第5話

 私は走ってキャンベル家に向かった。

“ウルフェン”と戦っているうちに方向感覚を見失いどちらがキャンベル家か分からなくなったけど、風の向きを確認して修正した。この森には独特の風が流れる。その流れで今自分がどの方角に進んでいるか大体分かるのだ。それさえ分かればあとは知った森の中だ。見慣れた風景に出れば問題ない。

 少し木々が開けた場所に出たところで、走りながらふと空を見上げた。鳥が飛んでいる。さして娯楽のない生活をしていると、空を見上げる機会も増える。ジョアナと一緒にいるときは、よく二人で空の雲を数えたり形を例えたりしたものだ。

 しかしその時に鳥を見かけることはなかった。

 もちろん森には鳥はたくさんいるが、あそこまで上昇できる鳥は稀である。それがここ最近はよく見かける。なんとなく嫌な感じがする。なんとなく見られているようで。でも今はそんなことを気にしている時間もない。

 通い慣れた道に出た私は、スピードを上げた。


 もうすぐキャンベル家というところで悲鳴が聞こえた。ジョアナの悲鳴だ。

 私は汗が一気に冷えるのを感じながら森を駆け抜けた。森が開け柵に囲われた先に見えたのは、ジョアナが何者かから逃げるように走っている姿だった。

「ジョアナ!」

 その瞬間私は一気に加速し、そのスピードのまま斧で柵の入口部分を斬り体当たりするように庭に入った。

「ずきんちゃん!?」

 びっくりしたようなジョアナの声が聞こえたが、入口を壊してしまったことを謝ってる暇はない。

「ジョアナ!」

 私はジョアナの手を取り、グイッっと懐に引き寄せるようにしてジョアナを守り斧を構えた。あまり戦闘モードの私をジョアナに見せたくはないが、この際は仕方がない。ジョアナがいる以上、長引く戦闘は禁物。相手を認識した瞬間仕留める。


 しかし目の前には何もいなかった。

 横か、上か。

 私は視界を巡らすのと同時に全神経を集中させてどんな動きも逃さまいとした。しかしそれでも何もいない。

「ず、ずきんちゃん?どうしたの?」

 いきなりたぐり寄せられて、しかも思いっきり抱きしめられたジョアナは少し苦しそうだった。

「ジョアナ!大丈夫!?」

 斧を構えたままジョアナの顔を見る。当のジョアナは少し戸惑っているような顔だ。

「私は大丈夫だけど……あ!お布団!」

 そう言って私の手から離れていったジョアナは、風に飛ばされ柵に引っかかっていた布団を拾い上げた。

「布団……?」

 私が戸惑っていると、後ろからジョアナのお母様が来た。

「ジョアナ。布団に追いつけた?……あら、ずきんちゃん。来てたの?」

「……はぁ」

 普通のテンションのお母様にも少し戸惑う私。

「ママ、お布団また汚れちゃった」

「まぁしょうがないわね。また洗いましょう。これだけ風が強ければ……あら、入口が壊れてる……」

 お母様は私が斬り壊した柵の入口に目をやった。私は入口の扉部分を斜めに切るようにして斧を振るい、扉と裏の棒の鍵を同時に壊してさらにそこに体当りして中に入った。だから現在扉は半分だけぶら下がり、もう半分は地面に散らばっている。

「ご、ごめんなさい。私がやったんです。私はてっきり……」

 私はようやく勘違いに気がついた。ジョアナが逃げるように手を伸ばして走っていたのは、飛んでいってしまった布団カバーを追いかけていたのだ。悲鳴も布団が飛ばされたときのものだろう。変な条件が重なってしまい、私は大いなる早とちりをしてしまったらしい。

