2章 転生者と戦場

転生者と戦場

 憎いから。泣きそうな声だった。

 死んでくれる。そんな言葉を投げられた。

 殺して。そう考えた。

 途端に世界は暗転し、吸い込まれる。

 落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて、落ちて――飲み込まれる。

 強い粘性の水が自由を奪う。息が苦しくなり、外を目指すも身の回り全てが纏わりつき、それを拒む。ひと掻き、ひと掻き、必死に腕を動かす。動かすたびに頭が酷く縛り付けられる。息が尽きる最後のひと掻きで、世界に光が差し込んだ。

 それは見慣れたベッドの上だった。

 シャツが寝汗で肌に張り付いていた。その汗はまるで汚泥のような不快感を僕に与える。あのまま落ちていれば、この汚泥に埋もれていたのかと思うと身の毛がよだつ。そして、笑みがこぼれる。

「昔の夢か――いいもの見たな」

 起き上がり、シャツを脱ぎ捨てる。準備されていた着替えに袖を通す。以前は侍女が着替えさせてくれていたが、さすがにもう一人で着替えると突っ張り、それ以降は一人で着替えることが叶った。ただ一人で着替え始めた当初は一人でできるのかとオロオロした侍女が見守っていた。そして、一人で着替え終えると拍手された。その目には涙を浮かべていた。

「ヴァミ、いるんだろう?」

 下着に袖を通したところで声をかける。

「なんでしょう」

 扉の前で待ち構えているヴァミが返事をする。

「寝汗が酷いから湯浴みがしたい。準備できるか?」

「準備して参ります。頃合いを見て、浴場へ行ってください」

 足音が遠ざかる。

 それから十分ほどして、浴場に向かおうと扉を開く。するとそこには侍女が待ち構えていた。あのオロオロして涙を浮かべ、拍手した侍女だった。二十代後半だというのに十代後半にしか見えない童顔の持ち主であり、豊かな感性の持ち主でもある。それもそのはず、彼女はエルフだ。金髪碧眼が欧州の女性を思わせる容姿であるが、耳だけは尖っている。

「一人で大丈夫です、アイリさん」

「いいえ、いけません。もしも、のぼせて溺れたりでもしたら大変です」

「溺れないよ」

「もしものためです」

 ため息をつき、ついてくることを許可する。嬉々として後をついてくる彼女に辟易しながら、脱衣所に到着する。すぐに一糸纏わぬ姿になって、浴場に向かう。

「待ってくださーい」とアイリも慌てて制服を脱ぎ出す。作業しやすいように動きやすくできている服ではあるが、男のそれと比べると脱ぐのに手間取りそうな作りだった。

 湯を被り、石鹸で体を清め始める。中世レベルの世界で石鹸があることに当初は驚いた。だが、腐っても中世レベルだったため質は雲泥の差であった。水に溶けやすく泡立ちも悪くはないのだが、ツンとした臭いはするし洗浄力も高くない。だがまあそれでもないよりはマシだ。ただ、これでも高級品だというのが現代人だった僕からすれば辟易する。

 一通り洗い終わり、湯船に浸かる。その頃になってようやくアイリが浴場に現れた。健康的な痩身を持つ彼女は布で体を隠すことなく僕の元へ急ぎ足でやってきた。互いにもう見慣れてしまっている光景なため、恥じらい無用だった。彼女は小ぶりな胸を僕に差し出すかのように前のめりになる。二つの桃色の粒が視界に入る。さすがに見過ぎるのもアレゆえ、すぐに視界を逸らす。

「大丈夫ですか? 熱すぎませんか? ぬるすぎませんか?」

 そう言って、湯船に指を突っ込む。

「大丈夫。ちょうどいいよ」

 よかったです、と笑顔の彼女に「一緒に入る?」と尋ねてみる。けれどいつもと同じように「とんでもありません! 殿下と一緒の湯に浸かるなんて下賎な身の上ではとてもとても」と拒否されてしまう。

「まあいいや、なにか今朝の記事で面白そうなものなかった?」

「そうですねえ、そういえば勇者なる人物が現れたらしいですよ」

「勇者?」

「とある女神の剣に選ばれた者がそう呼ばれるらしいですよ」

「ふうん」

 勇者といえば魔王を倒すために現れるとかいうあの勇者だ。こちらの世界に魔王はいないが、いるとすればこの僕になるだろう。にっくき亜人社会の次期皇帝なのだから。それに現世の父はもう亡くなっている。

