第6話

「もしもし? もしかして千代ちゃん?」


息の苦しくなるようなドキドキを追い払い、彼女は電話向こうの女性に、返事を返した。


「そう。ごめんね、叔母さん。仕事中に」


彼女が見ていると、男は席を立って部屋を出ていく。意識を受話器に戻す。


「ほんっと、で、なに?こんどは。お財布また無くしたの?」


低音から、声を張って高音域へ。叔母の声は、やはり通りがいい。



「カードとか、携帯とか一式…」


「はー、あのね、だから一緒に住もうって言ってるんじゃないの。一人暮らしは自由だけど、こんなことばかりじゃ考えものよ」


「わかってる、分かってるよ…」



彼女はそう答えつつ、本当に自分は分かっているのかと、自問する。叔母だって、何度これまで言ってきたかもしれない台詞を、また再生しては呆れているはずだ。


「千代ちゃんのそういうとこ、ほんと姉さんにそっくり。やめてよ、私より早く死のうとしないで」


「違うってば、ちょっと・・・ちょっと揉めて…」


「なに、また男なの? 自由恋愛もいいけど、相手を選ばないと損するのは、身を以て知ってるでしょ。なんならこっちで見繕って」


「やめて、お願いだからそれはしないで、お願い」


「そ。じゃぁ、またこの話は今度ね。あっ、貴重品類は紛失届、出させておくから。どこにいるの?迎えに行かせるわ」


彼女は場所を言いかけ、周囲を見回す。


「ごめん、すぐに折り返すから」


「え?なに、ちょ、待ちなさい」



電話を切ったあとすぐに、彼女は後悔した。


自分は何をやりたいのか?

決まってる。死にたいのに、同じくらい強い気持ちで、”助かりたい”と願っている。そんなあやふやな部分が残っているから、叔母の電話番号を忘れないのだ。


手元から何もかも無くなったとき、裸一つで路上に放り出されたときでも、電話さえつながれば、助けてもらえる。


そんな仕組みを自分が求めて、叔母が受け入れたのは、何故だったか。みんな、母のせいなのに。大嫌いな母にまるで、救われている。それだって嫌な筈なのに、逃げ道が分からない。



「終わりました?」


タイミングを計っていたのか、彼女がハッと顔を上げると、男が部屋に戻って来ていた。


「いや、すみません。ほとんど家に一人で…あ、母がいるか。で、でも、まぁ一人みたいなもので、話相手というか、介護士さん以外で見知らぬ女性が家にいるのって、落ち着かなくて」


「邪魔…ですか?」


内心、立ち聞きをするくらいなら、横に座っていれば良かったのにと、彼女は思う。


「いえ…じゃまとか、そういうのは」


この話の流れで、この家に留まりたいと口にすれば、望みは叶うだろう。幸い休日で、叔母だって、院長仕事の接待中ならば、そうそうこちらにかまけている暇はない。


ただ、自分の中の何かが、このお決まりのパターンを妨げている。


男の身なりが貧相?

いや、金の無い男なんて幾らでもいる。


顔が生理的に受け付けない?

男の顔は、さっきからずっと観察していたし、背負われていた時に感じた汗のにおいも、不愉快というより、惹き付けられる種類のものだった。


何か、都合の悪いことでも? 

女がダメな男? 


確かにこれまで近づいて、避ける男の意思表示の形は、良く知っている。


すくなくとも今回は、自分を家まで運んできた時点で、そういう関りを拒んではいない。むしろ、下心があって然るべきだと、それに乗じて自分も、ここまでやってきたのだ。なんだ、何ひとつ、問題など無いじゃないか。



「で、あの送っていきましょうか。”おばさん”のところへ。お身内の方がいるなら、そのほうが」


「あ、あぁ、そうですね」



素直な女のふりをして肯きながら、熱い膝頭を合わせる。怖い、のかもしれない。


彼女がそんなことを思うと、おもむろに男が彼女に近づく。ビクッと身体を震わせた彼女に、男は、片手を顔の前に上げて「すみません」と言う。


結局、電話の子機をテーブルから拾っただけだった。


「送るとか言いつつ、車、無くて。友達が借りて行っちゃって、だからタクシー呼びます」


「タクシー代」


「いや、気にしないでください。僕、こう見えて”お金持ち”ですから、見えないでしょうけど」


「はぁ」



短縮番号一つでタクシーを呼んだところを見るに、普段からそういう暮らしをしているんだ、ということは分かった。だからってわざわざ、『僕はお金持ってます』なんて、アピールをするのは変じゃないか?―あぁ、そうか。


彼女は納得した。


男は自分を”買う”余裕があると、暗に言っているのだ。現状で何より必要なのは、"金"である。まさか、自分みたいなのに、金銭を払ってまでどうにかしたい男がいるとは思わなかったが、それはそれで、ありなのかもしれない。


