二年前に意識を飛ばして。

 二年前の八月中旬。当時長野に住んでいた戸松一家はその事件により平穏を失った。朝方から豪雨が降り続け、築三十年越えの木造二階建てであった戸松家は雨戸を完全に締め切り、完全武装要塞と化していた。父と母も会社から待機との許可を貰い、一階でくつろいでいる。姉は高校が夏休みだということで東京の方に彼氏とデートらしい。ということで今は三人でこの武装要塞の中にいた。

 しかし、予定通りの雨ならば昼間には止む、ということをテレビのアナウンサーは報じている。二階にある智の部屋――四畳半の中で寝転んでいた智は、その情報を信じて、本格的に居眠りを始めた。

 彼が目を覚ましたのは、午後二時過ぎである。目を擦りながら身体を起こすと未だに窓はうるさく揺れ続けている。

 異常かもしれない。

 智はテレビのリモコンを押し、ニュース番組を写す。すると、住んでいる村の全景が空撮で写されていた。全体的に茶色く濁っているが、屋根や建物の配置でこの村だということが分かる。

「何で?」

 智は雨戸を解き放ち、村の姿を見る。

「これが、村?」

 そこに広がるのはまさしく、海。大地の姿は見えず、数軒の上層階や学校が見えるのみでそれ以外は何も無い。

 智は部屋を飛び出て、一階に行こうと階段を下りる。

 だが、数段降りたところで足に冷たい感覚が襲う。水だ。

「え……? どういうこと……」

 自分の頬を引っ張って見るも、それは居眠りの夢の延長線上ではないことを実感する。痛い。ひりひりする。しかし、それが意味するのは。

 これが、現実?

 自分の部屋に戻り、窓を全開にして身を乗り出し、空を見上げ叫び始める。そこに広がるのは灰色の空。銀というほど煌びやかでもなく、黒というほど暗くもなく、その中間――灰色。

「あああああああああああああっ!」

 後ろでつけっぱなしのテレビは見ている人もいないのに、興奮したレポーターの声を伝える。

「……あそこに見えるのは、村民の方でしょうか! 生存者を確認いたしました! 繰り返します、生存者です!」

 無常にも伝えられるその声を智は聞いていない。この非現実的な世界を受け入れたくない、その一心で身を乗り出して叫んでいた。

「あああああああああああああっ!」

 その声を頼りに、自衛隊が智を救助したのは午後二時四十分のことであった。

 しばらくして、ようやく村から水が引いて、本格的な救助活動が始められたと報道が始まったのは三日後のことだ。家から遥か遠く、千葉の住宅街にある祖母の家に居候していた智の元に、その一報は伝えられた。


・被害状況(最終)

 村民    五百七十六名

 生存者   六名(内事件当時村居住者一名)

 死亡者   五百六十九名

 行方不明者 二名


 智の父親と母親は死亡者の中に収められていた。彼らは避難所として体育館に逃げるも、智の姿が見えないことに焦りを覚え、父親は家へ向かう途中水位の上昇により溺死。母親も体育館の水位の上昇によりこちらも溺死。姉はというと、東京からその一報を聞いて、そのまま千葉の祖母宅へとやって来て、状況を知らされないままテレビでそれを知ったときには、智と同じ表情を浮かべる。

 すかさず一緒に来ていた彼氏が「大丈夫、大丈夫。俺がいるよ」と優しく言うも、「あんたに何が分かるのよ」と泣き叫び、そのまま喧嘩が勃発。別れるということで決着がついたらしい。

