過去と執着と破滅主義

 キティが消えた。

 皆が寝静まった夜に忽然と。

 誘拐や強盗の線もあるかと考えたが、争った跡はないし、キティの私物が持ち出されていただけだった。いや、違う。一つ、とんでもないものが持ち出されていた。

 アインの大剣だ。

 アインを勇者たらしめているのはあの大剣だ。人間の国では聖剣とも呼ばれているらしいアレは、今フィルの手から離れようとしない刀と同類のものだ。剣に認められた者は強大な力を与えられる。元より強い者が持てば、文字通り一騎当千となるだろう。

 それがなくなったということは誘拐の線は薄くなり、持ち逃げしたという予想が濃厚になる。

 そうなればアインを味方に引き込み、警備が薄くなるキティをこの地まで連れてきて、大剣を盗む機会を作った僕に責任がある。

 つまりは好機だ。

 キティがなんの為に大剣を盗んだのかは不明だが、そのまま雲隠れすれば僕の立場は悪くなり、それで闇討ちでもしてくれれば願ったり叶ったりだ。そうすれば、願いが叶う。あの糞ったれな男神との約束が果たされる。

 殺されることで、元の世界に戻る盟約が果たされる。

「……ご主人様、怖い顔してる」

 アインがシャツの裾を引っ張ってきた。いつも背負っていた大剣がなく、いつも眼鏡の人がいきなりコンタクトレンズに変えたような違和感があった。

「ああ、すまない。怖かったか?」

 屋敷のエントランス。階段に座り、僕は事件の行き先を考えていた。今隣にはアインが座り、心配な目を僕に向けている。壁にはヴァミとアイリが控え、指示を待っていた。

「……もう大丈夫」

 ふふ、と口元を隠してアインは笑う。

「大剣を取り戻したいか?」

「アレはいらない。欲しいならあげたのに。それにあたしにはご主人様から貰った黒い剣があればそれで満足」

「しかしそれは今はフィルの手から離れないだろう?」

「目覚ましたら返してもらう。それに黒い方は喋らないから安心する」

 まだフィルは目を覚ましていない。医者に診てもらったが吸血鬼を診断したことのある医者はおらず、いつ目覚めるか不明とのことだ。吸血鬼にとって血を流すということはそれだけリスクのある行為なのだろう。

 僕の血をさらに与えれば目覚めが早くなると思うが、それは医者から止められた。この調子では僕の方が貧血で倒れてしまうそうだと。

「どうしてキティは大剣を盗んだと思う?」

 一定以上距離を離すと大剣の方からふわふわとアインの元へと戻っていく。これはアインを初めて城に連れてきた時に実証済みだ。

「キティに懐いたからだと思う」

「ペットじゃないんだから」

 そう苦言を呈したら「恐れながら」とヴァミが会話に入ってくる。

「かの聖剣は主とする者を自ら選ぶといわれます。であれば懐いたというのは人を裏切る形となったアイン殿を見限り、我らを裏切ったキティに懐くというのもありえない話ではございません」

 懐くというのがいまいちピンときていなかった。一度僕の手から離れなくなったあの刀もおそらく同類のはずだが、懐くというよりはまとわりつくといった印象だ。

「まあ、ヴァミが言うならそうなのだろう。助言ありがとう」

「光栄です」

「さて、キティを追うか、天才どうしたものか……」

 皆が僕の答えを待つ中、来訪者がそれを打ち破った。

「なんや! 今日はえらい静まり返ってるのう!」

 現れたのはドワーフの彼だった。手には布が巻かれた細いものを持っていた。

「天才の行方について、なにか進展があったのかい?」

「せやな。その通りや。進展というよりは向こうから招待された形やけどな」

「招待?」

 そう問い掛けると、彼はジャケットの内ポケットから一通の手紙が取り出された。開封済みのそれを受け取り、中から一枚の便箋を取り出す。中には見慣れぬ名前と僕に向けて「未来の皇帝陛下へ、図書塔の最上階にて聖女と共に待つ」という言葉が添えてあった。

「ワイの家にそれが届けられた。兄貴の伝言係にさせられた訳や」

「なあ、これは誰からの手紙なんだ?」

「ライア・エオス、兄貴らが捜しとる天才くんや」

 そういう名前だったのか。

「行くんやろ?」

「ああ、聖女が誰かも見当ついているし、行かないわけにはいかないから」

「せやったらこれ持っていき」

 ドワーフの彼は手に持った細い棒を包んだ布をほどく。その中から現れたのは一振りの細身の剣だった。白木でできた鞘に収められた直剣。渡されたそれは一枚の羽根ほどの重さしか感じさせなかった。

「驚いたやろ。純粋なミスリルを抽出してできたもんがそれや。ワイは足手まといやから、代わりにそれ託すわ。……嬢ちゃんたちはそれぞれ愛用のもん持っとるから兄貴用やな」

「いや、ちょうどアインの大剣がなくなったからちょうど良かった」

「はあ? あんなデカいもんそう簡単になくなるわけないやろ!」

「盗まれた。その聖女とやらに」

「……まあええわ。ワイにはその聖女とやらは関係ない。ただワイの身内に手を出したあの糞ったれだけは許さへん。それだけや」

「その気持ち。よくわかるよ」





 階層にして三十。そのほとんどが世界中から集められた蔵書で占められた故の図書塔という呼称。それの螺旋階段を登りきった先には半楕円形の巨大な門があった。朱色で塗られたそれは僕らが近づくと自ら開き、中へと招き入れた。

