少女との邂逅/出会い

 彼らが高校生になり、数ヶ月が経った一年生の夏。

 彼はその時期に彼女と出会った。

 彼女はいつも彼の予想を裏切ることばかりして、いつも彼を驚かせていた。

 時には一緒に笑い合ったり、悲しみ合ったり、怒り合ったり。

 色々なことをして彼と彼女は数ヶ月という時間を楽しく過ごしていた。

 しかし、楽しい時間は永遠に続かない。

 いつかはこうなると思ってた。

 彼女は別れ際に、いきなり彼に向かい、呟いた。

 思ってただって? ふざけるな。それを先に教えてくれていたら、良かったのに。

 だけど言ったら悲しむと思って。

 うん、きっと悲しんだと思うよ。でも。

 じゃあ何で今悲しんでるの?

 だが、その場では彼は何も言えず、彼女はそのまま姿を消した。

 もう、彼女が姿を消してから数年が経つ。

 その間に何度も夏が過ぎて、彼もだんだん歳を取り、高校を卒業して、大学生、社会人となった。あの頃とは街の風景も変わり果てて、彼女との思い出の場所も失われつつある。

 だから、今。覚えていることを残すために。

 彼はペンとノートを机から取り出し、真っ白で最初のページを開く。

 そのままペンを右手に持ち、書く姿勢に入る。

 最初は何処から書くべきだろう。頭の中で色々な思い出が交錯している。それは嬉しかったり、喜んだり、痛かったり。

 やはりまずは、あの雨の日の出会いからだろうか。


 ぽつぽつ、から、ざーざー、と雨の感触が次第に大きくなっていく。

 その雨は静かに彼らの肩を平等に濡らしていく。

 戸松智が着ているYシャツはもう彼の皮膚にくっつき始めている。

 それが寒くて、ちくちくして、くすぐったい。

 何で雨が突然降ってくるんだろう。朝の予報では降らないって言っていたのになぁ……

 降り始めたとき、丁度高校帰りで家に戻る途中だった智は、傘なんて持っていなので、通り道の路地で降ってきたことを確認次第歩くスピードを速め、極力早めに帰ろうとした。

 智のした雨を避けるためのことはただ持ち合わせていた革のバッグで濡れないように頭を隠すだけだ。防ぐものも他には持っていないわけでもあるし、他の部分が濡れることは半ば仕方が無い。

 五分くらい走り続けてから前方を確認すると、家までまだ十分くらいあるだろう場所であることが分かった。根拠は商店街の入り口が見えたからである。智は急いでそのアーケードに逃げ込んだ。

 これで家まで少しでも雨をしのぐことが出来る。どうせなら傘を買って、それを差して帰宅していこう。

 その屋根の中に入り雨脚を避けると、すぐにバッグを濡らしていた雨水をポケットの中に入れておいたハンカチで拭き取った。

 周りには同じように持ち合わせのものでここへと逃げ込んだ、女子高校生や男子中学生の姿がちらほら見える。そのうち一人の女子高生はケータイを取り出し、親へと連絡を取っているようであった。

「いきなり雨が降ってきちゃって。お母さん、お願い。迎えに来て?」

 その女子高校生はうん、うん、と応答してから、

「ありがと、じゃあここで待ってるから。はーい」

 と応え、ケータイを鞄へしまった。色々なキャラクターのストラップがついて、微妙に濡れかかっている小さな黒いバッグの中にだ。

 智は自分のバッグの雨水を拭き取った。

 既に染みてしまったものは休日に天日干しして乾かそうか。現時点では染みたものは対処の仕様が無い。

 智はバッグと女子高校生から目を離した。

 すると。

 そんな智の目の先――街頭樹の下に一人の少女が立っていた。

 レンガの歩道の上にただひとりで、ぽっつりと。傘も差さず、彼女の着ている純白のワンピースはずぶ濡れになって、着ている黒い下着が透けている。そんな状態でも、何か持ち合わせのもので濡れることを避けず、アーケードにも入ることをしないで何をしているのだろう。