「す、すぐに直します……」

「ママー。なんかぶどうの匂いがする」

 そういうジョアナの方を向いたら、顔がうっすら紫色になっている。私が抱き寄せた時に、私が被ったぶどうジュースが移ってしまったのだろう。

「ごめんなさい。それも私のせいだわ」

「そういえばずきんちゃん、ひどい格好ね。大丈夫?」

 言われてもしょうがない。“ウルフェン”と戦ったせいでところどころ傷と泥が着いてしまっている。そして洋服からエプロン全体にぶどうジュースの紫のシミ。でもそのまま言う訳にもいかない。いつかは説明して警戒心を持ってもらう必要もあるかもしれないが、状況がはっきりしない今はまだ早い気がする。

 私は「途中で転んじゃって」と言ってその場を収めた。

「そうなの?じゃあウチでお風呂に入っていきなさいな」

「ありがとうございます。でもその前に入口を直します。きっと汗もかくと思うので」

「わかったわ。じゃあその間にお風呂を沸かしておくわね」

「じゃあ私はずきんちゃんを手伝うね」

 お母様は完全に納得された様子ではなかったけど、布団を持って家の方に入っていった。

 ジョアナは嬉しそうに私の横に立っている。昨日来たばかりだから、私がまた今日も来るとは思わなかったのだろう。

「じゃあジョアナ。道具と木を取りに行きましょうか」

 この家の倉庫には以前に柵を作った時の残りの木が残っているはずだ。一緒に釘や金槌、補強のためのロープをもって入口を直し始めた。私が作業をし、ジョアナが必要なものを手渡す係。

 実際一人でもできるが、今は目の届く範囲にいてくれる方が安心する。


 入口部分だけだったのですぐに直り、そのまま柵全体を見て補強の必要なところはないか調べて回った。

「ジョアナは壁の向こうにある町に行ったことはある?」

 私は手を繋いで一緒に歩くジョアナに話しかけた。

「んーと……、二回」

「そう。ジョアナは町に住んでみたいと思う?」

「うんん」

「……なんで?」

「だってここにはママもいるしずきんちゃんもいるし、リスもウサギもいるから」

「ふふ、そっか」

 ……リスもウサギもいるということは狼もいるということだ。私はいずれこの森を出ようと思っている。しかし唯一気がかりなのはキャンベル親子だ。だから二人が町に住んでくれれば、私は心置きなく森を去れる。

 しかし町で暮らす権利を得るにはお金が掛かる。今のキャンベル家にそれだけの蓄えがあるかと問われれば答えに窮する。私が代わりにお金を工面することはできるが、それを受け取るお母様ではないだろう。

 それ以外の方法といえば、私と一緒に森を出ることか。私の行った先が安全な森という保証はどこにもないが、少なくともこの森よりかは安全だろう。心配なのは、この森を抜けるまで狼もしくは”ウルフェン”からこの二人を守れるかだ。

「ジョアナは狼って見たことある?」

「んー、ない……。でもママは怖い動物だって……」

「そうね。絶対に声をかけたり近寄ったりしちゃダメよ。すぐに隠れるの」

「隠れるの?」

「そう。狼がいなくなるまで静かに隠れてるの。いい?」

「……うん」

 この親子なら、もし狼に見つかればひとたまりもないだろう。だから慎重に行動しなければならない。しかしジョアナはあまりピンときてない様子だ。それもしょうがない。狼を見たことがないのだから。

 でも『しょうがない』ではこの森では生きていけない。私はジョアナの前に回り込み、両手を握る。

「ジョアナ。吠えてる犬は怖い?」

「……うん。ちょっと怖い」

「狼っていうのはね、姿は犬に似てるけどその犬をもっと怖くしたものなの。だからね、十分気をつけて狼に会わないようにしなきゃいけないのよ」

「うん。分かった」

 私はたまらずぎゅっとジョアナを抱きしめる。

「約束して。お願いよ」

 私の早とちりだったとはいえ、今日初めてジョアナを失う恐ろしさを知った。普段から警戒心を張り巡らしている私はあまり勘違いをすることがない。その私があそこまで取り乱してしまった。あの時は本当にジョアナしか見えていなかった。きっと私は自分が思っている以上にジョアナを大切に思っていたのだろう。

