。美味しいよ」


 怪しむ様子もなく、彼女は僕が来るように促す。自然な動きで僕はベランダから部屋に戻り、双眼鏡を鞄に戻そうとする。

 しかしいきなり、彼女に双眼鏡をひったくられた。


「へへへ。これで理人の事観察しちゃうもんね」

「や、やめてくれよ! っていうか返せよ!」

「な、なによ。ただの双眼鏡にそこまで必死にならなくてもいいじゃん」

「高いんだよそれは! 傷つけられたら困るんだ!」


 僕と葵がもみ合っている間に、お互いにソファに倒れ込んでしまう。そして僕の鞄の中身がぶちまけられる。中に入っていたAMラジオもだ。

 

『僕が彼女の背中を覗いていた事だけは知られないようにしなくては』


 いきなり、声が流れた。

 僕の声。心の声。

 瞬間、僕と葵の間に冷たい空気が流れる。


「なに、今の声」


 葵の表情が優しい笑顔から能面のような無表情に変わる。

 

「いやほら、後ろ姿が綺麗だなって思ってさ、ついね」

「私が後ろ姿見られるの嫌うの知ってるよね」

「それは……その……」


『まずい、刺青があったなんて事を見たと知られたらまずい」


 僕は慌ててAMラジオを床からひったくるように取って電源を切った。

 だがもう何もかもが遅かった。


「見ちゃったんだ、どうやってかは知らないけど……私の背中」

「い、いや、誤解だよ。僕は君の後ろ姿は眺めていたけど背中に何があるかなんて知らないし知り様がないだろ?」

「じゃあ今の貴方の声は何よ!? 誰か別の人が言ったとでもいうの?」


 彼女は床に座り込み、泣き崩れてしまった。

 僕はどうする事も出来ずにただ立ち尽くしている。

 ひとしきり彼女は泣き、疲れたのか嗚咽も漏れなくなった。

 長い間があった。永遠とも思えるような。夕日は完全に落ちて暗い。

 部屋の電気をつけるような雰囲気でもなく、真っ暗な空間の中に僕らは居る。

 ようやく彼女が一言、絞り出すような声で話す。


「貴方は……私がこんな人だとわかっても愛してくれる?」

「え……」


 思わず漏れた声に、彼女は敏感に反応した。

 その声は絶望に満ちていた。


「やっぱりそうなんじゃない。貴方も所詮、他の男と同じ人なのね」

「いや、決してそういうわけでは……ただ君が隠してたのが悪いよ」

「いざ知ったら尻込みする癖に?」

「……」


 違うよと、どうしても言えなかった。僕の本心からかけ離れた言葉だし、例え口から出せたとしてもうすら寒い響きしか残さなかっただろう。

 

 「帰って頂戴。私の部屋から出てって」

 「……ああ」


 僕は散らかった荷物を鞄に入れ直し、部屋から逃げ出すように帰った。

 その間、葵を一瞥する事すらできなかった。



 気まずい休日の後の出勤日に、葵は来なかった。一週間過ぎても彼女はやってこなかった。職場公認の仲だったために職場の人々から僕は色々と言われたが、流石に背中の刺青が原因でこうなったとは言えなかった。一応電話は入れてみたものの着信拒否されていて繋がらず、会社の電話から掛けてみても留守番電話になるばかりで一向に繋がらない。

 二週間後にようやく彼女から電話があり、辞めるという一言だけが伝えられた。

 荷物も取りに来ず、僕にも会おうとせず、彼女は霧のように消えてしまった。

 葵は何処に行ったのだろう。想像をした所で知る術はないのだから意味はない。

 ……実のところ、僕はほっとしていた。

 組の関係者と結婚だなんてぞっとしない。彼女が僕と本気で結婚しようとしていたのは付き合っていた態度からわかっていたし、僕も望んでいたけれども。

 やはり一時の気の迷いだった。

 そう思い、僕は再び覗きを始めようと考えていた。



 それから一か月が経過した。

 今、仕事を終えて帰宅の為に駅のホームで電車を待っていた。

 今日は珍しく残業した為に疲れた。しかも大残業と来たものだから時々眠気が襲って来る。終電間際まで働くのは本当にしんどい。まあ、明日が休みだからまだマシだけども。終電間際でもホームには人がごった返しており、何処の乗降待ち場所でも何人もの人が疲れ切った表情で並び待っている。

 僕はその先頭に立っていた。

  

「間もなく、ホームに列車が参ります。危ないですから黄色い線までお下がりください」


 アナウンスの後に、電車のライトの明かりが見えてきた。電車は厳しいダイヤの時刻を遅れる事なくホームへ到着しようとしている。

 これでようやく帰れる。

 ため息を吐いて安堵すると、いきなり背後から衝撃があった。

 