「勇者って言うぐらいだから強いのか?」

「さあ、どうなんでしょうね。でも強いらしいですよ。あと女性です」

 女性と聞いて、筋肉隆々の女性を想像する。ハリウッド映画に出てきそうな勇ましい女戦士だ。この世界で銃はないだろうから、大剣でも振り回すのだろう。

「年は?」

 アイリと同年代ならそういった想像もしやすい。アイリが十代にしか見えないのはひとまず置いておく。

「殿下と同い年みたいですよ」

「は?」

 勇ましい女戦士の想像が空の彼方へ吹っ飛び、剣を振るのも一苦労な姿が割り込んできた。

「それ大丈夫なの?」

「殿下みたいに戦士数十人を軽く返り討ちにできるみたいです。先日、ローカの紛争地でそれを目撃した者がいるみたいなので確かだそうです」

 ローカ、大陸最大の砂漠地帯に大量の森林地帯が点在するという珍しい地域だ。なんでも、あの森の木々は根本で全て繋がっていて、地表に飛び出したものは全て枝らしい。そんな巨大な木が周囲の土の栄養を奪い尽くすため、森林地帯が点在しているらしい。

 そのような環境では農業は難しく、森に住み着く獣の狩猟か傭兵で生計を立てるのが一般的であり、それゆえ屈強な人物が多いとのこと。

 だがしかし、それを鑑みても異常だった。

「……それ本当に人間?」

「おかしな話ですよねぇ」

 二人で勇者について疑問を浮かべながら、少しして浴場をあとにする。アイリは掛け湯はしたものの、湯船に浸からなかったからか風呂あがりにくしゃみをしていた。二人で脱衣所から出たところ、たまたまフィルと出くわした。

「フィルも湯浴みかい?」

 フィルは首を横に振る。

「いいえ、違いますわ。ところで我が主、この方と一緒だったのですか」

 アイリの方を見ていた。

「そうだよ。フィルも今度一緒に入るかい?」

 変な思惑は一切なく、一緒に湯浴みができる友人が欲しかったのかだ。

「そんなお恥ずかしいこと!」とフィルは顔を真っ赤にして廊下を走り抜けていった。

「思春期か」と漏らす。せっかく風呂仲間ができると思ったのにと肩を落とす。嫌われたのなら、どっこいどっこいだと自分を慰める。

「殿下がそれを仰いますか」

 隣でアイリがぼやいた。

 

 

 

 昼食を終え、習い事の時間になる。

「ヴァミ、今日は少し外に出てくる」

 習い事なんかしている暇ではない。勇者などという面白そうな存在が現れたのだ。それを見に行かない手はない。あわよくば殺してくれれば万々歳だ。

「では用意をしますのでお待ちください」と習い事をバックレるのに慣れっこになってしまっているヴァミは平坦な声でそう告げる。

「いや、今日はちょっと遠くに行くから、それには及ばない」

「遠くですか? すぐにでも馬車の用意はできますが」

「ああ、外っていっても外国。人間の国に言って、勇者を一目見てくる」

 これにはヴァミも相当に慌てたのか目を見開く。いつもは棒でも背中に挿しているのでないかと思うぐらい真っ直ぐな背筋が大きく前に傾いていた。

「坊ちゃま、本気ですか?」

 僕の顔の前でそう訊かれた。前傾の姿勢がその慌てようを語っていた。

「やるといったらやるよ」

「それでは私もついて参ります」

「安心しなよ、夕食までには帰るから」

 そう言ってベランダに出る。指を鳴らし、ヴァミの辞めてくださいという悲壮漂う顔を尻目にその場から消えた。次の瞬間には、鬱蒼とした森の中にいた。人間の国近くの森林の中、亜人領と人間領の紛争地。

 今頃、ヴァミは呆れているだろう。大ウツケとして噂を広めてくれたら何よりだ。

 さて、と一番高い大木の天辺に立ち、進むべき方角を確認する。お日柄が良いせいかあちこちで人と亜人が争う声が聞こえる。互いに上からの命令か、種族の誇りをかけてか、いつかの世代の遺恨のために戦っている。いやはや健康的で何よりだ。

 ふと、紛争地のある一箇所が空白地になっていることに気づく。その砂漠だけ妙に盛り上がりに欠けているのだ。他の箇所はどちらかが優勢でその声がするというのに。目を凝らすと、そこには一人の少女が背の丈を超える大剣を引きずり、佇んでいた。少女は白銀の鎧を身に纏い、眼前の亜人らと対峙しているところをみると人間側の勢力のようだ。しかし、あの少女が纏う雰囲気、アレは人間とも些かズレているように見えた。