「招待に応じてくれてありがとう、とでも言うべきかな」

 平積みされ、山となった蔵書が敷き詰める部屋の真ん中で、椅子に座る天才の姿があった。少し離れて本の山を椅子代わりに、大剣を背負ったキティが控えていた。

「失せ物を取りに来ただけだから無用だ」

「それだけじゃ建設的じゃないだろう。どうして失くす羽目になったのか話し合いでもしながら茶を楽しもうぜ」

「男と茶を楽しむ趣味はないな。キティ帰るぞ」

 当然のように「お断りします」という返答があって、理由も一緒に添えられた。「ライアと一緒に世界から争いをなくす」という僕の願いとどんぐりの背比べみたいなものだった。つまりは神様の力を借りなければどうしようもない類のものだ。

「正気かい?」

 そう問うと天才が「俺たちはいつだって正気ではいられないだろう」と橙色に変色した瞳を煌めかせた。

「……魔人だったのか」

「昔は常に飢えていたから魔人としての能力は欠け落ちているから期待するなよ」

「執着は世界平和か?」

「そうだぜ。争いをなくす、それが俺の全てだ」

 全て。そう、魔人にとってはそれが普通。執着に、固執し、傾倒し、貫徹する。吸血鬼が他者から血を分けて貰わねば生きられぬように、それが魔人が魔人であるが故の切り離すことができない特性であり、アイデンティティなのだ。

「殿下、アンタの執着はどっちだ?」

 そこまで知られているのなら隠す必要もあるまい。

「天才なんだろ。最後の二択ぐらい、当て推量でも口にしてみるべきじゃないか」

 けれどわざわざひけらかす必要もない。

「その証明には根拠が足りない。だから一つ試させてもらうぜ」

 そう言って天才は胸元から注射器を投げて寄越した。

「……これはあのデュラハンが使った薬だな」

「いや、違う。あの薬は希釈したものだ。これはその原液だ。実験動物で試したら蒸発して消え果てた。魔人に試した場合はないがきっと似たような結果になるはずだぜ」

「そう言われて使うと思うのか?」

「使わなければ、殿下が懇意にしているあの吸血鬼を人間にする。……でも勘違いしないでくれ。これはあくまで善意の提案だ。吸血鬼が苦しむ原因となっている血に関する諸問題が全て解決するんだぜ」

「白々しいな」

「でも間違ってはいない」

 僕の取るべき選択は決まっている。だが、それをやる前に言わなければならないことがある。

「キティ、教師になる夢はいいのかい?」

 キティは大剣を床に突き刺し、奥歯を噛み締める。

「……世界を平和に導いたあとでも叶う夢なので、今は遠回りしてでも正義を貫きます」

 左腕を伸ばし、もう片方の腕で注射器を逆手に持つ。

「そうか。なら勝手にすればいい。僕らの袂は今、分けられた」

 突き刺し、原液を全て打ち込んだ。

 左腕の血が全て氷水に変わった感覚に襲われる。瞬きもしない間に冷気が全身に根を張るように伸びはじめ、根が通ったところから体の内側を食い破るように体が変質していく。身をもだえる痛みを覚える。そのうち、痛みという感覚さえなくなるのも近い。神経を蝕むものだった。

 すぐに痛みを感じなくなった。それは痛みの果てにある無痛ではなく、痛み自体が消え果たことを示していた。全身くまなく張った根は燃やし尽くされ、その熱がポカポカと体を温め、下手をすれば打ち込む前よりも調子がいいぐらいだった。

「悪いな。残念ながらその類のものは一切効かないんだ。あの糞野郎が僕をそういう風にしたんだ」





 あれは僕が僕と呼称していなかった頃の話になる。

 つまりは前世の話だ。

 前世での一人称はあたし。つまりは女性だった。享年は二十六で、職業は小学校の教師だった。地方という言葉で括られる町の、過疎化と少子化で統廃合の末に残った、海が目の前にある小学校で一つのクラスを任されていた。初の担任であり、緊張もしたが、大学で得た唯一の友人であり親友でもある音無香苗も同じ学校、同じ学年で担任となった。

 碌でもない先輩やモンスターペアレントに責められても、二人で助け合っていこうと誓いあった戦友でもあった。一学期をどうにか乗り越え、二人で飲み明かした。生徒には見せられないぐらいにベロンベロンに酔っ払った。今では加護によって酔うことすらできない。

 そして、教師の目が届かない夏休み明け、それは既に手の施し様がない病巣と果てていた。

 それは教室に入ってすぐに違和感を覚えるほどだった。二人のリーダー的生徒を中心として和気藹々としたクラスだったのに、その二人が違うグループを率いて、互いのグループの生徒をイジメるようになったのだ。

 テレビで語られる言葉は「イジメ」の一言で済む。そこから導き出されるイメージも弱いものイジメが主となるだろう。だがこの学校では違った。大人の代理戦争としての権力闘争をやっているのだ。

 この町に来てから数年程度のあたしでも噂として聞いていた。この町には二つの漁業組合がある。元々一つの組合だったが、戦後まもなくもの別れして二つとなった。曽祖父の代から続く因縁が、もう争う理由など知らない曾孫たちを新たに闘争戦士として仕立て始めたのだ。

「因縁が争いを産み、それが新たに原因となるため争いは終わらない」

 負の連鎖。

 そういう表現以外に言葉が見つからなかった。

 一人では抱えきれない。そう感じ、先輩に相談したが返ってくるのは「この町で生き辛くなるから勝馬に乗れ」という教師にあるまじき指示だった。納得がいかず香苗に相談してみたら「恐怖政治を敷け」というトンデモ解決策を出された。やったらただでは済まないという意識を持たせ、損得勘定で平和を維持するのだという。

