第3話

 ジョアナの家に戻ると、お母様が焼きたてのアップルパイをバスケットに入れていた。

「ずきんちゃん。これ、持って帰ってね」

「あ、ありがとうございます」

 お母様のお菓子は何でも美味しいので私は大好き。


 私がキャンベル家の手伝いをして、お母様が手料理を持たせてくれる。これが決まり事のようになっている。最初は申し訳なくて断っていたが、お母様が強いて勧めるので持って帰るようになった。

「本当はお金を払うべきなんだけど」と申し訳なさそうにするお母様の顔を見るのが辛くて、「それならせめて」と作ってくれるお菓子はもらっていくことにした。

 母娘の二人暮らしならお金がなくて当然だ。でもお母様はそれを言い訳にせずに、ちゃんと私の仕事に対する対価を払おうとする。私も見返りが欲しくてやってるわけじゃないし、今日の薪だって私の家の分のついでに割ってきただけなのに。でも私がお菓子を受け取る時はお母様もとても嬉しそうな顔をする。お金がなくても、しっかりした母親と可愛い娘の幸せなこの家族が私は大好き。


「じゃあ、そろそろ……」

 と、私はアップルパイをもらって帰ることにした。

「え、もう帰っちゃうの?」

 ジョアナが自分の部屋から持ってきた人形を抱きながら言った。このあともおままごとで遊びたかったのかもしれない。

「ええ。おばあちゃんが待っているんですよ。だから早めに帰らないと」

 私はジョアナの頭を撫でながら言った。

「お婆様は、あまり体調良くないの?」

「はい。最近寝てることも多くなって」

「そう。そんな時にうちに来てくれてありがとうね。早く帰って一緒にいてあげて」

「はい。じゃあ……」

 そう言って私はジョアナを見た。口には出さないが不満そうだ。確かに今日は居る時間が短かった。

「ジョアナ。また近いうちに来るわね」

 そう言うとジョアナは黙って頷いた。


 そう。私は本当に近いうちにまた来たいと思っている。あの森の気配が心配だ。この家に何かあるとは思えないが、用心に越したことはない。

 私はキャンベル家に別れを告げて、森の中を通って帰路に付いた。


 自然と早歩きになる。

 ほんの数時間前に通ったばかりなのに、なんだか違う森のように見える。怖いわけではない。ただ心臓が…、いや、心が鷲掴みにされて締め付けられるような感覚になる。

 私がまっすぐ家に向かって歩いていると、近くの茂みが揺らいだ。またたぬきかと思ったけど、今度は違う。明らかに殺気をまとっている。そんなものには気を留めずにまっすぐ帰ったほうが良かったのかもしれない。しかし私は立ち止まった。右手に持っていたアップルパイを左手に持ち替え、右手は腰に備えた鉈を抜く。

 だが茂みから出てきたのは狼だった。しかも子供の狼。子狼の視線から察するに、アップルパイの匂いにつられて出てきたのだろう。しかし、子供がいるということは近くに母親もいるはずだ。私が鉈を構えると、同じ茂みから母親が出ていた。さっき感じた殺気の主はこの母親だったのだ。私に向かってここまで強い殺気を当ててくる狼は久しぶりだ。きっと子供を守るためだろう。

 狼とはいえ、私にとっては恐れる対象ではない。今までだって何度も戦ってきたし、何度も勝っている。でも油断はできない。母親は子狼を守るためなら刺し違える覚悟で来るだろう。

 私は構えた鉈の柄を人差し指を中心にしてクルンと回転させて、鉈を逆手で構えた。

 本当は子供のいる狼を殺るのは心苦しいが、相手が向かってくるならしょうがない。


 私はまだ年齢が二桁にも達していなかったころからこんな生活をしていた。狼との命の駆け引き。殺るか殺られるか。それでもこの森で生きていくには必要なことだった。でもその頃はまだ鉈や斧は持ち歩いていなかった。固くて長い木の棒とかだった気がする。私が殺傷能力の優れた武器を持つようになったのは……。


 そんなことを考えている間に子狼がアップルパイの匂いに我慢できず近づいてきた。それに対して母狼が間髪入れずにジャンプして私に飛びかかってきた。私も地面を蹴る。が、私はまだアップルパイを持ったままだった。久しぶりの戦いの緊張感からか、置くのを忘れてしまっていた。でもジャンプしてしまった今では手放すことはできない。やむを得ず私は体を回転させて母狼を避けた。アップルパイが崩れないように、しっかり遠心力を効かせて着地する。

