第7話
夕方から風呂を沸かし、香りのいいトリートメントで自分の濡れた髪を梳いていると、ふと、彼女は忘れそうになる。そういえば、自分は死にたい人間ではなかったか、と。
浴室の煙る暖かな空気を、肺の奥深くまで吸って、吐き出す。自分はズルい人間だ。過去を憂えても、現在の悩みはただ一つ。死ぬ契機がないというだけ。べつに、生きているのに積極的な理由なんて必要ない。ましてや、生きている理由が無いから、死ぬのが当然だとか、そういうことではない。
足の裏の怪我が束の間、自分を人間らしくしたような気がする。
けれど、大げさな包帯だけを外し、水が染みるのも放って身体を洗っている時点で、彼女の中では朝のことが、もう済んだことになりつつあった。
"自分をどうしたいのかさえ、こんなにも分からないまま
人間としての本質的な欲求や、女としての「我」みたいなものはあるらしいと、男たちと付き合っていると、実感できた。でも、それだけ。それ以上の何かがあるような気がしたのに、どこにも無い。
"実体"を見失っている。
少し力を入れた指で、首筋から鎖骨にかけて、薄い皮膚をなぞる。
皮の引っ張られるかんじや、その下の骨の張り具合、脂肪の層を感じて、形のいい乳房が腕の動きにわずかに歪む景色を、鏡越しに眺める。もし、ここにある身体だけが自分の本体ならば、死を望まないだろう。
彼女は、自分が自分であることが煩わしいとばかりに、強く自分の表皮を擦り落とす。頭の天辺から爪先まで、気の済むまで洗い上げると、ようやく浴室を出た。
叔母が雇っている家政婦は、洗濯がことのほか上手だと、いつだったか叔母が褒めていた。
一流ホテル並みの、ふわりと乾いた大手のバスタオルで、包み込むように身体を拭いていると、自分が何一つ、歴史を持たない生き物の様な気がして、心地がいい。
「イタタ・・・痛い、いたい」
たっぷりと水を含んで重たくなったガーゼを外すと、滲んだ血が足の裏をすっかり染め上げていた。ため息を吐いて、頭からタオルを被ると、フローリングに細かな水滴を落としつつ、彼女はキッチンへ向かう。向かう先は一つ。大容量の冷蔵庫から、缶ビールを一本取り出した。
小気味よい音を立ててプルを起こし、喉に一気に流し込む。ズクン、と頭の芯が揺れて、酩酊感がふわふわと、脳幹から痺れてくるようだ。
「あーこれこれ」
口の中を潤すと、飲みかけの缶をダイニングテーブルに置く。居間のソファに秘書が用意していった下着や部屋着を拾うと、躊躇もせずそれらを身に着ける。
汚れたバスタオルを引きずり、彼女は周囲を見回す。叔母の家のどこに何があるが、それなりに憶えていられるほど来ていることを思うと、案外、ここに住んでしまえばいいのかもと思う。
「それに広いし」
そう独り言を言いつつ、よたよたと浴室へ戻ると、叔母の化粧瓶と、プロ仕様のドライヤーを抱え、居間のソファにようやく腰を下ろした。
テレビ台の下のコンセントを探り当てると、多めの風量を当て、髪を乾かしていく。”作業に熱中すると余計なことは忘れられる”とはよく言ったものだが、自身は好きでも無い長髪を、こうして伸ばしているのは、掛ける手間を惜しんでも、漠とした他人との距離感を、自分で図るためなのだと認めている。
軽くなった髪を手櫛で整え、化粧水を両手にとると、出ている腕、首筋、それから顔面に滲み込ませていく。目の前のテーブルには、きれいに二つ折りされた二万円。男から渡された金だ。タクシー代にくれたのだろうが、秘書が払ってしまったし、たぶんこの額は多すぎる。得体のしれない女を拾っておいて、まだ金を渡そうなんて、どれだけ善人を演じているのだろうと、彼女は思う。
『僕が、この家の本当の息子ではないと言ったら…』
男の口にした言葉で、唯一引っかかったのは、この一言だけだった。
その後に続いた、”幻滅”という言葉と、全くつながらない気がした。今日初めて会ったような人間が、知って幻滅するような何かを自分がしている、とでも言いたいような、そんな意味だろうか。
でも、自分はそれを追究しなかったし、男だってそれ以上、説明しなかった。ただ、最後に渡された金銭が、使われずに、そのまま残ってしまったことの”対価”が、いったい何であったのか、その歯切れの悪さと共に疑問が残った。
彼女は、"平塚"という名字の男に向けた関心を、きわめて大事なものとして、心の中にしまいこんだ。
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