「あたしには無理だ」

 香苗とあたしでは育ちが違い過ぎた。彼女は教育一家で、人の上に立つことを至上とし、そうなれるように育てられた。対してあたしは下流の家庭で生まれた。両親の仲は悪くなかったことだけが唯一の幸福で、それ以外は食うにも困る生活を送っていた。幸い自頭の良さに救われ、返済不要の奨学金を借り、教師になることができた。恵まれた人生から作られた強気な香苗と、いつも人の顔色を見て助けを乞うてきたあたしとでは前提となる生き方が違い過ぎた。

「頭下げよう」

 この町の根深い問題に対してできることなど何もないのだ。だったらせめて子供たちを巻き込まないでと頭を下げるしかない。権力者でもない部外者ができることなどそれしかないのだ。

 生徒の保護者、しいては二つの漁業組合のトップらを集め、話し合いの場を設けた。町の公民館を貸し切り、三十畳の座敷に分かれて座ってもらった。集まり始めは違う組合でも会釈ぐらいはしたが、人が集まるにつれてそれもなくなり、睨み付け、嫌みを言い、一触即発の空気を醸造されていった。

「本日はお集まりいただきありがとうございます」

 その言葉で会合を始め、誰かが文句を発して、手がつけられなくなる前に切り出す。

「子供たちを追い込まないでください」

 彼らはどういうことだとざわつきだす。

「この町で起きている闘争に巻き込まないでください」

 そう言うと彼らは鼻で笑う。口々に俺らの頃はもっと酷かったなど、幼稚園から争ってた、今の子供は軟弱だ、などと好き勝手に自虐風自慢を始めた。

「今の子供は過保護に育てられています。表面上は大人と子供の境目をきっちり分けられているのでしょう。けど水面下では大人と子供の境界線はないに等しいのです。大人のやり口を学び、子供に対してそれを振るっても子供だからと許される」

「この町では当たり前のことだ。子供の喧嘩に親が出るもんじゃないだろ」

 浅黒く焼けた肌大柄の男が睨みつけてくる。

「イジメられているのは貴方の子供です」

 男は立ち上がり、敵対派閥に対して我が子をイジメたのは何処の家のもんだと叫んだ。それは前言を翻したものだったため失笑を買っていた。

「今笑っている貴方方のお子さんの中にもイジメに遭っている子はいます」

 これは嘘だ。いるかもしれないが、あたしは知らない。

 これで場の雰囲気が変わった。当事者になった。巻き込めた。あとは彼らの倫理観がまともかどうかに賭けるしかない。

 結果として賭けには負けた。あの後、すぐに解散し、誰も残らなかった。職場でも暗黙の了解に踏み込んだとして、腫れ物に触れる扱いになった。唯一、変わらなかったのは香苗だけだった。いつもと同じように「馬鹿なことしたわね」と笑い飛ばしてくれた。

「ま、アンタのことだからなんとかなるでしょ」

「他人事だと思って軽く言わないで」

「信用してるの。アンタの豪運を」

「あたしの豪運はそんな禄なものじゃない」

 あたしは運が良い。豪運と呼ばれる程度の騒ぎを呼び起こすぐらいには運が良い。人の運を奪っているかと錯覚するぐらいには。

「人の運なんて奪えるわけないじゃない」

 そう言って香苗はまた笑った。

 一週間と経たず、あたしの運は仕事を果たした。

 香苗が受け持つクラスで事件が起きた。

 自殺だ。

 朝早い誰もいない教室で首吊り自殺。暴力を一切交わさない精神的なイジメが発覚した。外に発覚させることを極端に恐れたものだった。彼が教室で自殺したことで、それは全国区のニュースとなった。元々大きく燃え盛っていた炎だったのに、この町の歪な成り立ち、同僚が敷いた異常な体制、それらがガソリンとして注がれ、誰の手にも負えなくなってしまった。

 小学校に押しかけるマスコミ、好き勝手に想像で騒ぎ立てるSNS、お前のせいだと責任を擦り付け合う保護者と教師。槍玉に挙げられたのはあたしと香苗。地獄絵図だった。

 社会問題として取り上げられ、連日ニュースを報じ、皆が飽き始めた頃、マスコミが新たな話題を欲し、良いニュースを流したい町の思惑が合致した。

 あたしを町を変えようとしたジャンヌ・ダルクとして祀り上げようとしたのだ。その流れをあたしが知ったのは、町の救世主となってしまった後だった。

 改革の旗印として外圧による町の改革の成功を納め、あたしは教師の鑑としての振る舞いを求められた。公演やコメンテーター、しまいには将来的に市議会議員という一方通行の道まで舗装されていた。まるでガーターが封鎖されたボーリングのレーンのようだった。

 あの学校にいた教師のほとんどが退職、県外に脱出した。香苗もあの事件を機に教師を辞め、引きこもってしまった。

 助けたかった生徒らもマスコミやネットに晒され、ほとんどが転校し、散り散りになった。しかし、転校先で事件の当事者であることが露見し、事件を引きずったという。

 あたしだけが陰りのない教師人生を歩めてしまっていた。

 いつもそうだったみんなのためを思ってやったことが、全て裏目に出る。全ての行いがあたしに収束する。そして得た実績と反比例するように周りから親しい人がいなくなるのだ。比例して増えるのはハイエナばかり。アレは人ではなく獣だ。

