第10話


 彼女は、理解していた。母親は、彼女に何も求めていなかった。


 言葉や優しさ、もちろん介助も。そして希望も。何一つ、娘の彼女には求めていなかった。そうやって、二人は家族という名の囲いで、生きてきた。それが一つの秩序であり、約束事だった。その世界が終わって彼女に残されたのは、母親からの、最初で最後の「要求」だった。



―元気で、生きて行ってください。


このメッセージを、他にどう理解しろ、というのだろう。


自分が母親を疎ましく思ったことは幾度もあったし、これからなら尚一層、そう思うことが増えたとは思う。だからといって、これはいったい何なのか。生きることも死ぬことも、まるで彼女の意思一つで、どうとでも出来るもののように、「生きろ」と言う。―ふざけている。すべてが、


 おもえばそこから、今の彼女の毎日が、始まったのだ。



***


 

 感極まった叔母が、冷静になるのを待たずに、彼女はせっせと自ら積極的に動き出した。


 叔母の秘書は、「それみたことか」と皮肉交じりに、彼女の"甘え"を笑ったが、面倒事が減るのならば喜ばしいと、数多の手続きのための手伝いを惜しむことはなかった。


 

 彼女が少ない荷物をまとめ、小型の家具をリサイクル店に売り払い、勤めている薬局に退職届を出した頃には、黄色いミモザの季節になっていた。

 

 今日から叔母の勤める実家の病院で、薬剤部の受付を始める。大学病院の倣いに従い、資格は同じでも”見習い”ポストから、順に務めていくものらしい。


 短く切った髪の端を撫でつけ、控えめな化粧とルージュで血色を補う。姿見の前に立ち、叔母の買ってくれた紺色のスーツに目を細めた。これから行くところは、彼女が誰の養女か、皆知っている。あらゆる噂が、自分の身に纏わりつくだろう。それでも自分は、進もうと決めた。


 小さな鞄を提げ、自室を出ていく彼女の足取りは軽い。



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