 見たところ何も持ち合わせず、ただ動かずに立っているだけ。手も、足も、顔も何も動かしていない。

 何のつもりだろう。

 智は彼女からさっと方向を変えて、商店街の中にある傘屋に向かう。

 また変人の類だろうか、

 だんだん雨脚が強まり、自力で帰るためには、流石に傘が必要だ。バッグはだいぶ浸水が進んでいる。重さと染みた物は同義だ。

 数歩歩いて進んだところで自分のバッグを右脇に挟み、そこから全速力で走りはじめる。

 何故かそのとき、街頭樹の下でずぶ濡れのまま佇む彼女のことが脳裏を過ぎった。

 まだ濡れながら動いていないのだろうか。何故動かずに濡れたまま立っているのだろうか。そんな見知らぬ彼女に対する心配が心を揺さぶる。あの街頭樹は雨除けにならないことぐらいは、この近辺に住んでいる人たちの常識だ。それを知らずに雨宿りをしていても、絶対濡れた時点で気づくはずなのに……。

 考えても何の意味にはならない。応えは彼女に直接聞けばいいじゃないか。

 そう後で聞けばいい、と結論付けて思考を止める。

 智は思考と同時に足を止めて辺りを見回した。

 そこは大場傘店――創業百二十九年の由緒正しき傘屋。智はここに傘を壊したり無くしたたびにやってくる。

 横開きの扉をがらがらと音を立てて開け、室内へと入った。

 土間の上に修理用の工具が散乱した作業机が一つと、商品の傘のスタンドが何十本もある小さい空間だ。

 智が店内へと足を踏み入れると、それを察知してか奥の住居スペースからのれんを潜って一人が出てきた。

「いらっしゃい。また傘を無くしたのかい?」

 そう入店と同時に優しい声色で聞いてきたのは現店主の篠山文恵、通称フミ婆、その人である。

 智が物心着いた頃からいかにもおばあちゃんというような風貌で、近所の子供たちからは好かれている存在でもある。智も子供のころはここへ来て、折り紙や紙風船とかで遊んだものだ。

「いや、今日は忘れたからビニール傘を買いに来たの」

 智は入り口近くのバケツの中にぎゅうぎゅう詰めに差されているビニール傘を引き抜こうとする。柄を持って勢い良くひっぱり出すと、つられて周りの傘もひょっこりと外へと出てきたので、それを底へと押し込みつつ中央部にあった一本を丁寧に取り出す。

 しかし、なかなか抜けない。

 その一本を取るためにフミ婆にも手伝ってもらい、ようやく引き抜く。

「うぉっ!」

 傘の抜けた衝撃と共に、智とフミ婆は土間に尻餅をついた。智は何も無い普通の痛みであるが、フミ婆には堪えるようで、尻餅をついたそのままの姿勢から動いていない。

「フミ婆、大丈夫?」

 もうご高齢のはずのフミ婆が尻餅をつくのは智のような若者と違って一歩間違えば命の危険にも繋がる。フミ婆を起こそうと手を差し出すと、フミ婆は智の手を払いのけて、自分自身の力で立ち上がった。

「ふん、まだ私を年寄り扱いするんじゃないよ」

「ごめん」

「その言葉自体、私をもう年寄り扱いしとる」

 平謝りが伝わったようだ。フミ婆は智を横目で睨んだ。

 本当にこの人は恐ろしいおばあちゃんだ。本当にごめんよ。

「それで、二本も買うのかい?」

 智は瞬時にはその言葉の意味することが分からず、フミ婆の目の先にある土間に置かれている引っこ抜いたビニール傘を見る。そこにあるのは二本のビニール傘だった。

「お前さん、二本も引っこ抜いて何に使う?」

 勿論智が自分の帰宅のときに使うのみだから、傘は一本しか使わない。

 一緒に引っこ抜けてしまったのだろう。そのもう一本飛び出た傘を、智はバケツに仕舞おうとする。しかし、脳裏にまた雨にずぶ濡れになった彼女を再び思い出した。

 そうか、自分と彼女の分で丁度二本だ。

 智は戻そうするのをやめて、その傘と土間に置かれた傘を二本握り、フミ婆へと差し出す。戻そうとしていたのにやめて、何故二本差し出すのかなのか分からない様子のフミ婆はあからさまに困惑した表情を、智とそのビニール傘に向けていた。