 最後の友であり、最後まで友でいてくれた彼女に謝らなければ。償わなければ。

 それを今生の目標とした。

 目標がなければ死んでいた。背後は断崖絶壁、後ろめたさで足が自然と下がりそうなのを、それを希望に耐えていた。

 それから何度目かの夏が過ぎ、機会が巡ってきた。奇しくも自殺した生徒の命日だった。

 あたしたちが務めていた小学校。それの前にある海岸。そこで待ち合わせた。

 その日は半年前から予め予定を入れずにいた。マネージャーはどうして駄目なのかと、この日を空けるために公演やテレビ出演をいくつも諦めなければならないと口を尖らせた。

 けれど何をするかは決して話さなかった。あの小学校の同僚に会うと言ったら、止められるに決まっているからだ。

 待ち合わせ場所には彼女が先に着いていた。喪服姿で、顔は記憶にあるものよりもやつれていた。真夏の太陽のようなジリジリとひりつく強気だった雰囲気は鳴りを潜め、雪国の宵闇を連想させた。

 その姿がどういう意味か悟り、言葉に詰まっているとあたしに気づいた向こうから話しかけてくれた。

「久しぶり。テレビで活躍見てるわよ」

「数年ぶりだね。また会えて嬉しい」

「ええ、私もよ」

 あたしたちは海岸と道路を繋ぐ階段に腰を落ち着かせ、近況の話になった。

「今何してるの?」

「家業の手伝い。教師にくらべたら気楽なものよ。そっちはコメンテーター業どんな感じなの?」

「いつも場違いだと思いつつやってるよ。なんでこんなことになったんだろうって」

「ふうん。最近はバラエティでも活躍してる先生が言うと実感が籠もってるわねー」

「こないだなんかクイズ番組で泥まみれになったよ」

「それ見たわよ。イケメンアイドルと一緒だったわね。熱愛とかしないの?」

「住んでる世界が違うよ。それにあたしはそういうのがわからないって知ってるでしょ」

「無性愛者だっけ。恋愛感情も性的欲求も持たないだよね。私からすれば博愛主義と何が違うかわからないけどね」

「博愛主義ではないよ。誰でも好きな訳じゃないから」

「そうね。貴女は人の心がわからないもんね」

 彼女は立ち上がり、あたしの手を引き、階段を降り、砂浜へと誘い、波打ち際で止まった。

「どうして今日にしたかわかる?」

 その格好から推察できた。

「自殺した生徒の命日だから」

「ええ、正解よ。あなたと袂を分ける日になった日でもあり、そして私の人生も死んだ日」

 同僚は「じゃあ」と薄ら笑みを浮かべて、さらに問う。

「会おうとした理由は?」

「……わからない」

「わからないわよね。わかってたらノコノコ現れないわ」

 彼女はあたしの腕を思い切り引っ張り、浅瀬へと転ばす。前のめりに転んだあたしの髪を乱暴に掴み、海の中に沈め、押さえつける。

 息が吐き出され、代わりに大量の海水を飲み込んだ。喉が熱くなり、痛みでさらに息を吐き出す。息がすぐに続かなくなり、あとは意識を手放すだけとなった時に頭を海から引っ張り上げられる。

 咳き込むあたしの頬を引っ叩き、頬を鷲掴む。

「会おうとした理由を教えてあげる。殺すためよ」

「……どうして?」

「憎いから……ではないわよ。そんな理由なら他の人と同じように、とっくの昔にあなたの元から去ってるわ」

 彼女は顔を近づけ、私の唇を奪う。舌を入れられ、口内を舐め回される。

「私はあなたが羨ましいの。生まれも育ちも、その邪気のない性格も、整った容姿も、あなたが嫌う天運さえ愛おしい。食事をしたらあなたが好きそうな味とか考えるし、紙で指を切ったら出てくる血があなたのものだったらいいなとか思っちゃうわ。好きよ。でも私の手が届かないところで変わっていくあなたを許せない。あなたは私の知ってるあなたのまま死んで。私の中のあなたが、絶対のあなたになるの」

「……そっか。それじゃあたしにわかる訳ないよね」

「死んでくれるわね?」

「うん、殺して。最後の最後まで友達として付き合ってくれてありがとう。幸せになってね」

 彼女はあたしに馬乗りになり、あたしの頭を海に沈めた。息を止めることなく、全ての息を吐き切る。体が勝手に空気を求め、藻掻き始めたが上から押さえつけてくれた。

 最後に「ありがとう」と伝えたかった。

 それは泡となるばかりだった。

 海中で舞い上がった砂と、空から差す柔らかな太陽の日差しと、口から漏れる泡の間にぼんやりと見えた彼女の顔。

 それが最後に見た光景だった。

 いや、最後になるはずの光景だった。

 差し込む朝日で瞼が開くような、そんな気持ちの良い目覚めだった。

 そんなあたしの眼に飛び込んできたのは男のイチモツだった。

 反射的に、眼前のそれに拳を突きつけ、叩こうとした。しかし、イチモツの持ち主がバク転でそれを避ける。持ち主は「ふん! ふん!」と気色の悪い掛け声を発しながらバク転を続け、あたしと距離を取った。

「ははは! まさかいきなり殴ってくるとはな! 恐れ入った! それでこそワタシが唆られた逸材だ!」

 高らかに感想を述べるのは浅黒い肌で筋肉質、ジェルワックスで髪をうねらせた頭をしたイケオジを勘違いしたような中高年男性が立っていた。上半身はノーネクタイ紺色スーツ、下半身は素っ裸という格好で。

「変態がいる」

 この時のあたしはインパクトしかない光景に自分が殺されたことが頭から抜け落ちていた。

「変態とは酷い言い掛かりだな。もっとも趣味が悪いのは自負しているがな」

 男は木籠の中からブーメランパンツを取り出し、履いた。

 今更周りを見渡し、全てが白に包まれ、上も下もない空間だった。パンツを取り出した籠も、バク転をした時にはなかった。気がついたら初めからそこにあったかのように現れたのだ。