「!?」


 そのまま僕は線路へ転落した。

 眼前には電車のライトが迫ってくる。

 考えている暇はなかった。

 咄嗟にホーム下部にあるスペースに、地べたを這いずる虫のように逃げ込んだ。

 ごう、と背後を駆け抜ける鉄塊。

 もし逃げるのが間に合わなければ、僕はどうなっていただろう。想像するだけでも体が竦む思いがする。

 誰かが僕が転落するのを見ていたのか、緊急停止ボタンが押されて電車が緊急停止した後、駅員たちが泡を食って僕を探しに線路に降りてきた。僕が生きているのを見つけて少しほっとした駅員と対照的に、僕としてはむしろこれから落ちた経緯などを説明しなければならず、疲れと相まって面倒くさかった。

 だがそれ以上に、僕の心に重くのしかかる事実がある。

 どうやら僕を殺そうとしている奴がいる。しかも本気で。

 背中を押されたので指紋を取ってもらおうとしたが、手袋をしていたらしく何も痕跡が残っていない。

 周辺の人々に聞いてもホームは混雑していた為に誰が押したのかわからず、結局調べても何も出てくる気配はなかった。

 ひとまずの取り調べを終えて、僕は自宅に帰る事を許される。気づけば深夜二時を過ぎており、勿論電車は全ての運行を終えてしまっている。近所にカプセルホテルやネットカフェでもあればよかったのだが、この駅周辺にはそういった施設が無い。

 仕方ないので僕はタクシーを呼んでそれで帰途についた。

 タクシーの車内で揺られながら考える。

 誰に恨みを買ったのだろう。誰に?

 思い当たる節と言えば、せいぜい葵の事くらいだがいくらなんでも刺青を見た程度で人を殺めようと企むだろうか。

 無闇にカタギに手を出すのはご法度の筈だ。そう、ご法度の筈なんだ。

 僕は震える体を抱えながら、じっと流れる景色を見つめていた。


「お客さん着きましたよ」


 タクシーの運転手にお金を払い、ようやく我が家に帰って来てみると、郵便受けにぎっちりゴミが突っ込まれていた。唖然としたが片づけなければ周囲に迷惑が掛かる。疲れた体をおして掃除を終えて、家に入ってみれば今度は固定電話の留守電メッセージが山ほど録音されている。そのどれもが無言電話。全て消す。

 

「……」


 嫌な予感がして、僕は盗聴探知機を取り出して部屋中を調べた。

 するとコンセントの中や天井裏等から盗聴器が数個発見される。

 この調子だと盗撮カメラもセットされているかもしれない。同じように探知機で部屋を探ってみると3個見つかった。

 体の震えが止まらない。冷や汗が背中にじっとりと流れ、僕はフローリングの床にへたり込む。これは嫌がらせどころではなく、明確な脅迫だ。


 お前を見ているぞ。


 無言のメッセージを、あらゆる手段を使って僕に向けて発信している。

 まさか、本当に僕を消そうとしているのか。誰が?

 ……誰が、なんて見え透いた問いはやめよう。

 もう一人しか思い当たる人物はいない。

 僕は慌ててカーテンを閉め、窓の外から中を伺えないようにする。それも無意味な行為かもしれない。これだけ盗聴器や盗撮カメラを設置されている。つまり部屋に侵入する手段も既に相手方は持っているという事だ。

 部屋に籠っていても無駄なら、一般人である僕に取れる手段はただ一つしかない。


「け、警察……警察に連絡しなきゃ」


 固定電話の受話器をとって110と入力しようとした瞬間に異変に気付く。

 ダイヤルする前のあの音が聞こえない。いくら受話器に耳を近づけても無音。

 電話機周辺を見回して気付いた。

 電話線そのものが切られている。

 ならば携帯電話で、と懐から取り出すがアンテナが一本も立ってないどころか圏外の表示がされている。

 電波障害、いやジャミングか? そこまでして僕を追い詰めたいのか。

 

 ピンポーン。


 緊迫した状況に対して間抜けな音が部屋中に響き渡った。

 冷や汗が体中に浮き出る。呼吸が全く落ち着かない。

 部屋から主が出てこないからか、何度も何度もインターホンが押される。

 居るのはわかっていると言わんばかりにまたピンポンと音が聞こえる。

 それでも僕は出ない。出れない。出たくない。出れる様な状況じゃない。

 業を煮やしたのかインターホンを延々と連打し始める。


 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン


「あああああああああああああああああああああああああ!!」


 追い詰められた僕は、ベランダから飛び降りようとカーテンを乱暴に開けた。

 すると目の前には、全身黒ずくめの一人の人影があった。

 人影はフルフェイスのメットに革の上下のライダースジャケットにパンツにブーツという装備だった。

 僕がベランダに出る窓の鍵に手を掛けたまま唖然としていると、その人影は窓ガラスを勢いよく蹴って派手にガラスを割り散らし、ブーツでガラスの破片を踏みつけながら部屋に踏み込んでくる。

