レシュノルティア 3
戦いの最中、妙な懐かしさを最後まで拭うことができなかった。強敵を前に命のやり取りをしているというのに、心は別のところに向いていた。確かに簡単な相手ではなかったが、仮にもこの森で生活し、狼に育てられた俺があんなにも一方的にやられるとは思わなかった。
それもこれも、全てはあの母親とその娘のせいだ。
あの戦いで傷ついた体はほとんど治ってきたが、未だに疼く左腕を抑える。普段は気にならないが、あの日を思い出すたびに少し疼く。これは痛みからなのか、記憶からなのか。
この森、そしてその先に広がる王国アルスフェイトは、最近ある王国に狙われた。いや、王国とは文字通り名ばかりの化物集団だ。カルエナという魔術師とそれによって生み出された狼の化物”ウルフェン”と熊の化物”グリーズ”。それらの進撃によって一時はこの森もアルスフェイト王国も窮地に立たされたが、何とか撃退することができた。
それ以来、最近よくこの木に登ってあるものを見ている。彼女らの安全を見守っていると言えば聞こえはいいが、実は自分が安心したいだけなのかもしれない。
俺は木から降りて自分の住処に戻ろうとすると、茂みから二匹の狼が顔を出した。ルーとリコスだ。二匹とも俺を心配して後をついてきたのだろう。二匹とも俺を慕ってくれているし、血の繋がりはないが俺の妹と弟のようなものだ。
「ベス。何を見ていたの?」
「最近よく来てるね」
二匹の言葉に俺は「まぁな」と言ってはぐらかした。人間には狼の鳴き声にしか聞こえないだろうが、俺には二匹の言葉が分かる。それは俺が狼に育てられたことと、今のこの体が関係しているだろう。
俺にも人として生活していた時期がある。
もう記憶は微かになってしまったが、今思い返すと父親と呼ばれるべき人間と母親と呼ばれる人間と、もう一人俺より小さな人間がいた。父親と呼ばれる人間は程なくして死んでしまい、俺が残った家族を守らなくてはと思ったものだ。その自分がまさか狼に襲われて家族から離されるとは思ってもみなかったが。幼かった俺はここで死ぬのかどうかさえ分かっていなかったが、きっと殺される直前ではあっただろう。そんな俺を守ってくれたのが、その後俺を育ててくれた狼だ。
俺を襲ったのはまだ若い狼で、掟というものを理解していなかったらしい。狼は縄張り意識が強い動物だが、この森で生きている以上共存関係も大事にしている。特に知能を持った人間相手ならなおさらだ。自分たちの生活空間を脅かしてもいないのに一方的に襲うとなると、いずれ全面的な戦いになりお互い壊滅的なダメージを負う。俺を襲った若い狼は、俺の母親と呼ばれる人間にそんな力はないと思って襲ったのかもしれないが、俺を守ってくれた狼はそのような例外は一切認めなかったらしい。群れの長に近いその狼に反論できるものは誰もいなかったという。
しかし一度奪ってきたものをまたおめおめと元のところに戻すのも狼の沽券に関わる。故に俺はそのまま狼の群れの中で育っていった。その時の俺は生きることに精一杯でよく分かっていなかったが、かなり時間が経ったあとにその事を理解し、そして俺を守ってくれた狼に謝られた。その時にはもう狼の群れの中で自分の立場を定めていたし、みんなに守られている感覚もあったので恨むことはなかった。
そしてその守ってくれた母親のような狼は今でも俺の中で生き続け、群れを守り、この森を守る精神は俺がしっかり受け継いでいる。
俺はルーとリコスの頭を撫でた。今ではこいつらが俺の一番身近な家族だ。先の戦いで仲間を何頭か失ってしまったが、こいつらを守れたことは不幸中の幸いだった。
そしてあの家族も。
俺は振り返り、木の上から見ていた光景を思いに描いた。家族が二つあるというのは妙な感覚だが、守るべき大切なものが多いというのはいい事だろう。
俺は二匹の頭をポンポンと叩いたあと、一気に走り出した。
安心したついでにちょっと遊んでやろう。追いかけっこはこいつらが一番好きな遊びだし、それに最近俺のスピードについてきつつある。ここいらで一度力の差を見せつけておいてもいいだろう。木の枝を潜り、倒れた大木を飛び越え、岩を足台にして跳躍する。流石に四足の彼らの方が直線的には早いが、その分俺はクイックに方向を変えて追跡を振り払う。俺たちの住処までに俺が追いつかれなければ俺の勝ち。