 悔しいかな、おかしさに気づくと、ドミノのように自分が死んだはずのことを思い出す。

「さて、君もここの違和感に気付いたようだね。ではワタシが誰なのか、ここはどこなのか話そうか」

 変態は籠からズボンも取り出し、履いてベルトも締める。

「ワタシは神だ」

「はい、そうですか」

「……もう少しリアクションを取ってくれてもいいのだが」

「あたしにとってもう理解の範疇を越えてるので、言葉で神だと言われても逆にリアクション取りにくいです」

「ふむ、そんなものか。ではここが死後の世界とか天界と言われても面白いリアクションは期待できない訳だ」

「すみません」

「気にしなくていい。ここからが本題だからね。むしろ説明に手間を取らなくて済む」

 変態は威厳たっぷりにそう言うと、現れた大理石でできた椅子とテーブルに座るように促される。テーブルに座ると、紅茶とお茶請けが現れた。変態はティーカップを手に取り、紅茶の香りを楽しみ、口に入れる。

「紅茶は良い。いや、紅茶に限らず、緑茶、烏龍茶、コーヒーなどの嗜好品の飲み物は素晴らしい。どれもその地域の文化性が現れる。君はどれが好きかな?」

「お茶はカフェイン摂取が目的で味は楽しんだことはないですね」

「それもまた文化だよ。最近ではカフェイン摂取目的の飲み物もあるみたいじゃないか。ワタシはそれもまた良しと考えている。体には悪いらしいが、社会がそれを必要としている。まるで君の人生みたいにね」

 変態は続ける。

「君は輪廻転生する。無論、人間としてだ。頑張り給え」

「拒否権が誰なのかないようならおまかせします。けれど、先程の例え話でいうならば、あたしは飲み終わった空き缶のようなものですよ」

「……ふむ、張り合いがないと流石にツマラン。一応言っておくがワタシは君のファンなのだよ」

「ありがとうございます。まさか神様がファンなんて教師冥利に尽きます」

「ああ、それのファンではない。生き様のファンなんだ。――君の何があっても成功してしまう魂の特性、人の心の分からなさ加減、それを改善しようとしないブレ無さ。実に愉快だったよ。ただワタシはハッピーエンド信者でね。何があっても最後は演者が笑って終わるのが理想だ。だから、ぜひセカンドシーズンで挽回して欲しいのだよ」

「やるだけやってみます」

「やる気はなさそうだね。安心したよ。それならこれを見せられる」

 変態がそう言うと、空間に画面が現れる。そこには死んだ私と馬乗りになる香苗の姿があった。香苗は私を砂浜まで引っ張り上げる。衣類が海水を吸い、ひどく重かったようで女性の非力さではなかなか苦難していた。

 どうやらあたしが死んだあとの光景を見せられているらしい。

「放っておいていいのに」

「あのまま海水の中にずっと浸けておくと、体が爛れ、虫に食われ、見れたものではなくなる。いや、腐り落ちて、酷い臭いで近くにいれたものでもなくなる。彼女は愛してる君がそうなるのを見たくなかったのだよ」

「なるほど。それで、これを見せたかったのですか?」

「見せたかったのはこのあとだ」

 香苗はその後、警察に死体があることを連絡していた。

「……幸せになってね、か。馬鹿ね。なれるわけないじゃない。幸せだった時はあの事件で既に終わってるのよ」

 香苗は靴を脱ぎ、手紙をその中に入れ、沖へと向かって歩きだす。

 そこで画面が消えた。

「続きは?」

「見せないよ」

「見せて」

「少しは張り合いが出てきたようだね」

「見せて」

「このあとは君の想像通りだよ。彼女は死ぬ」

「助けに行く。ここから出して」

「ならばワタシと一つお遊びでもしようじゃないか。君が転生した先で誰かから殺意を持って殺されたら、元の世界、元の時間……いや、教師になる前の時間に返してあげようじゃないか」

「他に条件はある?」

「無論ある。ワタシは公平がモットーでね、このルールだけではゲームマスターが有利過ぎる。転生先を選べてしまえるからね。死という概念がない世界にも送れてしまう。――転生する世界は中世、小説に登場するような剣と魔法のファンタジー世界だ。誰に転生するかは完全なランダム。そしてワタシと君、互いに一つ縛りをつけようじゃないか。ワタシは君にある特殊体質を付与する。君はワタシに転生する世界での要望を叶える義務を与える。いかがかな?」

「失敗したら?」

「君の気が済むまでゲームを続けるだけさ。何度でも言うがワタシは君のファンだからね。失敗するだけ、見れるシーズンが増えるのだよ」

「それならそのルールで問題ない」

「ならばワタシから君に付与する体質は一切の毒やウイルスが効かなくなる体質だ。まっとうに殺されたまえ。ちなみに副作用として、酒に酔うこともできなくなるがそこまで飲むタイプでもなかろう?」

「そうね。……あたしからはあたしが転生した世界で生きている限り、あなたがその世界に一切の干渉をしないことを望む」

「ふむ、ワタシはフェアプレイ精神の持ち主でそれは元々考えにない。その願いは無駄になるがそれで構わないかね」

「あたしはあなたを信用しない。それにあたしはあたしの恨まれる天運を信用してるから」

「よかろう、承った。では良き人生を」

「それはあたしが死んだ後に言ってくれ」

 そして、あたしは死んだ。

 人ではなく魔人として、女性ではなく男性として生まれ変わった。神にしてみれば人も亜人も、性別さえも大した差ではないのだろう。柴犬と秋田犬ぐらいの差にしか考えていないのだろう。