「あれが勇者かな」

 そう期待して観察していると動きがあった。

 亜人らが一斉に飛び掛かる。それに合わせて勇者は緩慢とした動作から、目にも止まらぬ速さで大剣を一振り。瞬間、風が突き抜けた。大剣の軌道から外に向けて、砂嵐を撒き散らし、亜人を全て吹き飛ばす。何キロも離れたこの地まで砂が運ばれてきた。ようやくそれが収まって再び少女の姿を確認した頃には、無表情の少女は野営地へと帰っていくところだった。

「素晴らしい」

 その一言がついて出る。あの勇者は単純な強さでいえば、亜人の中でも戦闘種と呼ばれる者が徒党を組んでようやく対等だ。それも陣を敷いた状態で、だ。そんな鬼神のごときものを城に突然召喚したらどうなるだろう。きっと乱戦のうちに全てを薙ぎ払ってくれるはずだ。

「善は急げだな」

 木から降り、二言、三言、まじないを呟く。すると僕の容姿は金髪碧眼のどこにでもいそうな村の少年へと変貌する。

 気配を消して、森の中を戻る勇者を追う。小一時間も歩くと、森を抜け、砂漠を越え、小さな町に辿り着いた。傭兵や軍人が多く闊歩し、最前線の町であることが伺えた。

 勇者を探して町中を歩く。子供は既に避難しているのか町中に子供の姿は確かめられず、奇異の視線を道行く人々から投げ掛けられた。同じ視線が集まっていた勇者を見つけるのは容易だった。傭兵らしき者たちと会話をして、宿屋の中へと入っていくところだった。その後を追い、勇者が個室に入ったところで尾行をやめた。そのあとすぐ宿屋の者が食事をお盆の上に乗せて個室に入っていく。

 やはり勇者というのはそれなりの待遇なのだろう。そうでもなければ戦おうなんて思う筈がない。

「おい、坊主。ここで何をやってる」

 不意にそんな言葉が投げかけられる。声の主を見ると、先ほど勇者と会話していた傭兵だった。

「あの、ぼく、勇者さんとお話ししたくて」

 柄にもない口調でそう説明するも、傭兵は僕の首根っこを掴み、宿屋から放り出す。

「あいつは今忙しいんだ。暇なガキとちがって、お前と話すことはねえよ」

 そう言って宿屋の中へと引っ込んでいった。

 ではどうしようか。城に飛ばすには最低限、手の届く範囲にいる必要がある。宿屋の中へと無理矢理入ってしまってもいいが、戦闘を介し確実に殺してもらうにはそれでは不確実性が残る。それにできれば事前にそれとなく無双してくださいと仄めかしておきたくもある。

 結局、勇者が外に出てくるのをひたすら待つことにした。前世の世界にいたアイドルを出待ちをするファンとはこのような気持ちだったのだろうかと思いはせてみたものの、よくわからなかった。

 夜になり、月が照らし出した。もう今日は外に出る理由もないだろうと当たりをつけ、一度帰ろうと立ち上がる。その時、宿屋から勇者が出てくる。大剣を手に、周囲を警戒して気配を消しながら。

「やあ」

 機を逃してはいけないとすかさず声をかける。勇者はうろたえた様子で「な、なに」と返す。

「よかった。君と話したかったんだよ」

 朗らかな笑みを作る。けれど勇者は怯えた様子で大剣を抱いたまま後退りする。

「だ、誰?」

 ヒドい人見知りなのだろうか。勇者という肩書きなら多くの人から尊敬されるだろうから、傲慢な性格になってもおかしくないような気もする。きっと素直な良い子なのだろう。だから勇者なんて役目を与えられる。

「商家の者さ。この町にも商売で来ているのだけど、たまたま勇者様がいると知って話したかくなったんだよ」

 シレッと嘘をつくも、沈黙が流れてしまう。嘘だとバレていないと思う。魔族であることも大剣で切られていないところから勘付かれていないと見える。だとすると予想以上に勇者が人見知りだったということになる。女神様がいるのなら酷なことをした。どうみても性に合っていないではないか。間違いなく家でチマチマと内職に勤しむ種類の人間だ。

「向こうでなら」

 そう言って指差した先は前線の森の中だった。さすがに今は両軍戦ってなどいないが、砂漠を越えなければならないし、遠い。どうして戦場に向かいたいとしたのか、必死に人見知りの思考をトレースして考える。そして、気づく。遠回しに話したくないと言われていることに。

