第5話


浴室を借りて、彼女は自分の傷だらけの足を洗い、ふわりと軽いバスタオルで水気を拭った。


「僕の部屋へ、行きましょうか」


彼女が先ほど廊下を歩いて浴室へ向かっている際に、男の姿を見かけた。背中越しに、灰色の乱れた、女の髪が見えた気がした。母親だろうか。


男は、何か小声で話しているようだったが、呼ばれた用事を果たしたのだろうか。叫び声は嘘のように静かになり、耳を澄ますと、かすかにいびきの様なものが聞こえる程度だった。


「臭い、気になりませんか?」


男に言われて、さっきは無かった消毒液の強い芳香に気を留めた。


「いいえ、母親が、看護師だったので。こういうのは」


「あぁ、そうですか」


滅菌されて、強制的に拭われようとしたアンモニア臭とその他の残り香、そしてなにより強烈な、消毒用アルコールの匂い。彼女にはすべて、慣れたにおいだった。


「できるだけ、気を付けてはいるんですけど、ダメな人はだめだって言いますよね。ハハハ」


どこか他人事のような軽口を叩く男は、さっき、初対面の自分に何を言おうとしたのか。それが気に掛かっている。


彼女がそうして通されたのは、明るい、庭に面した洋間だった。


少し、男の身に着けているものよりも高価な、ただ、おそらくはこの男の趣味であろうと思えた。おとなしい色合いのソファに、丸いガラステーブルをはさんで、大型のテレビ、芝生のような風合いのグリーンのラグ。


部屋の中で唯一、濃い紫色が目立つ、小さな蘭の鉢植えは、多種多様なブランデーが並んだサイドボードの上にポツンと置かれていて、どうやら世話はされているらしい。


エル字型に伸びた一間の角には、黒い、書机というか勉強机が、壁に向かって置かれていて、見ると、小型六法だの、民事法令集などと、いかにもなタイトルの本類が背を向けて並んでいる。


「あ、あまり、見ないでください。勉強中なので」


「いや、なんだかとても知的な感じだなって、思って…」


そう言いつつ、彼女はこれまで男の部屋に入って、その男の職業や関心だとか、そういうものを感じる様なものを見た記憶が無いなと思った。探せばあったのかもしれないが、そもそも、どうでもいい情報だったので見ようともしなかったのだろう。


見渡してベッドが無いため、彼女はいくつかある扉の向こうの、暗い寝室を想像した。ひどく疲れていたし、この部屋は明るすぎるように感じた。


彼女の視線の先を読んだ男は、慌ててソファを薦める。


「あぁ、どうも」


彼女は少し気まずそうに髪を押さえ、ソファに腰を下ろした。


男がクローゼットから救急箱を持ってきて、いそいそと彼女の足の裏を消毒し、厚く塗り薬を指で伸ばす。それがくすぐったいので、彼女は笑い、男も笑った。


足元にひざまずいている男の眉を見ながら、彼女はどうこの場を去るかを考えていた。自然、開け放たれたガラス戸に目が行く。


あっさりとしたデザインのレースカーテンの向こうには、黄緑の芝生が広がる庭がある。そこには洗濯竿に一枚だけかかった赤いTシャツが風に揺れている。男のものだろうか。


「できました」


ガーゼがあたり、紙テープと包帯で覆われた足は、まるで白い靴下をはいているかのように、隙間が無かった。


彼女が言葉を無くしていると、それを良くとったのか、男は立ち上がり、「簡単な食事の用意をしてきますね」と言うと、彼女を一人残して部屋を出ていく。


足裏の自由が無い状態で、そうそう逃げるわけにもいかない。それが分かっているから、置いていったのだろうかと、彼女はぼんやりと思った。


こうして、体の自由が利かないようにして”楽しむ”男がいたのを、彼女は憶えていた。


トイレのドアノブや、浴室の戸に紐をくくりつけ、その一端を腕や足に巻き付けて縛る。おかげで、部屋の中の移動が面倒だった。携帯の連絡先を調べて、男の名前を彼女に消させ、今何をしているか、逐一報告するように命令したりと、兎角神経質な男だった。


