第7話 襲


「いい? この線からこっちに入ってきたら、あんたの急所を蹴り上げるからね」


 紅の瞳で魔王を睨みつけながら、二人のベッドの間を勇者はズリズリと移動していた。毛の短いベージュの絨毯につま先を強く当てることで絨毯の毛を逆立て、境界線を引いていたのだ。踏めばすぐに消えてしまう、頼りなさすぎる境界線だが。

 横向きでベッドの上に寝転がりながら、魔王はバスローブの裾から覗く白くて細い勇者の足に見惚れていたのだが、勇者がその視線に気付くことはなかった。


「聞いてるの?」

「聞いてるよ」

「そういうことだから。おやすみ」


 そう言い捨てると勇者は素早くシーツに全身を沈め、魔王に背を向ける。魔王はその背に向かって、小さな声で語り掛けた。


「俺さ、魔王なわけじゃん」

「……そうね」


 勇者は彼の言葉に振り返ることなく、背中越しに返事をする。


「可愛いお姫様とか村娘とか攫っても、それは魔王オレの仕事の一環ということになるわけじゃん」

「そう……なの?」

「だからさ、可愛い勇者ちゃんを襲ったとしても、それも仕事の一環ということに――」

「ならんわ!」


 ぼすっ! と勇者が投げた枕が見事魔王の顔面に直撃する。


「ていうか、さっきもそうだけど! あんた何言ってんの!? あっ、あたしが! かっ、かかかかかわ……!?」

「うん。俺は可愛いと思うけど」

「馬ッッッッッッッッッッッッ鹿じゃないの!?」

「うわ、今すげー溜めたね。いや、でも俺、本気で言っているんだけど……」


 投げ付けられた枕を手に立ち上がった後、少し困ったような顔をしながら魔王は勇者のベッドの端に腰掛けた。あまりにも自然な流れの動作だったので、勇者は「境界線を越えた!」と文句を言うのも忘れてしまっていた。


「だっ、第一、あんた最初に勇者を襲うような真似はしない、とか言ってなかった!?」

「俺を誰だと思ってんの。魔王だよ? 前言撤回なんて朝飯前だっつーの」

「最っ低!」


 魔王の手から枕を奪い返した勇者は、ボスッボスッと彼の頭を枕で攻撃し続ける。しかし悲しいかな、所詮は枕。その攻撃はことごとくダメージ0で、精々魔王の茶色の髪を乱すのが良いところだった。


「ご飯を食べた時の幸せそうな顔も可愛かったけど、その怒った顔もマジ可愛いんだよね」

「~~~~~~ッ!」


 ボスボスボスボスッ! と枕を叩きつける速度が急激に早くなったので、さすがに魔王も少し苦しくなってきたらしい。小さく苦笑しながら勇者の両手首を掴み、強引にその動きを止めさせる。

 両手首を握り真正面から見据えてくる魔王に、勇者は口の中だけでひぃっ、と悲鳴を上げた。今までこんなふうに男に動きを封じられたことなどなかった勇者は、どう対処して良いのか全くわからなかったのである。

 そこで突然、「閃いた!」と言わんばかりに、魔王の頭の上にピコーンと電球が光った。その顔は、悪ガキが何か余計なことを閃いた時のそれに似ていた。


「そうだ! 勇者ちゃん、俺の城で一緒に暮らさね?」

「はぁ!?」

「いや、だってあんた勇者じゃん。魔王の俺を倒しちゃったら無職になっちゃうわけじゃん? 次の就職先とか決めてんの?」

「そ、それは……」


 勇者は俯いたまま口ごもる。

 彼女は魔王を倒すためだけを目標に今まで生きてきた。それが生まれた時からの運命で、そして彼女の全てだった。その先の人生など、勇者は全く考えていなかったし、そもそも考えたことすらなかったのだ。

