レシュノルティア 2-1
これから寒い時期になると肉料理が増えてくる。そうなるとどこの店もいい肉を揃えてくるがそのぶん高くなる。だからまだいい肉が出揃っていないこの時期に行けば質は劣るが安い肉を買うことができる。今まで肉料理など滅多に食べてこなかった私たちには、そんなに贅沢な肉はいらない。それに味の方は自分の腕でカバーすればいい。そんな感じで昨日は多くの肉を買ってきてしまった。
珍しい肉にも興味をそそられたが、倹約しなければならない身としては、安い肉をさらに値引きして買うしかない。肉屋の店主と交渉した結果、鳥と兎、そして少量の羊の肉に加えて人気のない狸の肉も一緒に買うということで合意した。予算よりちょっと出てしまったが、その分大量の肉を買うことができた。差し引きで考えればいい買い物をしたと言えるだろう。
そして私は、朝食の片付けのために台所に立ったついでにその肉の仕込みを行う。羊の肉を今日と明日で食べられる分を別にしてあとは保存しておく。保存といっても家に置いておくにしてはまだ時期的に早い。もう少し寒くなるまで待たないといけないだろう。でもこの時期にここまで大量の肉を買うことにしたのは、いい保管場所を見つけたから。家から北に少し行くと洞穴があり、その中なら日中でもかなり寒い。そこに布で包んで置いておけば腐ることもなく保存できるだろう。
もちろん野生動物に食い荒らされないようにしっかり埋めておき、さらに強い香りのするハーブを置いておく。これなら動物も近寄ってこない。狸の肉は燻製にする。味は良くないが、本格的な冬になって肉が手に入らなくなった時にはひもじい口のお供になってくれるだろう。
燻製は午後にやるとして、とりあえず今日の夕飯の下ごしらえをする。うちは香辛料に事欠くことはない。昔から懇意にしている行商人のガーブが半年に一度ぐらいの周期でうちに香辛料を売りに来てくれる。名前だけ聞くと燃える山を越え、死の谷をくぐり抜けてきた百戦錬磨の屈強な行商人を連想するが、その実二十代半ばの優しい青年だ。ガーブにそのことを話すと、この名前を上手く利用できることもあれば邪魔になる時もあると言っていた。
彼とはまだ駆け出しで得意先がない頃からの付き合いだ。その頃は早く儲けが欲しくてこんな一主婦のところにも回ってきてくれたのだろう。私も、香辛料は必ずガーブから買うという約束をして、その分安く売ってもらっていた。行商人にとって固定客がついて必ず儲けが見込めるというのは重要なことだろう。その相手が町や村ではなく一個人だったというところに、駆け出しの行商人ゆえの経験不足があったかもしれない。
それでもそれ以降、ガーブが成長して今ではアルスフェイトの立派な商会とも取引するようになっても、私たちのところにも必ず来てくれる。そこで私は半年分の香辛料を買う。ついでに彼が行商中に見つけた珍しいものも、興味があれば買ったりする。ジョアナが産まれてからは、ジョアナの成長に合わせて靴や本を持ってきてくれたりもした。ジョアナの分はお代はいらないというので、なんだか半年に一回顔を見に来る従兄弟のお兄さんのような感覚だ。
そのガーブがそろそろ来てくれる時期となる。今家にある香辛料も残り少ないが、遠慮なく使ってしまっても大丈夫だろう。前の家が壊されてしまい、台所周りは比較的無事だったとはいえ食材も香辛料も食べられなくなっているものが少なからずあった。だからガーブの訪問まで足りるかと思ったが、どうやら大丈夫そうだ。
しかしガーブが家に来るとなれば別の問題が生じる。それはジョアナの姿だ。何がどうなったかは分からないが、ジョアナの体は方から手首に至るまで、そして背中一帯と腿から脛辺りまでが狼の毛で覆われている。そして頭には狼の耳。到底、人の姿とは思えない。それでも性格はジョアナそのものだし、私の娘であることには変わりはない。言うまでもなく今のジョアナも私は心から愛している。しかし人にその姿を見せることは憚られる。
ジョアナはガーブに懐いている。それはもう本当の兄のように。だからジョアナをガーブに会わせないというのは難しいだろう。ガーブだって気にする。だからジョアナにしっかりと着込ませ、そして帽子を被せておく。冬も近いこの時期ならもう長袖を着ていても不自然はないだろう。セーターを着せておけば、仮に抱きしめられても毛の感触は判別できないはずだ。
そしてジョアナには、誰が来ても自分で扉を開けないように言ってある。家の中ではセーターも着ておらず帽子も外していることがある。この家によく来るのはジョアナの姿を知っているずきんちゃんぐらいしかいないが、万が一ということもある。その時にジョアナが準備をする時間が必要だからだ。