別れたのは、突然向こうから「来なくていい」というメール一つだったが、大した感慨もなかった。男の優しい言葉遣いは気に入っていたが、気分屋で面倒だった。


彼女は、どんな男でも、大抵は彼らの趣味にうまく付き合い、自分の飢えを癒す術を心得ていた。だが男とその家族、となると話は別だ。



「お待たせです。簡単に」


差し出されたのは、バターの塗られたトーストと、ハムエッグにサラダ、という朝食だった。それが二人分。そしてなぜか色違いの揃いのマグカップに、ティーバッグと、インスタントのドリップコーヒーが、それぞれセットされた状態でテーブルの上に置かれた。



「紅茶とコーヒー、どちらかは飲めますよね」


「あぁ、はい」


「どっちが、いいですか?」



持ってきた電気ポットのコンセントを差し込みながら、男が尋ねる。彼女は男の目を見ず、「コーヒーを」と答えた。



「じゃあ、僕は紅茶で」


彼女はソファの上から、男を見下ろす。飲み物にこだわらないか、他人に選択を任せるのが性に合っているのか、少しわからなかった。


お湯を足したところで、コーヒーの香ばしい香りが、食欲を刺激した。



「じゃあ、いただきます」

「戴きます」


何でもない食事の筈だが、不思議と美味しく感じられたのは、こうした”まともな”場所のせいだろうかと、彼女は考えた。


これまで付き合った男たちの中には、自分で料理をする男もいた。好き嫌いの少ない彼女に、味の感想などを求めたが、これもまた、彼女の中では面倒な男の一人にすぎず、今では顔もはっきりと覚えてない。男が黙々と口を動かし、テレビの電源を入れたところで、彼女の気も逸れた。どうやらこの男は気にしないらしい、と。


男はニュースを見ながら、時折感心して頷き、場面が変わって事件報道となると、悲しそうな、困ったような表情を浮かべる。そして合間に流れる洗剤のコマーシャルを、まるで子供の様な眼差しで、食い入るように見ては、何かを検討している。会話もないが、その様子を見ているだけで、コミュニケーションらしきものが成り立っているかのような、そんな感覚を彼女は抱いた。



「そういえば靴」


すっかり空いた皿を重ね始めたところで、男がようやく言葉を放った。彼女もテレビに見入っていたので、話しかけられたことにやや驚いた。



「あ、靴…えっと、たしか歩道橋に」


「歩道橋?それって◇◆橋?」



橋の名前なんて知らない。出合い方のせいか、気安いテンポで投げかけられても、答えられる質問ばかりとは限らない。



「いいえ、名前は知りませんけど、近くの…」


「近くって、結構数あるんだよな…」



男は彼女抜きで、探し物をするつもりらしい。それ自体が手間だろうと思うが、男にとってはそれが問題ではないのだろう。


「すみません、もしかしたら、もう無くなってるかもしれないし、こんなこと言うのあれですけど、靴はお借りできれば…財布だけ、貴重品だけ、どうにかしたいかも」


至極当然のことだが、この場に限っては、甘えたことを言ってみる。男はきっと気にしない。


「そう、ですよね。とにかく、探してきます。土曜の朝だし、奇特な人がまるごと届けてくれてるかもしれないし、どうしよっかな…お名前、僕が訊いても大丈夫ですか?」


「名前…」


彼女はそう言わてて、途端に気まずくなったのを感じた。自分の存在と名前、それらはいつも切り離されて存在しているかのような気がしていた。だが男に言われると、その名前一つで、自分というものすべてが、拾い上げられてしまうかのような、そんな居心地の悪さだ。彼女は、男の目を見ながら思案する。



「お電話、借りても?」


ようやく言えた。そしてこんなときの「緊急連絡先」の番号を、記憶の片隅から引っ張り出す。彼女の迷いを察したのか、男は「あぁ」と気付いた素振りで、


「えぇ、いいですよ。あ、子機があります」


と、テレビの横から電話の子機を取り上げ、彼女に手渡す。


「どうも。」


彼女は頭を下げ、ぎゅっとそれを握りしめた。




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