 勇者が魔王を倒す――。

 それは人間が息を吐くことと、鳥が空を飛ぶことと、魚が泳ぐことと同じ道理。そう、当たり前過ぎて、誰も疑問に思ったことのない程度の『アタリマエ』。

 だがそのアタリマエが消えた時、自分は一体どうなってしまうのか? 冷たい風が勇者の胸の内に吹き抜ける。


「あ、決めてないんじゃん。じゃあやっぱり俺と一緒に暮らそう?」


 その少し冷えた心に、魔王の言葉がまるでホットミルクのようにじんわりと勇者の胸に染み込んでいく。だが勇者は慌てて首を横に振った。この温もりは当てにしてはいけないものだ、幻想だと自分に言い聞かせるように。


「だから、何でそうなるのよ!?」

「いや、勇者ちゃんと一緒に暮らしたら、毎日楽しそうだなーって思ったから」

「楽しそうって――。そんなことできるわけないでしょ!? そもそもあたしは勇者で、あんたは魔王なのよ! 倒すべき相手と一緒に暮らすなんて、そんな馬鹿なことできるわけないでしょうが!?」

「俺のことを倒す、か……。そうか。そう、だよな……」


 そこで魔王の目に憂いが帯びる。その表情の変化に、勇者の心にさざ波が立った。


「あのさ……。勇者ちゃんは俺のこと、殺したいほど嫌い?」

「は!?」


 何を馬鹿なことをと言いかけて、魔王の真剣な雰囲気を感じ取った勇者は、その言葉をぐっと呑みこんだ。中途半端な言葉を吐いたら即座に斬り捨てられてしまいそうな――真剣な雰囲気を滲み出しながら、魔王はじっと彼女を見据えていたからだ。

 勇者は少し考えてから慎重に、ゆっくりと言葉を吐き出した。それは彼女の、偽らざる本音だった。


「正直に言って、あたしは今まであなたのことを、そういうふうに考えたことなんてない。魔王はあなたが倒すべき相手だとずっと周りに言われてきたから、それに何の疑いも抱くことはなかった。ただ、あたしの中に魔王あなたに対する憎しみがあったのかどうかと聞かれると、なかったかもしれない……」


 まるで生まれた時から暗示にかけられてたみたい――。

 そう小さく声を洩らした後、勇者は視線を斜めに落とす。だがすかさず魔王の指が彼女の小さな顎を掴み、強引に視線を上向かせた。


「で、実際会ってみて、俺ってどう?」

「ど、どうって言われても……。ただ、想像していたのとは全然違うなとは思ったけれど――」

「じゃあ、会って嫌いになったってわけじゃないんだな?」


 突如、勇者の視界に映る世界がふわっと傾いた。魔王が勇者の身体を強引にベッドに押し倒したのだ。驚き過ぎて手も声も出せない勇者に魔王はゆっくりと覆い被さり、至近距離で彼女の顔を見つめる。

 魔王の瞳は、海の底を彷彿とさせるような深い藍色。どこか神秘的なその瞳に引き摺り込まれぬように、勇者は自我を保とうと必死だった。

 格好も言動も軽い魔王だが、顔だけを見ると悪くない、むしろイケメンの部類に入る。勇者といえども、その素顔は普通の少女。イケメンに至近距離からじっと見つめられて、鼓動が早くなってしまうのは仕方がないことであった。


「た、確かに嫌いじゃないかもしれないけれど! でも決して好きって意味では――」

「あー……。ゴメン、もういいよ。何からしくなかった。やっぱりいつも通りにいく」

「い、いつも通り?」

「うん。俺、魔王だから。欲しいモノは強引に手に入れる主義だから」


 そこで魔王の顔がさらに勇者に近付く。互いの吐息さえ感じる距離に、勇者は内心パニックに陥っていた。二人分の重さに耐えかねたベッドが、ギシリと軋む。

 ――その音が、引き金となった。


「てわけで、いただきますっ!」

「きゃああああああっっ!? 石変キヴィ・ムータ!」


 悲鳴と共に、勇者は石化魔法を絶叫する。その瞬間、ピキリと音を立てて固まる、魔王の全身。

 そう。風呂で一息ついたことで、ほんの少しだけだが勇者の魔力は回復していたのだ。

 四つん這い状態の石像の下から涙目で何とか這い出した勇者の心臓は、全力で疾走した直後のように激しく脈打っていた。

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