 ゆえにあたしはあたしではなく、僕として生きることになった。

 王族として生まれてしまった僕は、それは大事に育てられた。兄弟はいないため継承権争いもなく、火種になりそうなものは一つもなかった。

 ならば自分で火種を作るしかない。そう考え、歩き回れる年になってからは恨みを買うために色んなことをした。次期皇帝が殺されるにはそれこそ若いうちから恨みを集め、しかるのちに殺してもらおうと考えた。しかし、それらは全て裏目に出ることになる。

 国中の貴族が集まる晩餐会前日に、晩餐会で使用する食器を予備を含め全て割ってみた。もちろん最初はどうしてこんなことをしたのだと叱られ、悪びれる素振りも見せず出来る限りのふてぶてしい態度を取っていた。しかし、食器の殆どに毒が塗られていたことで一転、事情を知った貴族たちから英雄扱いされることとなる。幸いこの件は大っぴらにできなかったため、上流貴族と事情通だけしか知り得なかった。

 アイリが見習いだった頃のメイド長とヴァミが城内で知らぬ者はいない険悪な仲だった。だから二人が顔を突き合わせるような騒ぎを起こしまくり、城の雰囲気を悪くした時期があった。結果として僕の愚痴で盛り上がり、そのままゴールインを決めるという城中が騒然とするような報告された。二人には感謝され、城内では二人に当てられた恋人たちの結婚ラッシュが続いた。

 ならば八大氏族の改革だと意気込んでみたものの、ちょっとした不和ができたぐらいで亀裂からはほど遠かった。

 迂遠な方法では駄目だと悟り、矢や魔法よ弾幕飛び交う戦場に転移し、変化した巨大な鬼の姿で人間相手に殺されようとした。

 この時、魔人が持つ執着について理解した。

 いざ殺される間際まで至った瞬間、体が言うことを聞かなくなり、思考が塗り替えられる。当時、唯一の次期八大氏族となったフィルがまた一人ぼっちになることが頭に浮かんだ。仲間のためにも死ねない、そういう風に思考が変えられていった。

 その時は人間を返り討ちにして、すぐにその場から離れた。森の中でうずくまり、胃が空になるまで吐き、吐瀉物に顔を埋め、ひたすら頭がクリアになっていくのを待った。その間も「仲間のためにもっと敵を殺すべき」という叫びが頭の中で反響する。まるで大人になるにつれて変わった味覚の変化を一瞬で体感したようだった。

 母上から、これについて「戸惑うだろうけど受け入れること。じゃなきゃ魔人は遠からず壊れます」と教えてくれていた。だが、これは到底受け入れることはできない。受け入れたら僕の目的が果たすことができなくなるのだから。

 それから幾度となく同じ手を試してみたが、次代の八大氏族が増える度に頭に浮かぶ頭数が増えるだけだった。

 それからは元の方針に舵を切り直した上で微調整をする。八大氏族が、仲間が、僕を殺すように仕向けることにした。

 それは未だに実を結んでいないが、最大のチャンスだったのは魔法使いプロントの引退騒ぎの時だった。甲冑武者が本気で殺しに掛かってくれたのだ。まさかの展開に歓喜し、体を執着に委ね、戦った。腕一本を犠牲にした辛勝。失血が酷く、これで死ねると思った。残った手には甲冑武者を倒した際に現れた刀が握られ、戻ってきたキティたちの姿を認めると、目を閉じた。「殿、死んではならぬ!」という声が刀からかけ続けられ、うるさくて意識を手放すことはできなかった。

 起きた後、あまりにも腹が立ったので一切の返答をすることなく床に刀を何度か叩きつけ、アインにプレゼントした。

 そして、今回キティが裏切った。

 喜んだ自分、悲しんだ魔人としての自分、両方いた。

 期待に応えてくれたという喜び、目を掛けていたのに裏切られたという悲しみ、それぞれが溶け合わないままぐちゃぐちゃに混ざりあった。

 とにかく会って流れに身を任せよう。仲間だった彼女が殺してくれるならば千載一遇のチャンスである。

 会って、失望した。

 世界平和を実現したいから教師になるのを辞めるというのが気に入らなかった。天才の言うことを真に受けて、仲間に誘う真似が殊更腹が立った。

 彼等は善意の人なのだろう。前世で、ワイドショーで取り上げられたあの町を叩く人のように。僕を救世主だと持ち上げた人のように。

 僕は善意も正義も求めていない。

 僕は僕が求めるものだけしかいらないのだ。

 だから意趣返しをしてやることにした。

 願いと執着――あたしと僕――両方の意見が初めて合致した瞬間だった。



「残念ながらその類のものは一切効かないんだ。あの糞野郎が僕をそういう風にしたんだ」



 空になった注射を捨てる。

「さて、僕はどっちだと思う?」

 天才は怒鳴る。

「ふざけるな! 分かるわけがないだろ!」

「そりゃわからないよな」

 彼女と似たようなことを言っているのがおかしくもあり、腹立たしくもあった。

「これはただの八つ当たりだから。結界があるから問題ないよな?」

 天才は慌てて結界を張る。

 詠唱はない、詠唱破棄でもない。高密度に圧縮した魔力を力任せにぶつけるだけ。叩きつける度に轟音が響き、塔が揺れる。きしみ、天井の破片が落ちる。

 数発の後、床に亀裂が走る。

「いけない!」というキティの声。

 止めるために駆けようとした。その動き出しでアインがキティの首筋に細身の刃を添え、動きを制する。

「邪魔しないで」

 完璧な後の先だった。

 大剣がないアインはただの子供。そのはずだった。剣の憑き物に体を委ねた数年、勇者として修羅場を潜った経験、それらがただの奴隷であったはずのアインに剣士としての才覚を与えた。