しかし俺は急停止して木陰に隠れる。嫌な気配を感じたからだ。ルーとリコスも俺の変化に気づいたらしく、俺の足元で耳を立てる。しかし二匹が気配を探っている時には、向こうもとっくに気配を消している。危険察知能力の方は彼らより俺の方が上のようだ。しかし向こうもまったく動く気配がないということは、きっとこちらの気配に気づいているのだろう。俺はルーとリコスにここにいるように指示し、そして少しずつ距離を縮めていく。俺が移動を始めたのに気づいた向こうもこちらに近づき始めた。
まだ姿は見えないが、移動の気配から情報を最大限に収集し分析する。微かに聞こえる足音から相手が二足歩行であること、そしてそんなに大きな体ではないことが分かる。その情報から、俺はますます嫌な予感がした。相手は大方予想がつきその相手ならわざわざ隠れる必要はなかったが、今の俺はあまりあいつとは会いたくなかった。だから俺はルーとリコスの元に戻ってルートを変えようと引き返した。しかしそうして歩いだした途端、相手は一気に間を詰めて俺の前に現れた。
そして振り向いた俺の視線を掻い潜るように背後に回り、俺の脇腹に木の棒を当てる。
「ベス。これがナイフだったらあなたは死んでいるわよ」
そう言って不敵に笑ったのは、赤いずきんを被った少女。こいつは自分で自分のことを可憐などと言っているが、俺からしたらそんな片鱗は欠片もない。野蛮で攻撃的な女だ。
こいつは持っていた木の棒をルーとリコスに見せたあと遠くに投げ飛ばした。こいつはルーとリコスを犬かなんかかと勘違いしているのではないだろうか。
もちろん二匹は棒を取ってくるような馬鹿な真似はしない。
「何で俺を殺すんだよ」
俺は吐き捨てるように言った。
「殺しはしないわ。でもこの森を縄張りにしているなら、ちゃんとしてもらわなきゃ困るのよ」
先の戦いではこの目の前の小娘の力はとても大きかった。こいつの力がなければ、俺一人では撃退することは難しかっただろう。俺と小娘が一時的に協力し合って何とか退けることができた。それができたのは俺がただの人間ではないからだ。そしてただの狼でもない。俺も魔術師カルエナによって生み出された狼の化物”ウルフェン”だから。
この小娘がこれほどの力を持っている理由は知らない。
何にせよ、カルエナを撃退した今、狼の群れを従えてこの森を自分の縄張りと言って憚らないのならしっかりしろという事だ。だがそんな事は言われるまでもない。今回はたまたま後手に回ってしまっただけだ。ルーとリコスに気を取られてしまっていた。こいつらをこの小娘に会わせたくなかったから、こいつらを誘導することに気を回しすぎてしまったのだ。この小娘は以前に俺たち狼の群れを襲って好き放題にした前科がある。カルエナとの戦いの時は協力し合ったが、まだ信頼したわけでも心を許したわけでもない。今だってこの小娘は俺たちの天敵だ。
「お前に言われるまでもない」
「そうなることを願うわ。ところでこんなところで何してるのよ。あなたたちの住処は逆の方じゃない」
「俺たちがどこで何をしようが勝手だろう」
「そうね。じゃあ頼んだわよ」
そう言って小娘は背中を向ける。
「ねぇあなた」
「なんだよ」
「レシュノルティアっていう花を知ってる?これから咲き始める小さくて青い花」
そう聞かれて俺はぐるっと森を見回す。青い花なんていくらでも見るが名前までは分からない。それにこれからの時期は花の季節じゃないだろう。
「これよ」
そう言って小娘はエプロンのポケットから一輪の青い花を差し出した。たまに群がって咲いているのを見かける小さい花だ。これからの時期ということはこの花は冬を越すのだろうか。小さいのに強い花だ。
俺がその花を受け取ると何も言わずに歩いて行ってしまった。
まったく、これがなんだって言うんだ。
しかし小娘は数十歩行ったところで止まった。
今気づいたが、手には何やら袋を持っていた。匂いから察するに動物の肉だろう。兎か羊か。この狼がウロつく森の中で無防備に肉の袋を持って歩けるのはあの小娘ぐらいだ。
「あ、そうそう」
わざとらしく言って小娘は横顔だけ向ける。
「あの”ウルフェン”になった子もそのお母様も元気よ」
それだけを言って小娘は走って行ってしまった。
やっぱり俺はあの小娘が嫌いだ。
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