第12話
その夜、彼女が自室でマッサージの為に、ふくらはぎを揉んでいると、一件の着信があった。登録の無い番号を見つめて、唇を少し噛む。
「藪から蛇」という言葉が、頭をかすめた。ひやりと冷たい寝台の上にあぐらをかき、少し考え込んだ後、彼女は電話をとった。
「もしもし?」
「あ、もしもし?」
少し高い男の声だった。
「すみませんが、どなたですか」
「あ、あぁ。そっか僕の番号、渡してなかったですよね」
電話の向こう側でガサガサと物音がして、しぜん彼女は待たされる。
「あ、あぁ。倉田です。とりあえず、倉田です」
「くらた、さん」
部屋に独りでいるせいか、誰だか分からない電話の主でさえ、こんなにも手放すのが惜しい。思いつく限りの危険だとか、そうしたことは気にならない。相手は他ならぬ自分に話しかけている。
「そう、"倉田"です。あなたをいつだったか助けた人間です。河原で、サンドイッチの」
「サンドイッチ…」
そう応えた段階で、彼女の脳裏に相手の顔が浮かんだ。だが、どうしてだ。また、名字が違うのだった。
「すみません。僕、いろいろと仕事を掛け持ちしてて、あなたと会った時の名前が思い出せないんですけど、別に、問題ないですよね」
「はぁ」
“仕事”、そして”掛け持ち”。 自分の母親を介護している男が、複数の名前を持つような仕事をしている。それが既におかしいのだとは、彼女も気づいていた。
「あなたと今日、ばったり会って、番号を貰ってしまったときは、正直、何なんだろうって思いました。何かの脅しかな、とか。でも、本当に偶然だったし、いや、偶然でもないのかな、病院なら。でも、僕は知らなかったわけで。だから、そう…あなたが僕に好意を持ったのかも、と考えるのが、いちばん都合がいいなと思ったんです」
「好意?」
その言葉の響きには、違和感があった。
まるでお上品な、"いかにも"な作り物。見世物としても通用するような、そういう綺麗なもの。それが好意と言うべきものじゃないのか。自分のは、そういうんじゃない。
「あの、私はそういうつもりじゃ…」
「ですよね」
彼女が否定した言葉に、すぐさま男の強い返事が、被さる。
「ですよねーただちょっと助けた位で好かれるとか、ありえないですよね、ハハハ」
電話口で、おどけたような反応を示す男に、彼女は、なんと言うべきか迷っていた。『助けてくれた御礼』だとか何とか、そういう安い口実で、繋がればいいだけのはずだ。
「…安心、しました」
彼女が無言でいると、男は笑うのを止めて、静かにそう言った。
「てっきり、恋人、知人、友人。そういう人のいない女性かなと心配で。死んでしまっても惜しくないようなことがあって、そこに僕が偶々居合わせたせいで、余計なことをしたかもと、僕なりに、考えたりもして」
“余計な”こと。
男は、そう言った。そうだ、余計だ。自分が本当に死のうとして、死んでしまったことなど、これまで一度もなかった。それが今生きている何よりの証拠だ。
認めたくない事実だった。だって、本当に死んでしまえば、そんなことは全て帳消しにできたのだから。
生死の天秤を揺るがすような、一種の錯乱状態。男と会ってから、これに追い込まれることが、めっきり少なくなっていた。彼女は、それをぼんやりと自覚しながらも、自分が「変わった」のだとは思いたくなかった。
「別に、余計ではなかったとは思いますけど。番号を渡したのだって…」
彼女は、なんとか喉の奥から言葉をひねり出し、ぐらつく頭の中を整理しようとする。
「一度また…会って話をしませんか。お礼もしたいし」
自分の希望から、出来るだけ遠ざからないようにと、気を遣う。
「お礼って…、別にいいですけど。僕が好きでしたことです」
やはり、この男は、簡単に思惑通りにならないらしいと、彼女は苦笑しつつ膝を抱えた。
「いいえ、是非に。みっともないところばかり見せて、気の納まる女でもないんです。だから…」
少し沈黙が続き、また何か、ガサゴソと雑音が混じる。耳元で軽い咳払いがして、男がようやく応えた。
「いいですよ。じゃあ、また土曜日でも。貴女の都合のいい日に、会いましょう」
「はい、じゃあ、土曜日。ランチでも」
彼女の中で、期待が膨らむ。
「あ、店はやめましょう。○○駅前で待ち合わせをして、公園散歩にしませんか?」
「暑くならなければ、いいですけど」
「大丈夫です。意外と涼しいですよ」
「じゃあ、それで」
見えてもいないのに、彼女は大きく頷いた。
「じゃあ、また」
「また」
ぷつっと、回線が切れた音がすると、一気に彼女の額から汗が噴き出した。身体の芯がキシキシと軋んで、手や、足の先が冷える一方、鼓動は、気分が悪くなるほど早まる。
彼女は、自分が冷静さを重んじて生きる人間だと、みなしていた。友人づきあいは少ないが、その分、男たちとの付き合いに時間を割いた。そしてときおり死にたくなれば、身を危険にも晒すが、いわゆる”保険”だって存在していた。そういう女なのだ。
だが、いま自分が陥っている状態を、うまく説明することができない。何かに向かって傾き始めた心に、抗する術がないこと。それが快くもあるというのは、いったいどういうことなのか。
彼女は片手から携帯を離さず、ベッドに身を横たえた。明かりを消さず、目も閉じず、ただ、着信履歴の画面をじっと、見つめていた。
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