「アイン、勇者だったのだから世界が平和になるべきだと思っているはずです。争いをなくし、人々から感謝されて、何も思わなかったはずがありません!」

 キティの首筋から血が滴る。

「……世界が平和でも幸せになれない人間もいるんだよ。勇者だから、奴隷だから、やって当然、やれて当然。誰もあたしを見ない。だから、あたしを見てくれるご主人様を奪うな」

 床が崩れ落ちる。

 皆が下の階まで落ち、結界も砕け、砂ぼこりで全てが隠れる。その後すぐに聞こえてきたのは剣戟の音だった。剣同士がぶつかり合う高い音と石床を抉る鈍い音が不規則に響いていた。その中で一つ、こちらから離れていく音があった。

 そこへ向けて、同じ魔力の塊を投げつける。雪玉程度に固めたものは「痛っ」と何かにぶつかって霧散した。

 そこへ向けて駆け寄り、腕を伸ばす。

「さて、答えを聞こうか」

 煙が晴れ、後ろ手で拘束された天才が現れる。

 天才は目を瞑り、重い口を開く。

「……何かにつけて突飛な行動をする。総じて良い結果に繋がるが、行動だけを見れば単なる破滅願望持ち。しかし、その割にはやることが迂遠。家臣からの評価を下げ、謀反をして欲しいように感じる。しかし、その家臣を手酷く扱えていない。家臣もしくはそれに準ずる者を大切にしている。この二つ、俺には絞り切れないし、勘で答えるのはポリシーに反する」

「そうか。ならとりあえず一本貰おう」

 掴んだ左腕を握り、魔力を手に込める。骨が軋み、歪み、砕け、潰す。声にならない悲鳴が彼から溢れる。その腕を離すと、後生大事に腕を抱え、その場にうずくまる。

「それじゃ世界平和に向けて、勝手に頑張ってくれ」

 踵を返し、アインとキティの剣戟をよそに、崩れた図書館の出口を探し始める。

「待てよ」と後ろからの声とともに僕だけを覆うように結界が張られる。

「この狭さならさっきの真似をしたら自身もただでは済まないだろ」

 身を屈めるぐらいの狭さでは、出力の大きいものを打てば跳ね返りも少なくはない。

「俺は差別のない世の中を作るんだ。殿下の力を絶対に借りる」

 ぶら下がった腕を抱え、天才は立ち上がる。

「それが君の執着かい」

「そうだ。だから力を貸せ。八大氏族の再編をした殿下なら、協力したいと思うはずだ」

 僕のした行為は彼にはそう見えていたらしい。結果的には仲間のためになったのかもしれないが、因果が逆だった。不評を買い、殺されたいがため、再編したのだ。

「力は貸さない。君は仲間じゃない」

「なら死んでくれ。それも望みだろ」

 彼が腕輪を鳴らすと、結界がじわりじわりと狭まってくる。圧死が目的だろう。試しに手で押してみても止めることはできそうにはないし、転移も結界の特性でできそうにはない。

 アインは僕を助けに向かおうとしているがため及び腰に、それが祟りキティが攻勢に転ずる余地を与えてしまう。反撃にも出れず、避け続けて機を伺っているが精彩に欠けていた。

 その中でアインが落ちた本の一つに足を滑らせる。

 膝をつき、体幹が崩れ、剣が床に寝る。キティはそれを見逃さず、アインを本の山まで蹴り飛ばす。雪崩れた本に埋もれ、舞った埃に覆い隠される。

「これで殿下を守るものはいなくなった」

 折れた腕を庇いもせず両腕を掲げて高笑いをあげる。腹が捩れ、涙を流し、声を枯らしても、地団駄を踏み、笑う。

 異様で、醜く、目を覆いたくなる光景だった。気が狂ったようだった。

 母上が僕に執着に従うように勧めたのはこういう光景を僕にさせたくなかったのだろう。彼は僕が邪魔をしたからこうなった。しかし、僕は僕自身が邪魔をする。遠からずこうなる運命なのだろう。

「……ただ、これで死ねたら今まで苦労してないな」

 アインが舞い上げた埃の中から黒い影が飛び出してくる。黒く長い髪、真紅の瞳、そして手にはその艶のある髪と同色の刀が握られていた。

 その影は切っ先で結界を切り裂いた勢いのまま僕の脇を通り抜け、その先にいる天才に刃を振り下ろす。反射的に腕の内を見せるように交差した天才は振り下ろされた刃で傷付くことはなかった。だがその手に握られていた腕輪が真っ二つに別れ、それらが床で高い金属音を奏でる。

 崩れゆく結界越しに彼女と目が合う。

「我が主、ご無事で何よりです」

「フィルこそ病み上がりにこんなことさせて悪いな」

「いいえ、血のおかげで普段よりも体調が良いぐらいです。……この男、首を取った方がよろしいですか」

 腰を抜かした天才にフィルは切っ先を向ける。しかし、その情けない足腰とは逆に顔は強い確信の色をしていた。

「殿下の執着は仲間だ。さっき結界を切り開いた時、自ら当たりにいかなかった。どうだ?」

 その目に歪みはなかった。

「ああ、正解だ」

 高らかに笑う天才。難しい問題が解けたと喜ぶ子供のそれと変わらなかった。

 その変わりぶりに僕とフィルは気が緩んだ。ゆえにキティが天才と僕らの間に、大剣を叩きつけて割って入る隙を与えた。

 キティは僕を一瞥する。

「……諦めませんからっ」

 天才を担ぎ、吹き抜けの窓から飛び降りた。一階層分、床が抜けて低くなっているにしても、高さは数十メートルにはなる。その高さから飛び降りても、キティは痛む素振り一つ見せずに天才を腰に担ぎ、走り抜けていった。天才は耐えきれなかったのか、キティの走る動きに合わせ左右、上下に力なく揺れていた。