 元彼氏となった男は項垂れながら、電車に乗って長野へと帰っていく。後々姉から聞くと、彼は村ではない場所に家があるので被害を被っていないようであった。

「何で私たちだけ生き残るのよ」

 姉は智のいる部屋の片隅にうずくまり言った。絶望。その二文字が自分達へと突き刺さっている。非常に、冷酷に、それでいて尚且つ悲惨に。

 そんなこと言われたって、僕には何の応えようも無い。

「全く、もう生きてる意味無いじゃない。家も無い、服も無い、物も無い、何も無い。そんな状況で放り投げられて何をしろって言うのよ」

 全く、その通りだ。

 同意しようと口を開きかけたとき、いきなり耳にびたん、と大きな衝撃音が響く。

 一体何が起こったのか。

 智は姉の方向へと向くと、そこには祖母が立って手を振り上げていた。その前にいるのは頬を押さえている姉。

「そんなこと言うんじゃないよ。人間はね、諦めたらそこで死ぬんだ。諦めてからずっと灰色の人生を歩むんだよ。だからね、まだそんな若い歳でそんな泣き言言っちゃいけない。私みたいな年齢になって本当に絶望したら言いなさい。そうじゃなきゃ暁子も健さんも浮かばれないよ」

 暁子と健というのは親の名前だ。智は祖母が手を上げた姿をその時まで見たことが無かった。

 だが、祖母の目からは本気ということが十分に伝わってくる。まだ絶望するには早い、ということがだ。

「だからそんなところでうずくまるのはやめなさんな。前を向きなさい。絢ちゃんの好きな漫画にこういう台詞があるでしょう。『目は前を向くためにある』ってね」

 それを聞いて、姉は障子をばんっ、と開けて大きい音を立て、部屋を出て行った。その姿を智は見続けていた。ぼーっと、何もせず。

「ごめんね、智も。でももうすぐ死ぬ老いぼれの言葉として心に納めといてはくれんかね。泣き言は本当に死ぬときくらいしか言っちゃいけない、ということをね。しかし、娘も婿も死ぬとは、嫌だねぇ。生きていたく無くなるじゃないかい……」

 そのまま姉の後を追うように、祖母も廊下へと出て行く。

 智は最後に呟いていった言葉の意味を理解できなかった。

 あれは、泣き言?

 だが確かにその言葉を胸に刻んだ。

 祖母が泣き言を言った意味を智が知るのは、実にその一年後――今から一年前祖母が持病でこの世を去ったときであった。

「お婆ちゃんは、持病で命がそう続かないということを二年程前から知っていました。故人の要望で誰にも言いませんでしたが」

 という言葉を医者に聞いたのは、祖母の葬式の場で参列に来ていた医者からだ。智と姉、それに少ない親族は同時にそれを聞いた。

 だからあの時。


 その後、その事件は気象庁の予報システムに若者数人がクラッキングを仕掛けて発生したものだ、ということが発覚し、気象庁のシステム管理体制が指摘される。その一件により一ヶ月以内の予定が公表されていたものが、大いに短縮され、一週間と定められた。


 それ以降、智は泣き言を言うことを自分に禁じる。

 時系列は再び、現代に。


「思い出したか」

 浩三は更に追い討ちをかける。当の本人は膝を突いて当時のことを全て回想していた。その言葉が聞こえるはずも無い。

「だからあまりにも酷です。やめて下さい」

 香奈は懇願する。だが、浩三は探偵ロボットだ――一度自我で決めたことは取り消しが利かない。好奇心、行動力、精神力、観察力、推理力。それが探偵ロボットに与えられし力である。