 後ずさりする僕とゆっくりと歩いて追って来る人影。

 気づけば背後には玄関のドア。出ようと鍵のつまみに手を掛けたが、さっきからインターホンを鳴らしている奴の存在を思い出して咄嗟にドアノブから手を離す。

 追い詰められた僕。

 それを見つめる人影は、懐に手を入れて拳銃を取り出し、こちらに向けた。


「や、やめろ!」


 言っても聞くはずもなく、人影は人差し指を引鉄に掛けてゆっくりと引いた。

 瞬間、火を噴いて僕の左肩口には風穴が開き、出血する。サイレンサーが付いている為か派手な音は全くしない。

 痛みに耐えかねて座り込むと、続けて今度は足に一発撃ち込まれて悶絶してのたうちまわる。


「な、何なんだよ! 一体何なんだよ! 僕が何をしたって言うんだ!!」


 フルフェイスに向かって叫ぶと、そいつは銃を下ろしてライダースジャケットのポケットからストラップのついた小型ラジオを首に下げ、電源を入れた。

 ラジオから音声が流れる。その声には聞き覚えがあった。


『久しぶりね。お元気だった?』

「!」


 僕の恋人だった葵の声。間違いない。

 しかし何故、それを持っている。僕の持っているラジオと同じようなものを。

 

『貴方との一件で声を失っちゃったから、こうやって喋らせてもらうわ。慣れると口を動かしてしゃべるより楽ね、これ』

「何故、それを持っている」

『貴方と別れた後、漫然と死にたいって思いながら街をふらついてたら、不思議なおじさんに出会ったの。とある雑貨店を経営してるっていうおじさんに。そのおじさんは、私を一目見て何が起こったのかを察して、私に心を読んで発信してくれるラジオを渡してくれたわ。無料でね』


 そう言われ、僕は戦慄する。

 あの店主、いったい何をしている。僕を殺す手助けをしやがって!


『ああ、おじさんから伝言があったわ。貴方も他のお客さんと同じでしたか、残念でなりませんって伝えてくれと。よく意味がわからないけど』


 葵は肩をすくめてフルフェイスメットを外し投げ捨てる。

 その顔は相変わらず美しかったが、表情は先日と同じような張り付いた無表情をしている。まるで能面のような。


『貴方は私とのたった一つの約束事を破って捨てた。……私はね、一般人として暮らそうと誓ってたの。貴方と一緒なら普通の生活をずっと送っていける、そう思っていたのに、貴方が私の秘密を覗いたからよ』

「君が嘘を吐いていたのが悪いんじゃないか。ヤクザの娘だって最初から言えば僕だって付き合いはしなかった! 僕が君の秘密を暴いたのも悪いが、君が僕を騙していたのだって悪いんだ。僕が一方的に殺される謂れはないぞ」

『背中の刺青は近いうちに消すつもりだったわ。それこそ火傷の痕のようにね。でもこれで全ておじゃん。私は普通に暮らすのが望みだった。好き好んでヤクザの家に生まれたわけじゃない。今となってはどうでもいい事だけど』


 そう言って葵はジャケットを脱ぎ、肌を露わにしてこちらに背を向けた。

 先日まで筋彫りのままだった天女の刺青が、色まで入って極彩色に輝いている。

 

「……ヤクザの一員として生きていくつもりか」

『父はガンで死んじゃったわ。跡目相続もせずに死んだからウチの組が内部抗争になりかけたけど、私が一時的に跡目になる事でひとまずまとまった』

「それでいいのか……それでいいのかよお前は」

『私の人生に嘴挟むのはやめて。ま、今更私を捨てた人の意見なんか聞かないけどもね』


 振り返り、葵は僕とおなじ目線になるようにしゃがみこんだ。


『でも、最後に一言だけ聞くわ。貴方が本当の本音から、私を愛してると言ってくれたら最低限、殺すのだけはやめてあげても良い』


 葵は僕の頬を優しく手で撫で、幼児をあやすように微笑む。

 そしてポケットからもう一つ、AMラジオを取り出した。

 出血多量で意識が朦朧とする。

 僕はまだ葵を……。

 

『じゃあ、電源入れるからね。本音を聞かせて。本当に私を、今でも愛してくれているのかどうか、YESかNOで答えて』


 葵は僕の眼前にAMラジオを持ってきて、ゆっくりと電源を入れた。



--------

三人目:ピーピングトム END

 

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