第8話 紙
窓から差し込む朝の光を受け、勇者は顔をしかめ、眩しそうに瞼を開く。
「あー。もう朝か……」
もぞもぞとベッドから這い出した勇者は、乱れた黒髪を手櫛で軽く整えながら窓を開ける。朝の爽やかな風が部屋に流れ込んだ。
隣のベッドに顔を向けると、そこには石化したままの魔王の姿。その姿に昨晩のことを思い出した勇者の顔が、見る見るうちに林檎のような朱に染まった。だが、もうすぐ彼に掛けた石化の魔法も解けるだろう。その前に彼女は、決断をしなければならなかった。
勇者は魔王の石像の前で佇むと、深呼吸をする。
今勇者がこの石像を力一杯殴れば、たちまち粉々になるだろう。そう、魔王をいとも簡単に、それこそあっさりと倒すことができる。そうすればこの世界にも平和が訪れ、自分の役目も終えることができる。今、この瞬間に、全てを終わらせることができるのだ。
だが――――。
「さすがにそれは、フェアじゃないよね……」
確かに昨晩は色々あったが、彼のおかげでベッドでゆっくり休めた事実に変わりはない。恩を仇で返すなど、彼女の流儀ではなかった。勇者は軽く息を吐いて、静かに魔王の前から離れた。
「とりあえず、鎧を洗わなきゃ」
ベッド脇に置きっぱなしにしていた汚れた鎧を、浴室へと運ぶ。水で濡らしたタオルで強く擦る度、本来の鎧の姿が甦っていく。土と魔獣の血で汚れていた鎧は、あっという間に神々しい白銀色を取り戻した。
鎧の水滴をふき取った勇者はバスローブを脱ぎ、いつもの布の服に素早く袖を通す。そしてその上から慣れた手付きで再び鎧を身に纏った。
これから魔王の城を目指す為に。
「あなたのお城で会いましょう。……一緒に踊れて、ちょっとだけ、楽しかったよ」
勇者は石化したままの魔王に柔らかく微笑むと、荷物をまとめ始めた。
「勇者ちゃんんんん! って、あれ?」
勢い良くベッドとの接吻を果たした魔王は、目の前にいるはずだった存在がいないことに首を捻りながら、キョロキョロと辺りを見回す。室内の様子はすっかり変わり果てたものになっていた。
「え、朝……? もしかして俺、何か魔法かけられちった?」
そういえば悲鳴の後に何か魔法っぽい言葉が聞こえた気がする、と思い出しながら、魔王は明るい茶髪をガシガシと乱暴に掻いた。
「まさかあの程度の魔力で魔法が発動するとか、ちょっと勇者ちゃん舐めてたわ……。声が聞きたいとか欲出さずに、封印の魔法使っときゃ良かったなー」
大きな溜め息一つ吐いて、魔王は開かれていた窓へと歩み寄った。窓から見える村の広場には、祭の片付けをしているのであろう村人が数人いるだけで、昨晩とは打って変わって物寂しい雰囲気が村全体を包んでいた。
「祭のあと――か……」
しばらくその様子をぼんやりと見つめる魔王。
昨晩初めて見た勇者。自分が想像していた姿とは全く違い、愛らしい姿の少女だった。その彼女の照れた顔、怒った顔、踊った時に感じた体温を魔王は思い出していたが、それらは全て夢か幻だったのではと、空虚な何かが彼の胸を
と、彼の鼻を擽る仄かに甘い香り。夢でも幻でもないその香りに、魔王は思わず振り返る。それは間違いなく彼女の香りだった。その香りは自分が寝るはずだったベッドからほんのりと漂ってきている。
「あー、勇者ちゃんこっちで寝たのか」
犬並の嗅覚でそれを嗅ぎ取った魔王は、頬を緩めながら鼻をすりすりとシーツに押し付けた。快楽中枢を刺激する女の子特有の甘い残り香に、魔王は堪らず身悶える。
今さら言うまでもないが、あえて断言しよう、彼は変態であると。
スーハースーハー、とひとしきり残り香を堪能した後、そこでようやく魔王はベッドの端に置かれてあったある物を視界に捕らえた。
それは小さな皮袋と、一枚の紙。皮袋の中を確認する間でもなく、それが宿代だろうと瞬時に判断した魔王は思わず苦笑した。
「宿代ぐらい男が出すってのに」
呟きながら、今度は紙を手に取る。紙の真ん中には大きな字で、一言だけが書かれていた。
『首を洗って待ってなさい!』
それって普通、
「ん?」
そこで魔王は『もう一つのメッセージ』を見つけた。
小さな小さな、それこそ蟻のような字で、何かが紙の端の方に書かれてあったのだ。魔王は眉間に皺を寄せ、目を凝らしてその文字を読む。
『ありがとう』
「………………」
宿の主人が退室の時間だと呼びに来るまで、魔王は心ここに在らずといった様子で、その小さな文字をずっと眺めていたのだった。
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