それにそろそろガーブも来る頃で、そのガーブだっていつも一人とは限らない。たまに旅の連れを連れていることがある。ガーブのことは信頼しているが、連れも信頼出来るかどうかは分からない。世の中には異形の者を見たときにそれを見世物にしようとする者、悪魔憑きと言って教会に密告する者がいることを知っている。ジョアナを守るためなら、どんなに警戒してもしきれない。
それなのにジョアナはまったく注意力や警戒心が足りない。私が台所に立っている後ろをすり抜けて玄関の扉を開けてしまった。
「ちょっ!」
と私が注意しようとしたが、その声はジョアナの「ずきんちゃん!」の声にかき消された。私が包丁を持ったまま玄関に行くと、そこには赤い洋服に白いエプロン、そして頭にトレードマークの赤い頭巾を被った女の子が立っていた。
「あら、キャンベルお母様。包丁なんて持ってどうされました?」
ずきんちゃんがいつものように礼儀正しく、そして少し上品にそう言った。この子は森で育ったのに、どこかのお嬢様のような佇まい、そしてどこかの令嬢のような喋り方をする。こんな喋り方をどこで覚えたのだろうか。いや、きっとずきんちゃんのお婆様の教育が良かったのだろうが、そのお婆様は一体どこの方なのだろうか。教育熱心で知識人で人格者であることは覚えているが、そんな方がこの森で女の子と二人で暮らしている理由は分からない。でも今となっては直接聞くことも不可能だ。お婆様は先日亡くなってしまったから。
「お母様。ここに来る途中に綺麗な花を見つけましたわ。よかったらどうぞ」
ずきんちゃんがエプロンのポケットから小さな花の束を差し出してくれた。さながらブーケのようだ。
「わぁ、キレイー」
ずきんちゃんから花を受け取った私の手を、ジョアナが無理やり下げて自分の目線まで下ろす。
「ジョアナの好きな青色よ」
レシュノルティアだ。ちょうどこれから咲き始める花だ。花びらの内側が白く先端が青い可愛い花。
「ありがとう!ずきんちゃん!」
そう言ってジョアナは私の手から花を取って台所に持っていった。私がいつもしているように、コップに水を入れて花を飾っておくのだろう。
「ありがとうね、ずきんちゃん。私もあの花が大好きなの」
「そうだったんですか」
「ええ、小さいのに寒さに負けずに強く咲き続けるところとかね。今度咲いてる場所を教えてくれる?」
私はジョアナを見ながら言った。体は丈夫になったが身長は年相応に小さいままだ。台所にも必死に背伸びをして手を伸ばしている。ジョアナが花を生けようとしているのはできれば使って欲しくないコップだったが、それはまた後で交換すればいいだろう。
「はい、分かりました。また家に来るときにも持ってきますね」
「ありがとう。あともう一個はお婆様に?」
私はエプロンのポケットに残ったもう一個のブーケを見て言った。歩いている間に形が崩れてしまったようだが、ずきんちゃんはもう一度ブーケを一輪の花で縛り直して整えた。
「……はい」
ずきんちゃんが優しく微笑んだ。
ずきんちゃんのお婆様はこの家の南側に埋葬されている。ここは元々はずきんちゃんの家だから何ら不思議はない。立っているのは木の立札だけだが、それでも私は毎日それを綺麗にして花を添えている。でもずきんちゃんからの花なら何よりも喜ぶだろう。
お婆様のお墓に花を添えたあと、三人でお茶をした。
「お母様、料理の途中でしたか?」
台所で調理途中になっている肉を見てずきんちゃんが言った。
「いいのよ。後でやるから。少し持って帰る?」
「え、いえそんな…」
「いいのよ。少し多めに買っちゃったから」
「……うん。じゃあ少し」
ずきんちゃんが少し考えたあとに返事をした。もしかしたら肉料理を作る計画でもあったのかもしれない。
「でもあの肉はジョアナのためなんじゃないですか?」
ずきんちゃんがジョアナの頭を撫でながら言った。ジョアナの耳がくすぐったそうに動いている。
まさか自分の娘がこんな姿になるとは思わなかった。
もちろんジョアナが何らかの障害を持ったり、病気や事故で介護が必要になったり、もしくは至極一般的な成長をして反抗期になって私を嫌いになっても、私は何があろうとジョアナを愛そうと決めていた。
どんなに好きで大切に思っていても愛情を伝えることができなくなる、自分の腕の中から逃れていってしまうことがあることを私は痛みと共に知っているから。
ジョアナもそうなりかけた。でも今は目の前にいる。ちゃんと私の娘として。想像していた未来よりずっと変わってしまったけど、これはこれでいいものだ。ジョアナが元気ならそれでいい。