「いいよ。行こうか」

 そう言って森の入り口へと歩き出す。少し進んで振り返り、早く行こうと誘う。森の中でなら話してもいいと素直に取る奴も中にはいるかもしれないのだぞ、とほくそ笑む。

 森の中は暗く月明かりすら入らないほど鬱蒼としていた。勇者が魔法で明かりを灯さなければはぐれてしまっていただろう。森の中には暗闇に紛れて僕らを伺う獣の視線が無数あった。だがそれらは僕らを襲う類のものではない。正確にいえば、その類ではなくなった、だ。魔人と勇者の二人、感覚の鋭い獣ならば僕らに敵意を示さない。最初は強がって威嚇した獣もいたが、近づくとすぐに位が違う存在であることが分かって逃げ出した。

「何を聞きたいの?」

 立ち止まった勇者は尋ねる。

 その目には不安の色が濃い。いつでも剣を抜くこのような剣呑さが目に現れていた。だが、それは周囲の獣が持つ怯えの裏返しのようにも感じた。

「勇者になった理由を知りたいな」

 その問いに少しばかり逡巡してから答えられる。

「……他に選択肢がなかったから」

 剣に選ばれた者が勇者になるというが、彼女の場合、それを受け入れなければ身の上だったのだろう。感謝されるはずの勇者なのに、妙な陰気さがある。スラムあたりの孤児にも同じ雰囲気を持つ子が多い。

「勇者になって少しは生活は変わったかい?」

「窮屈になった」

 勇者なんてものになればしがらみもできるか。

「もしも勇者を辞められる機会があるとするならどうする?」

「窮屈にならないのならやりたい。絶対に」

「……ちなみに何か欲しいものとかあるかい?」

「……家族とか友達が欲しい」

 勇者の手を取り、言う。

「それは君の努力次第かな。けど、その機会なら与えてあげるよ」

 気取られてはならないため、魔力の行使は一瞬のことだった。その一瞬で獣の気配が漂う森の中からシャンデリアが照らす城の中へと飛んだ。そこでは長いテーブルが置かれ、その上にはそれぞれの食事が並べられていた。その前に座る彼らは皆、一様に突然現れた僕らに視線を奪われていた。

 勇者にここがどこだかわからせるように変装を解き、いつもの赤髪に戻して立ち上がる。

「我が主?」

 フィルがきょとんとした声をあげた。

「その方は?」

 僕は不敵に笑う。あたかも敵であるかのように。

「皆のもの驚け! 彼女は人類の希望、勇者だ!」

 大きく笑い声をあげた。その声に呼応するように八大氏族は椅子から飛び退き、それぞれ戦闘態勢へと変わる。給餌をしていた執事、メイトでさえも短刀などを懐から取り出していた。

 さあ、あとは勇者が殺戮劇を起こすだけだ。そう思い、傍らで座り込んでいる勇者に視線を移す。

 するとどうだろう勇者の目の色がおかしい。恐怖するわけでもなく、亜人に憎しみをぶつけるわけでもなく、キラキラした視線を僕にぶつけていた。いや、注いでいた。

「王様だったよ?」

 勇者は尋ねる。上ずった声で。

 その問いには悪魔が答える。

「そうだ! ここはリオン殿下の宮殿であるぞ! 邪神の遣いよ、何しに現れた!」

 元上司を邪神扱いとは見上げた忠誠心だ。しかし、その殿下が連れてきたのだから多少は疑ってかかった方がいいのではないだろうか。

 それに天使が横槍を入れる。「その邪神と対立する魔神の加護を与えられた我ら亜人らを皆殺ししに来たに決まっているだろう」と。

 だから、その殿下が連れてきたのだ。

 勇者は大剣を手に取る。その動作に八大氏族は息を呑む。僕も期待で息を呑んだ。

 だが勇者はその大剣で僕を叩き切ることなく、床に投げ捨てた。カランという音に続けて、勇者は「やった……!」と恥ずかしげもなくピョコピョコと跳んで喜んだ。

 そのあまりの変わりぶりにその場にいた誰もが凍りつく。

「助けてくれてありがとう……」

 そう言って僕に抱きついてきた。それを見ていたフィルは悲鳴をあげる。思わず飛びかかってきそうな形相のフィルを片手で制し、勇者の肩を掴んでゆっくりと離す。

「うん。その、落ち着こうか」

 そう口にすると勇者はハッとした様子で慌てて離れ、方膝立ちで胸に拳を当てる。

「あたし、アインは御恩に報いるべく貴方に忠誠を誓います!」

 どういうことか、という視線が僕に集まる。

 そんなの僕だって聞きたかった。

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