「追いますか?」

「いや、いい。好きにさせておいた方が好都合だからな」

「それはいつか殺しに来てくれるという意味でですか?」

 その真紅の瞳は揺らいでいた。

「ああ。どこから聞いていたんだ?」

「床が崩れ落ちる前から全て聞いていました」

 そういえば血を吸ったら耳も良くなっていた。

「よく途中で飛び出してこなかったな」

「考え無しに飛び出すのは止めにしました。それにアインもいましたから」

 アインが本の山から抜け出してくる。

「信用してくれて嬉しい……」

 体中に打撲の跡が痛々しい。けれど死に繋がりそうな気配がなく、ひっひっひっという陰気な喜びを漏らしていた。

「フィル、なら僕の望みを叶えてくれるよな」

 フィルの刀を持つ腕を取り、僕の首筋に刃を添える。

「さあ、ひと思いに」

 しかし、いや、やはり、そこから腕は動かない。

 変わったのは彼女の表情だけだった。滂沱の涙を流し、嫌だ嫌だと訴えかけてくる。

「わがあるじをころすなんていやです……ころすぐらいならころされたほうがいい……」

 頭が締め付けられる。

「僕の望みだ。僕が僕であるうちに殺してくれ」

 喉が渇く。

「いやです! ころすぐらいならしにます!」

 フィルはそう言うと刃を当てる先を僕の首筋から自らのものに変える。

「フィル、聞け。アインも、だ」

 血涙が漏れる。

「僕は君らを救ったつもりはない。僕を殺してくれるために利用して失敗しただけだ。君らが忌み嫌う奴らと何も変わらない。風評に従って弱者をさらに痛み付ける奴。自分の都合で相手の自由を奪う奴。エゴを押し付けるだけの存在なんだ」

 執着が、助けて、と口にしようとする。手で口を覆い、仲間に助力を求めるのを防ぐ。うずくまり、血で目も見えず、音だけが周りを知る唯一の術となった。

 靴音が近づく。粗野なそれは、歩き方の矯正を受けていないアインのものだった。片側だけ、もう片方に比べると足音が大きいところを聞くと、腰に剣を携えているのがわかる。

 目の前で足音が止む。

 うずくまった僕の顔を上げると血が溜まる目を拭き取った。鮮明さを取り戻した視界にはおっかなびっくりに微笑むアインだった。

「そんなこと知ってた……。でもねエゴでも救われたのは間違いないんだよ。……そういう気持ちがあってもね、失敗しても、側に置いてくれていたという事実の方が……うれしい……」

「違う! それは僕の執着がそれを許さなかったんだ!」

「勇者のあたしなら、知り合ったばかりのあたしなら、仲間とせずに単なる捨て駒にもできたはず」

 アインの言うとおりだった。あのまま見殺しにだってできたはずだった。甘さ、ひいては執着のせいにして、事実から目を背け続けた僕のせいだった。

「それでも僕は……殺されて彼女に会わなきゃいけないんだっ……!」

 フィルが刀を鞘に収める。

「わたくしには殺されて会えるという理屈はわかりません。でも我が主にそこまで想われる人には少しばかり……いえ、とても嫉妬します。我が主にとってそこまでの存在になれなかったことがすごく悔しいです」

 うずくまる僕を触れるように抱き締める。

「でも、だからこそ、我が主の気持ちが分かります。わたくしも、殺されて、もう一度我が主に会えるのなら、殺されることを選びます。だから止めません。でも今は悔しいから殺しません。同じところに連れてってくれると約束してくれるまで殺しません。だから一緒に、あの世に行ける方法を探しましょう」

 痛みが引いていく。

 もう一人の僕がその方法で良いと納得していた。

 まるでいつか置き去りにしたはずの自分に赦されたようだった。

 壁にもたれ掛かり、休む。

 多くの前提が壊れた。

 放心気味な頭は今は休みたいと働くことを拒否して、思考を後回しにしている。今は僕の膝でグズグズと泣き崩れたフィルの頭を撫でることしかする気がないみたいだ。

 ドタバタと慌てた足音が下層から耳に届く。合計数十人程度だろう。その中でも先行した足音があり、それは直に到着しそうだった。

「ご主人様、この件は秘密にした方がいいんですよね……?」

「そうして貰えると助かるよ」

「わかった。フィーちゃんもそれでいいよね?」

 フィルは顔を上げて、「かまいません」と涙を拭き、頷いて見せる。

 足音がもう近いところまで来たところでアインが「それにしても」と話題を変える。

「あの世まで着いて行く気って、結婚の宣言にある、死が二人を分かつまで、よりも重いよね。フィーちゃんって常識人ぶってるけど実はその範疇から通り越しちゃってるよね」

 フィルは待っていましたとばかりに胸を張る。

「我が主に関することならば当然です! わたくしは我が主の狂信者ですもの!」

 その宣言は踏み込んできたヴァミや人狼の教師、そしてデュラハンだった娘に聞かれることとなった。

 真っ赤に染め上げた顔を、デュラハンの胸元に埋めて、ポカポカと叩いていた。友人の復調の喜びと恥ずかしさで忙しそうだった。

 同じく忙しなく、無事か、怪我は、と色々と尋ねてくるヴァミの言葉を聞き流して、彼らが逃げた窓の際に立つ。

 殺された日と同じ、柔らかな日差しが僕を包み込んでいた。

 ためしに小さく首元を抓ってみた。

 小さな痛みが走るだけだった。

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