それにジョアナがこの姿になっていいこともあった。行動範囲を少し広げられた。今までは家の周辺数百メートルぐらいしか出ていけなかったが、最近はもう少し足を伸ばせるようになった。ジョアナがこの姿のおかげなのか、動物たちが自然と私たちを避けて行ってくれるのだ。少し複雑な気分でもあるが、安全が確保できるならいいだろう。
森でのジョアナを見ていると、本当に変わったのだと思う。以前から元気な子であったが、今は森中を走り回り木から木へと飛び移ったりしている。しかしどんなに体は丈夫になり怪我の治りも早いといっても、危ないことをされては心配するというのが親というものだ。
ちなみにジョアナにその気があるのかどうかは分からないが、動物を獲ってくることは絶対禁止にしている。人は動物の命をいただいて生きるものだし、現に今日だって殺された羊の肉をいただく。もしかしたらジョアナも大きくなれば自分で狩りをするようになるのかもしれない。しかしまだ小さい子供のジョアナが命を奪うことを覚えなくてもいいと思っている。それは大人になって必要があればすればいいことだ。だから今は貧しくても肉は店で買うようにしている。
「いいのよ。ちょっと多く買いすぎちゃったから」
私はジョアナの耳に注目しながらずきんちゃんの質問に答えた。確かにジョアナはこの姿になってから肉を食べる量が少し増えた。でも今回はサービスに乗せられて買いすぎた。
「でもジョアナも大きくなってますね。前より会う機会が減ったから余計にそう感じるのかも」
「そうかもしれないわね。でも遊び盛りでいろいろ覚えて大変よ。あ、そういえば!」
そう言った私の声色の変化にジョアナが反応する。私がこのトーンで話すときは大抵ジョアナが怒られる時だ。
「勝手に玄関を開けちゃいけないって言ったのに開けたわね、ジョアナ…」
私との約束の中でもけっこう重要なものだったのに、ジョアナはそれをあっさりと破った。
「…だってずきんちゃんだったんだもん」
「たまたまずきんちゃんだったから良かったけど、他の人の可能性だってあるのよ」
「足音で分かるもん」
そう言ったジョアナの耳は相変わらずピクピク動いていた。確かにこの耳になってからジョアナの聴力は数倍に上がった。足音だけで誰が来たかが分かるというのもその通りなのかもしれない。
でも…。
「でもお母様の言うことは聞かなきゃダメよ、ジョアナ」
私が言いたいことをずきんちゃんが言ってくれた。ジョアナの耳がしょぼんと伏せる。ジョアナがこの耳になってから、ジョアナの感情が以前より分かるようになった。言葉や表情では今でも必死に本心を隠そうとすることがあるが、耳はどうしても抑えが効かないらしい。
「うん…」と小声で言うジョアナに、これ以上の追求はやめておいてあげた。
「ところでずきんちゃん。今日はなんのご用で?お婆様のお参りに?」
「あ、いえ…」
そう言ってずきんちゃんは椅子に座り直して私の顔を見た。私たちにとっても重要なことなのだろうか。
「前の家の周りに巡らせていた柵をこの家にも作ろうかと…」
ずきんちゃんの言葉に私は一瞬なにを言っているのか分からなかったが、すぐに合点がいく。そういえば前の家には大きな柵を巡らせていた。
ここのところは生活が目まぐるしく、そんなことを気にする暇がなかった。家の窓から見える景色がとても綺麗で近くに見えるなとは思っていたが、それはただ単に家が変わったからだと思っていた。しかしそれは他の理由だった。そう、綺麗な景色を遮る柵がこの家にはなかったのだ。でも私の中では今でもこの家はずきんちゃんの家という認識がある。ずきんちゃんの家なら柵がなくて当然だ。だから全然気にしていなかった。
「そっか…。そういえば無かったわね」
私のこの言葉にずきんちゃんは少し面を食らったような顔をしていた。
「ええ……。あの、それで、お母様がまた柵を巡らしたいと思うなら、前の家から使えそうなものを持ってこようかと思うのですが……」
「んー。いいわ、別に。この家の窓から見える景色が気に入っているのよ。それを遮りたくはないの」
「え?本当に……いいんですか?」
ずきんちゃんが心配しるのも分かる。確かに以前は外に出ることにかなり過敏になっていた。特にジョアナが出ることは。
でも今はそうでもない。今回の一件で私の中で確実に変わったものがある。
「ずきんちゃん。私がどうして前の家に柵を巡らしたか、話してもいい?」
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