第11話
「102番の方、次どうぞー」
調剤部の窓口で、彼女は次の患者の番号を呼んだ。
日毎、昼中に落ちる影も濃くなり、見上げれば、一段と深い青空の金曜日午後二時。昼休みに、外で食事をとったのは正解だった。
院内も十分に明るいが、太陽の光には負ける。職員の感染予防の為に、備品として支給されるマスクはたしかに立派だが、息はしづらい代物。そのせいか、まじめに身に着けているのは、彼女を含めて半数ほどだ。
「102番の方―」
二度、同じ番号を呼んでこなければ、次の番号に切り替える。そういう決まりだ。土日が緊急と入院患者専用の対応になるぶん、平日の午後ともなれば、風邪やらなんやら、あらゆる病の為に人が押し寄せる。時間が無いのだ。
「す、すみません、トイレに行ってまして」
そんな、要らない情報を吐露して、左方向から駆け込んできたのは、どこかで見た男。叔母の家に住むようになってから、それこそ、病院関係の医師やなんかと付き合いを始めていた彼女だったが、そういう、新しい交友の中で見た顔ではなかった。
「あ、」
こう言って、頭を掻いたのは、男の方だった。
「いつぞやの…あぁ、薬剤師さん、だったんですね」
彼女は瞬きを忘れて、目の前の緑のシャツの男を見上げた。髪型も違えば、眼鏡をかけているのも、前と確かに違う。だが、その声としゃべり方、わずかに香った匂いが、記憶を呼び起こした。
「ひら、つか…」
口をついて出ようとした名前を、彼女は咄嗟に飲み込んだ。手元に押さえた薬袋には、違う名前。彼女の記憶の中で、後ろめたそうな表情をした男が口にした、或る科白が再生される。
『…幻滅、しませんか』
忘れていなかった。けれど、もう一度会いたいだとか、そういう望みの対象としてでは、なかったはずだ。ただ、こうして会ってしまったからには、避ける理由も無かった。
「102番の方、ですね。番号札を出してください」
仕事中に出来る話でもなく、両隣の先輩職員の目もあった。彼女は、小さなメモ用紙に自分の番号と、次の土曜日の時間を書き付けた。「080-****-****、7/5、tel.」
「どうぞお大事に、もしこちらのお薬で、具合が悪くなるようなことがありましたら、またいらしてください」
「どうも」
男は、彼女が薬袋と一緒に渡したメモに気付いて、僅かに微笑んだ。彼女はそれを見て、男に逃げる気が無いことを知った。
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