第8話


 ベッドの上に片足を上げ、ストッキングを爪先から這わす様に、押し上げていく。彼女がつい二か月前、叔母の家の養子になり、家と仕事を変えた理由は、なんてことの無い、”価値のない”自分の我儘が、ほとほと嫌になったからだ。


 春に出会った、「平塚」という男。行きと帰りと背負われて、感じた薄い背中と、回された腕の力に安らぎを感じた。淡い首筋の匂いに、何とも言えない、甘い高揚感を募らせた。


現実には、口づけることさえしなかった肌の感触を、夢想の中でひとえに辿ろうとしては躊躇し、持て余した熱を、眠れない夜に打ち付けていく彼女は、いったい何に取り憑かれたのだろうか。

 

これまで曖昧なまま、有耶無耶に濁っていた彼女の”核”のようなものが、急速に胸の中で、"底"のようなものを持ち始めていた。から少しずつ、確かに形を成して、ぎゅっと胸を押さえると、その”硬さ”が手に取るように、分かる気さえする。


 予想外に思い出深いものとなった、そのプチ失踪の翌日、自宅に戻った彼女は、これまでとは異なる熱を帯びた身体を、いつもの方法で宥めようとして、ふと、それが「おかしなこと」のように感じた。ただ一人で黙って過ごす時間が耐えられないだけならば、なぜ、誰かの快楽の為に、自分が出掛けていく必要があるのか。自分はこれまで、あまりに安い「買い物」をしていたのではないのかと、思ったのだ。


 そんな気まずさに満ちたひとつの覚醒を、戸惑いながらも受け入れた彼女は、自分が新たな何かを、と気付いた。




「叔母さん、これまで迷惑かけて、ごめんね」


「何よ、改まって」


 

 決心は鈍らなかった。動いたのは週末、叔母の休みを待って、家に押し掛けた。一世一代の芝居を打つと決めて、"仕事"にとり掛かった。



「わたし、叔母さんの家に引っ越す。で、やめる。とりあえず男とか…まぁ、そろそろ飽きたというか、私も歳をとったかな…って。ついでだから、仕事も変えようかと」


「はぁ?」


 彼女の突然の申し出に応じた叔母の顔は、言うまでもなく、非常な見ものであった。


 不信感と驚きの綯交ぜになった難しい表情は、彼女が、ぼそぼそと「これまで」のことを詫びるにつれて次第に緩み、終にはその両眼から歓喜の涙が、つうっと頬を伝って流れ落ちた。彼女の叔母は、ティッシュで鼻をかみ、言葉もないと言った様子で胸を押さえると、小さく首を振って、目の前に座る彼女の手を取った。


「良かった…ほんとによかった…千代ちゃんが、姉さんと同じことをしようとしてるんじゃないかって、ずっと怖かったから…」


取られた掌は汗ばみ、罪悪感で絞まる喉は、今にも奇声を発しそうだった。

彼女はそれらを堪えて、言葉を接いだ。


「…まぁ、親子でも別の人間だし?あれから10年も経って、私も…ね」


「そうだけど…そうだけど…」


結婚もせず、叔母は昔のまま変わらず、彼女の言葉の嘘を信じない。



「もう、やめよ、叔母さん。私もやめるから」


やめるのではない。正確には捨てるのだと、彼女は思う。



「そう、そうよね…前を向かないとね…」


彼女は、叔母の心から安堵した顔を見ながら、内心で言葉にならない悪態をついた。所詮は姉妹。親子ではないから、こんなことで騙されてしまうのだと。


10年前。彼女の母が、自ら命を絶った”直接”の理由の中に、叔母はいない。


叔母にとっての姉とは、自分と比べて器量が劣り、加えて万事につけて容量の悪い、無口で控えめな女であり、だからこそ、そんな姉の最期しか、気に留めてはいない。母が生きている間に味わった"不平等"を、叔母が振り返る理由など、初めから存在しないのである。



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