第4話


「あ、怪しいですよね。すみません」


男は少し後悔したように、自身のこめかみに手をやり、手の中の食事に目を落とした。


「他に掛ける言葉もないと、妙な具合になってしまって」


それでも彼女の視線をもう一度、笑顔で受け止めると、そのまっすぐな瞳で、何かを言おうとしている。


その無言のメッセージが、彼女には、心に深く刺さったように感じた。世の中には存在するのだ。たいした言葉も使えないくせに、勝手に人の心を読むような人間が。そして知ったような顔をして、手を差し伸べる。そういう傲慢とも云える、お節介な人種が。


 彼女の思考は冷静に男を捉えていたが、それよりも傷む足のせいか、場の感傷のせいか、彼女の身体は、もっともな判断を待たずに、男の胸に飛び込んでいた。一刻も早く、誰かを見つけなくては、この衝動を自分で抑えるすべを知らない。


何より、男は察しているではないか。彼女は、自分の肩に置かれた男の薄い掌を感じながら、自分の表情を、男が見ないことを願った。今、額に浮かんでいるのは、軽い罪の意識から来る脂汗。乾ききった目元からは、マスカラを滲ませるほどの涙も出てはいない。


「どうしようかな、家、来ます?」


彼女が黙っていると、男は慌てて付け足した。


「いや、そういう意味じゃないですよ。ただ、あなたは靴を履いていないし、食事もジュースとサンドイッチが一つじゃ、足りないし。僕もお腹が空いていて。ね、ほら」


男がそういうと、確かに、いかにも不服そうな腹の鳴る音が、触れている服越しに響いてきた。彼女はそこでようやく笑みを浮かべ、彼から一歩下がると、所在なさそうに彼を見上げて言った。


「別にあなたが”悪い人”でもいいです。こんな、死にたい女を拾う人なんて」


その先を言いかけて、彼女は口を閉じた。男は、彼女の閉じた唇を見つめながら、差し出した両手をどうしたものかと、当惑している。


「とにかく家に。家に連れて行ってください」


彼女はようやくそれだけ言うと、自分の荒れた毛先を指で梳いた。男の方は困ったなという表情をしてからくるりと背を向け、その場にしゃがむと、彼女に「どうぞ」と声を掛ける。彼女も躊躇いつつ、その背中にぴたりと身体を寄せ、体重をあずける。


「よっこらせ」


男がぐいと力を入れて立ち上がると、彼女はなんとも懐かしい浮遊感を感じ、胸が高鳴るのを感じた。


「そんなに遠くはないですから。後で、靴の場所とかも聞きますから。我慢してください」


「はい」


彼女は男の首筋に、剃り残した髪筋を見ながら、どういう仕事をしている人間だろうかと考えた。


金銭的余裕があるようには見えない。靴も服も、髪も、清潔にしようと整えられてはいるが、決して新しいデザインでも、最近カットされたようでもない。もしかして家庭のある主夫。そういうところかもしれない。家に帰れば、きれいな奥さんが…というのもありだ。それならそれで、帰り賃をおまけに、食事だけ御馳走になって帰ればいいかと、彼女は自分の想像を切り上げた。


「ここです」


男がそう言って、彼女を降ろしたのは、ひどく塀の高い、門扉の大きな家の前だった。家名も物々しく、「平塚」とある。岩塀越しに覗いているのは、剪定されたばかりの松の枝だろう。彼女は少し感心して男を見た。


男は、ポケットから鍵の束を取り出すと、さっと一つを選んで門扉を開け、階段に落ちた小石や枝を手で払うようにして、先を行く。ありがたい配慮だと、彼女は思いつつ、後に続いた。足の裏は既に痛みに敏感さを取り戻していて、さすがに涙がにじむ。


「家に着いたら…まずは手当てですね。それから…」


男は自宅の扉の前まで来て、呼び鈴を為すための指を上げた。


「どうぞあまり、驚かないでください。母がうるさいでしょうけど、ほぼ寝たきりなので」


彼女はこくんと頷いて、男の首筋の緊張を見て取った。そういうことかと、彼女はぼやけた頭の中が急速に冴えていくのを感じた。


こんな一言で、男の行動が途端に奇異なものでなくなるのは、不思議なことだ。代わりに彼女の胸に、ずしりと後ろめたい記憶が蘇る。


 

 男が慎重に呼び鈴を鳴らし、それからカギを回す。ドアが開くや否や、中から悲鳴のような、怒声の様な女の声が、二人に襲い掛かってきた。


彼女は思わず身じろぎ、男が慌てて背後のドアを閉めるのを手伝った。そしてその悲鳴が、どうやら誰かの名前を呼んでいるものだと気付くと、彼女は男の腕を引き留め、尋ねた。


「ヒロタカ?」


ふっと、男の目に動揺が走ったのを、彼女は見逃さなかった。男は今日初めて自分から目を反らし、靴を脱いで、床の間に上がった。彼女はペタペタと歩いて、その板間に腰を下ろして男を見上げる。


「あなたは、」


男が言いかける。彼女はふっと息を止め、次の言葉を待つ。


「僕が、この家の本当の息子ではと言ったら、幻滅しますか?」


「?」


彼女は数回、目をしばたかせ、意味を図りかねていた。


男はそんな彼女の様子に「クスッ」と、無邪気な笑いをこぼした。一瞬だが、この男は幾つだろうかと、彼女が訝しんだほど、幼げな笑みだった。


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