 この子を失いたくない。

「うん。分かったよ、ずきんちゃん」

 ジョアナも不安な表情で私の背中に手を回す。その手はとても小さかった。


 その後お風呂に入れさせてもらい、その間に洗ってくれた私の服が乾くまでジョアナと一緒にお昼ご飯を食べた。“ウルフェン”との戦いですっかり忘れていたが、時間はもう1時になろうとしていたからだ。お腹も空いていたのでしっかりいただいてしまった。


 ジョアナがトイレで席を外した時に、私はお母様に話しかけた。

「お母様。お母様たちは町に住むつもりはないんですか?町の方が安全だし、物もいっぱいあるし」

「そうね。でも町で暮らすにはお金がかかるから」

 この返事は分かっていた。分かっていて質問したのだ。ちょっと意地悪だったかもしれないが、それでもキャンベル家には町に住んでほしかった。

「物を売ればいいですわ。最低限必要なものだけ残して、あとは売ればお金になります。そして二人で質素に暮らせば、きっと町でも生活できます」

「無理よ。今でも必要最低限で生活してるんだから」

「じゃあうちで使わなくなったものもあげます。野菜もたくさんあるのでいいお金になると思いますよ」

 森を出るつもりでいることはお母様にもまだ言っていない。でもそうなればあの家もろともあげてもいいぐらいだ。

「ありがとう。でもね、私はこの家から離れるつもりはないのよ」

 どうして……、とは言えなかった。お母様のなんだか悲しそうな横顔が、私の言葉を遮らせた。あんなに高い柵を作って狼に怯えながらもこの家に留まる理由とはなんだろう。そんなに悲しい顔をしながらこの森を見つめるのはなぜだろう。

「ずきんちゃんがもし町に住みたいと思うなら、私たちのことは気のせずに引越してくれて構わないわよ」

「あの、私は……」

 私の考えを見透かされたようで、一瞬ドキッとした。

「もしもの話。でも覚えておいて。私だって薪割りはやったことあるし、女二人だもの。そんな贅沢しなくても暮らして行けるわ。私たちだけでもちゃんと生活できるから」

 逆に気を使われてしまった。でもあんな顔を見せられた後では何も言えない。ジョアナが戻ってきたところでこの話は自然に終わった。


 暖炉の火で乾かしてもらった服を着て私は帰ることにした。おばあさまも待ってる。

「じゃあまた」

 私は言葉少なめにキャンベル家を後にした。


 キャンベル家がこの森に残るなら、私も残るべきなのだろうか。私がキャンベル家と一緒に住めばいいのかもしれない。でもそれはできなかった。私の手も多くの命を奪った血塗られた手。そんな人間がキャンベル家に入ってはいけない。ならば今までどおりあの家に住み続けるか。

 しかしこの先ずっと”ブルートウ”との殺し合いが続くのなら、私は正気を保つ自信はない。

 私はブルッと震える。

 キャンベル家が町に住んでくれたなら。でもお母様のあの表情を見てしまっては、無理強いをすることはできない。きっとお母様は私より辛い経験をしている。それでもなお、いやそれだからこそこの森に残るのかもしれない。

「ずきんちゃーん」

 私が直したばかりの入口の前で立ち尽くし考え込んでいると、後ろからジョアナの声がした。振り向くとジョアナが赤い布を持って走ってくる。私は思わず頭に手を当てた。やけに寒いと思ったらずきんを忘れていた。

「ずきんちゃん、忘れ物」

 私はジョアナに赤いずきんを手渡され、早速それを頭に被った。

「うん」

 ジョアナが満足そうに頷く。

「ジョアナ……」

 私はジョアナの手を取る。

「お母様を守ってあげてね」

 そう言われたジョアナは何のことだか分からない様子だったが、それでも自分の母親を守るのに迷いはない。ジョアナは大きく頷く。


 しかし私はこの一言をあとで大きく後悔することになる。

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