 このアップルパイはどうしようか。でもどこかに置いておけば子狼に食べられてしまうかもしれない。悩むが、母狼は待ってはくれない。地面に着地するとすぐに体を回転させて再び私に向かってきた。仕方ない。持ったまま応戦するしかない。

 今度はまっすぐ走ってくる母狼。アップルパイが崩れないようにするためにあまり激しく動けない私は、その場で鉈を構えカウンターで母狼の喉元を狙う。しかし母狼は恐れることなく自分から鉈に向かって牙を立て、その刃を口で受け止めた。

「……やるわね」

 私は本当に驚いた。母親とは、子供がいるだけでここまで強くなれるものなのか。

 鉈の刃をガッチリ咥えた母狼は、首の力を使って振り回す。私は放り出される前に自分から鉈を離し、後ろに引いて距離を取った。

 まさか私から距離を取ることになるとは。これも実戦から離れていたせいなのか。

「惨めね、まったく」

 そう言いながら私はアップルパイを右手に持ち替え、腰の左に掛けてあるもう一本の鉈を抜いた。

「でもありがとう。私の目を覚まさせてくれて感謝するわ」

 私は鉈を持つ左手にぎゅっと力を込める。次の一撃で必ず仕留める。そうしないと私のプライドに関わってしまう。

 私の決意を感じ取ったのか、母狼は体勢を低くしてより早く深く飛び込む姿勢を取る。逆に子狼は怯えてその場に座り込んでしまった。


 先手必勝。


 今度は私から動いた。母狼も前足で地面を駆る。

 しかし……。

 ドグンッ!

「……ッ!」

 いきなり母狼が真横に吹き飛ばされ、体を木に打ちつけた。

 一体何が……。

 私は飛ばされた母狼を目で追ってしまったが、すぐさま正面に視線を戻すとその正体を確認できた。どうやら私の悪い予感は当たってしまったようだ。

「ぐぐぐぐああぁぁぁ……」

 話すでもなく叫ぶでもなく、ただ喉の奥から絶望を搾り出すかのようなうめき声が聞こえた。

 こいつが“ウルフェン”。

 いや。正確に言うと、いま私の目の前にいるのは”ウルフェン”の失敗作。通称”ブルートウ”。そしてこの失敗作が”ウルフェン”が悪魔の所業と呼ばれるもう一つの理由。

 ベースは人間の姿だが、全体像はもはや人の形も狼の形も保っていない。人間の首から左肩にかけてが狼の頭になっているが、それはもはや生きていない。両腕は人間の腕だが、体の左半分は狼の毛で覆われており左足は狼の足。だから二足で立つことができず、人間の二本の腕と右足で地を這うように動いている。そして人間の瞳からは理性は感じられない。ただ本能の赴くままだ。

 こんなものを生み出す業が悪魔の仕業と呼ばずに何と呼べよう。

 その正気じゃない”ブルートウ”の目が私を捉えた。昔の感覚が蘇る。私は”ウルフェン”や”ブルートウ”との戦いになるとどうしても笑ってしまう。あまりジョアナには見せない表情だ。


 私が”ブルートウ”と初めて会ったのが今から五年前。私がまだ十歳のころだ。

 その頃はこの森にも”ブルートウ”が巣食っていた。おばあちゃんを守るのに必死だった私は、”ブルートウ”に怯えながら生きていた。日が落ちてからは外に出歩かないのはもちろんのこと、家の灯りも極力着けないようにし、存在が”ブルートウ”に知られないように生きていた。

 しかしある日、食料を多めに収穫していこうと森の奥に入りすぎた時に”ブルートウ”に出会ってしまった。確かに木々に覆われてて薄暗かったが、まさか昼間に活動するとは思わなかった。

 理性を失っている“ブルートウ”は、もちろん私を容赦することなく襲ってくる。当時の私は戦い方など知らなかったが、気づいた時には私の傍らで”ブルートウ”が倒れており、そして私は立ち尽くしていた。自慢の金色の髪の毛を真っ赤に染めて家に帰ってきた時、私の中で何かが弾けた。おばあちゃんが驚いて何かを叫んでいたが聞こえていなかった。


 化け物を倒すには、自分も化け物になるしかない。


 その日を境に私は自分から”ブルートウ”に戦いを仕掛けていった。おばあちゃんが心配しないように、頭にずきんを被って。最初は白いずきんだったが、やは返り血を浴びて真っ赤になってしまう。だからそれからは赤いずきんを被ることにした。そうしているうちに敵を殲滅する能力、そして斧を始めとする武器の扱いに長けるようになった。