「いや、無理だな」

 浩三は香奈の願いを出来ない、と否定する。理由は? と香奈が問い返した。

「ほれ見ろ、こちらさんの面を」

 香奈は言われて、智の顔を凝視した。

「トラウマ被って、今自分は何をしてるんだ、気象庁なんて自分の親の命を奪ったシステムを作った親元じゃないか、なんてね」

「いや、それは違うよ」

 香奈はその声にはっとして、智の方向へ向いた。智はだんだんと立ち上がり、浩三を見下ろす。

「確かにシステムを作ったのは気象庁だ。でも犯人は別人だったし既に裁かれて罪を償っている。だから、別に気象庁は憎んじゃいない、憎んでいるのはその犯人だけだ」

 浩三は智の言葉に対して、事実を告げる。

「もし、その犯人グループの一部が既に刑務所を出て、再び気象庁のシステムにクラッキングをしようと行動を起こしていようとしてるとしたら?」

 智はそんなことありえない、と言葉を吐く。

「あいつらは懲役を重くくらったはずだ」

「いや、一部は違ったんだよ、一部は」

 香奈がどういうことですか? と浩三に問うた。浩三はあーあ、と溜息をつき、タバコに火をつけてから応えを話す。

「気象庁のシステム又はこいつみたいな気象観測用ロボットを使って、またあれと同規模かそれ以上かの事件を起こそうとしている、という情報が依頼人に舞い込んだらしくてな。だから、そのロボット一人一人に探偵ロボットが調査してるんだよ。こんなアンティークまで起用してな」

 まだ根に持っていたんですか。

「それが俺に託された指令――依頼だ」

 静かに浩三は告げる。だが、

「……それは、私がその犯人さんたちに使用されている、と確定したわけでは無いんですね? 使用されていないかもしれないし、使用されているのかもしれない」

「そういうことだ、断定されてこれがここにいる訳じゃない」

「もし、私が使用されていた場合、私のこの身はどうなります? 廃棄ですか、それとも焼却ですか?」

「思い当たる節でもあるのか?」

 浩三は表情をやや暗くして問う。

 香奈はそれに対して右手を胸に当てて、心配そうに言う。

「いやありませんが、ふと疑問に思ったもので」

「焼却だろう、情報の漏洩の可能性がある上に、廃棄したらデータが残るからな。だが、何百体もある気象観測用ロボットのうちたった数体だ、お前が引くクジの確立は少ない」

「ありがとうございます」

 そう言ってから、香奈は浩三に対して深く礼をした。

「で、香奈」

 智が唐突に声を出す。

「何です? 智さん」

「気象観測はいいの?」

 その一言を境に辺りを取り繕う微妙な空気。智をはじめとした誰も何も口に出来ない。

 その微妙な空気を最初に打破したのは香奈だ。

「……そうでした」

 香奈はそのまま前へ出て、昨日と同じ街頭樹の下に同じ格好で立つ。

 ぴーぴーぴー。

 丁度良く智が昨日聞いたものと同じ電子音が響く。浩三はそれを聞いて、眉を潜めた。

 さぁ、気象観測とやらを間近で見せてもらおうか。

「智さんと浩三さん、ちょっと待っていてください」

 香奈は顔を智の方向から真上に、そして同時に右手を真横に展開させ――小さく呪文のような言葉を間切れ無く唱える。

 そして昨日と同様に、呪文が止まり、聞き取れる速さの言葉がそれに続いていく。

「篠宮香奈より気象庁本部へ、篠宮香奈より気象庁本部へ。只今七月十七日午後五時〇〇分、雨の予報ですが、予報どおりに作動しています。誤作動はありません。繰り返します、篠宮香奈より気象庁本部へ。只今七月十七日午後五時〇〇分、雨の予報ですが、予報どおりに作動しています。誤作動はありません」

 智がその言葉に息を飲み込むと、

「データの転送を終了します」

 香奈は右手を元の位置へと戻し、顔を智の方向へと戻す。智に対して彼女はまたにっこりと微笑んだ。

「帰りましょう、智さん」

「そうだね」

 智の元へ香奈の右手が差し出される。

 これは何?

 また、この思考もスキャンされたようで、香奈は静かに応える。

「何って、手を握って一緒に帰りませんか? ということですが……」

 なんだ、そういことか。

 智は香奈の差し出す右手を自分の左手で握る。

「帰ろう」

「はい、浩三さんもごきげんよう」

 香奈と智は家の方向に向かい歩き出す。丁度日差しが彼らを包みこむように。

「御機嫌よう、ね」

 浩三は金色に光る彼らに向かって呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

塵と記憶のスキャニング・アーツ 羽海野渉 @agemuraechica

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