「あの、お金、ですけど」


「はい?」


男が電話を切ったところで、彼女は話をふった。


「もし、あなたがいいのなら、お金をくれませんか、私に」


男は何と答えるだろうか。彼女はじっと、男の唇を見つめた。


「えっと…幾ら位?」


男の目が左右に泳いで、彼女のところに戻ってくると、ようやく口元に当惑したような笑みが浮かんだ。


なんてことの無い反応。しかし、彼女はいつになく、自分が嫌になった。


「…十万円。それだけくれたら、私、あなたの都合のいい女になっても、いいと思って」


対価を求めることが、こんなにも勇気のいるものとは思わなかった。心臓が跳ねて、胸から飛び出すのではないかと彼女は思った。


「ええっと、僕は…ですね」


男は、口ごもって、視線を外す。


だが、なんとなくの勘だが、男の顔は、”想定外なことを聞いた”という顔ではなかった。むしろ、気の抜けたような、安堵したような薄ら笑いを浮かべて、男は言った。


「僕は、お金を出して女性を買う人間では、無いです。いや、そういう仕事を否定するわけではないですよ。あなたのことを知らない訳だし…。でも、僕はそうしない。あなたが、したいようにするのを、僕は止めないけど、止めないですけど…」


男の煮え切らない様子に、彼女は噛み付くように言い返す。


「じゃあ、あなたは私を助けて、どうしたいんですか?」


「?」


面食らったのは男だけではない。彼女自身も、自分の言葉に驚いていた。助けてほしいと望んだのは自分じゃないか。


「すみません、きっと頭がおかしいんです、私。まともに相手なんかしなくて、いいんですよ」


「いや、こちらこそ…ハハハ、仰ることはもっともだな。ハハハ…」



それからタクシーが到着するまで、彼女は男に自分の靴やカバンの特徴、どこを走ってきたのか、思い出せる限りのことを、絵に描いて伝えた。


男は、朝着ていたのと色違いの上着を羽織り、彼女を背中に負って、家を出る。門扉の前に停まっているタクシーに二人で乗り込むと、彼女の荷物を探しに、近辺をゆっくりと走ってくれるように運転手に頼んだ。


目当ての歩道橋は特定できたが、荷物は無く、近くの交番へ遺失物届けを出し終わると、男は彼女を残し、一人でタクシーを降りた。


「それじゃあ近所なんで、僕はここで」


バン、とタクシーの扉が閉じ、手を振る男の姿が、忽ち遠ざかる。


「お客さん、どちらまで?」


「豊島区の○○、△△まで」


「大変だね、荷物無くしちゃったの?」


「えぇ」


「よかったね、親切な人がいて、お得意様だけど、いい子だよね」


彼女の手の中には、別れ際に握らされた、二万円。男の知り合いらしいタクシー運転手は、たかだか30分程度の間に、ぺらぺらと男のことを、彼女に話して聞かせた。


適当に相槌を打ちながら、最後に彼女は男の名前を尋ねた。


「え?平塚さんでしょ。平塚さんちの息子さん。下の名前は…なんだったかな?」



***


正午を過ぎる前に、タクシーは彼女の叔母の病院に到着した。


運転手は気遣って先に降りると、病院へ車椅子を取りに行き、彼女を乗せて、休日診療窓口へ向かった。


それからあとは、云云かんぬん。事情を聴いていた叔母の秘書が出てきて、彼女を預かるとタクシー代を渡した。


「すみません」


彼女が小さくそう言うと、秘書の中村さんは、ハーッと、大きなため息を吐く。


「今回はまた、派手なケガをされたようで。いいかげん千代子さんも、院長の娘に納まったらいかがです?めんどくさい」


「ハハハ…すみません」


「いいですよー、自分のお小遣いだけ稼いで、あとは家事をしてくれるなら、院長も文句も言わないでしょ。何で独り暮らし?」


女性で、叔母の私生活までざっくり踏み込んでくる人は、この人以外にいない。しかし、距離感を弁えた、ひどく有能な人である。眼鏡をかけて、いつも紺か黒のパンツスーツを身にまとう院長秘書は、彼女にとっては、いかにも近づきがたい存在で、苦言を呈されても、身体を素通りしていく。


「叔母と二人暮らしはきついですよー、いい歳をして実家暮らしみたいで」


「いいじゃないですか、実家。全然ありだと思うなー。遊び過ぎの千代子さんにとっては」


「はぁ」


てきぱきと己の仕事をする秘書は、彼女を院長用の車に押し込むと、そのまま叔母の家に送り届けた。


彼女はその間なにも言わず、ただ、今日出会った男のことを、思い返していた。

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