 初めは元人間を殺すことに気が引けていたが、時経つうちに良心も痛まなくなってきた。最初は石や木の棒を使っていたが、早く確実に殺さなければならない。その頃から殺傷能力の高い刃物を使うようになった。愛用のラブリュスもその頃に旅商人から買ったものだ。

 最後と思われた“ブルートウ”を殺してからも赤いずきんを被っていたのは、自分がしてきたことを忘れないようにするためだ。いくら化け物とはいえ、元は生きていた人間で、生きていた狼だったのだ。彼らを私は殺した。自分が生きるために。

 これは忘れてはならない事実。


 そして、哀れな化け物がまた目の前に現れた。


 私を認識した“ブルートウ”が三本の人間の手足を使って猛スピードで迫ってくる。姿形は不完全だが、その力は並ではない。理性を失っている分、私はおろか自分の肉体に対しても配慮する気がない。だから手加減なしで突進してくるのだ。まだ力がなかった頃は、突進してくる”ブルートウ”を岩に激突させて倒していた。

“ブルートウ”は相変わらず聞き苦しいうめき声をあげて迫ってくる。私はジャンプして”ブルートウ”をかわす。まずは自分の間合いで戦いたい。それにアップルパイもどうにかしないと。

 私は大きな岩の上に着地した。先ほどの狼との戦いで勘は取り戻したし、過去の記憶によって緊張感も呼び戻した。もう遅れを取る私ではない。

 子狼もどこかへ行ってしまった。たぶん母親の元だろう。それならもうアップルパイを置いておいてもいいかもしれない。

 岩から降りて再び”ブルートウ”と対峙する。

「まったく、女同士の戦いに男が割り込むものじゃないわ」

 そう言って私は鉈を構える。でも女の事情は”ブルートウ”には関係ないらしい。向き直って再び私に向かってくる。身軽になった私は、カウンターをとって仕留めることにした。

 しかし三本の手足で移動しているせいで動きが読みづらい。左右に揺れながら私に迫ってくる。たぶん”ブルートウ”自身に自覚はないだろう。時々周りの木にぶつかっているから。

 でもそれが私に的を絞らせないでいる。

 そして……。


 ガシッ!

「あら……」

“ブルートウ”は素手で私の鉈を掴んできた。もちろん血が出ている。しかし理性を失った”ブルートウ”には怖いとか痛いという感覚はない。私はすぐさま掴まれた腕に蹴りを入れて”ブルートウ”と距離を取った。

「可憐な女の子にはしたない真似をさせないでしょうだい」

 私は乱れたスカートをパタパタと整える。

 また”ブルートウ”が私を探している。そして私を見つけるとフルフルと微かに震えている。この感覚を何となく憶えている。とても嫌な記憶だ。

 こんな感覚の後は大抵……。

“ブルートウ”の人間の口が微かに動いている。発する声は『をぉ』とか『あぁ』とか言葉になっていない。しかし口の動きから何を伝えたいのか分かった。

『コ』『ロ』『シ』『テ』。

 ほんのひと握りだけ残った人間の理性が死を望んでいた。以前に私が対峙した”ブルートウ”も、その多くが死にたがっていた。

 魔術が成功し完全な”ウルフェン”となることができた者は、人の理性を保ちつつ力を倍増できる。しかしほとんどは失敗し理性を失う。そうなった者は目的もなく破壊衝動を発散させる。そして今回のように微かに人の理性が残っている者は大抵死を望むようになる。

 私はその声を聞くのがとても嫌で、でも彼らの願いを叶えてきた。

「分かったわ」

 今回も、私にできるのは彼らの願いを叶えることだけ。“ブルートウ”が泣き声のような唸り声を上げながら飛びかかってきたが、私は滑り込むようにして”ブルートウ”の下をくぐり抜け、その先に落ちている鉈を拾った。母狼に弾き飛ばされた鉈だ。


 私は両手に鉈を構えて”ブルートウ”の前に立つ。

「あなたの願い、叶えてあげる」

 迫ってくる”ブルートウ”に向かって左手を振り上げる。化け物の本能がそれを受け止める。でもこれは囮だ。だから利き腕ではない左手。

「ごめんなさいね。でもこれで終わりにしてあげる」

 私は順手で持った右手の鉈で”ブルートウ”の左肩から斜めに切りつけた。嫌な感覚とともに私の鉈が”ブルートウ”の体を通り抜ける。

“ブルートウ”が叫び声をあげる。それが人として死ねないことへの無念の叫びなのか、苦しみから解放される喜びの声なのか、私には分からない。

 その声が途切れる前に“ブルートウ”は膝から崩れ落ちる。私は受け止められていた左手を”ブルートウ”から引き抜いた。


 私は赤く染まっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る