「何だい、この二本は」

「僕が二本買うよ。いくら?」

「二本も買うのかい。なら、三百円でいいよ」

 智が財布からお金を取り出し、それを渡されたフミ婆は静かに作業台の上に置かれたレジスターへと向かう。その間にバケツを見るとビニール傘は確かに“一本”三百円と書いてあった。

 おかしい、確かに僕が渡したのは二本なのに。

「あれ、二本は六百円じゃないの?」

 フミ婆は静かにそれに応えた。

「……お前さんのことだ、誰かに差し出すのだろう。それくらいずっとお前さんを見ていて分かるよ。だからその人の分はまけてあげる」

 フミ婆は微笑みながら二本を智に差し出した。

「サンキュ」

 智はそれを受け取るや否や、彼女にいた街頭樹まで全速力で駆け始める。商店街に閉まる数々のシャッターは背景に同化し、その灰色の面を疾走した。傘店までの行きの道程で駆けて行った道を急いで戻り、智はアーケードの所で立ち止まる。

 辺りを見回した。

 智が見た女子高校生は既にいなくなっていた。恐らく母親に迎えに来てもらったんだろう。

 そして、街頭樹の下、彼女は動かずそこにいた。

 智は唖然とする。

 何故、そのまま動かず濡れているんだろう。服ももうずぶ濡れで寒いだろうに。

 智は右手に持った二本のビニール傘のうち一本をぽんっと勢いよく差し自分自身の身体を雨から護って、もう一方のビニール傘を左手に持ち替えた。

 そのまま雨脚の強いアーケードの外へと静かに歩き出し、街頭樹の下にいる彼女の側へと立ち寄る。彼女は樹の方向をずっと向いている。その姿はじーっと同じ方向を向いていて、全く動く気配すらない。

「あの、そこのあなた」

 下手なナンパみたいな話し方と化している。これじゃ向いてくれるはず無いよな、と思っていた矢先、

「はい」

 彼女は言葉を呟いた。それに伴って、今まで見せていなかった顔を智の方向へと向ける。

 凛としたいかにも大和撫子といった顔つきと、耳に白いヘッドホンのような電子機器を付けて、それに相反するかのように存在する雨に濡れていてたらーっと腰の辺りまで伸びた長い黒髪。それと黒い下着が透けている白いワンピースが調和して何とも言えない感じを醸している。

 要するに僕のタイプだ。ここに神は舞い降りた!

「何でしょうか」

 思考は考えずに無機質な声で智へと語りかける彼女。

 顔だけは智の方向に向けていたが、足も智の方向へと移動させ、完全に向きあう形へとなる。それもじーっと濡れた唇と顔を智へと向けて。それと同時に、前方のワンピースも濡れていて彼女の胸も透けている。

 どれだけ僕の好みに合わせてくるんだ!

「えっと、何で雨避けもしないでずっと動かなかったの?」

 垂直に疑問だったことを聞く。彼女は依然として智の方をじーっと向いている。

 そんなに見つめても何も僕から出てこないぞ?

「……私はこの雨に濡れるためにここに来たんです」

 その淡々と告げられた言葉に意表を突かれる。

 濡れるために来た? その意味が智には良く分からない。だからと言ってもずっと濡れていることは無いだろう。

「ここを動かないことが私に課せられた命令ですので」

 命令? 一体誰が何のためにこんな可憐な彼女をずぶ濡れにしようとしたのか。憐れも無い姿にしてまで。どれだけその命令をした奴は彼女をいたぶりたいのだろう。

「申し送れました、私は気象庁第二気象観測室所属気象観測員、篠宮香奈。あなたと違ってこの仕事の為に開発された有機生命体型ロボットです」

 えーと、意味が分からないんですけど。まさかそーゆープレイとか? ご主人様に命令されて、とか。

 思考の最中、いきなりぽーんっと電子音が彼女を中心として周囲に鳴り響く。連続して三回である。

 な、何だ?

「あなたの思考をスキャンしました」

 え? とか言って、ロボットって言って不思議ちゃんを装うつもりだろうか。騙されない、騙されないぞ。きっと今の電子音もどこかで流したに違いない!

「私は不思議ちゃんでもプレイを強要をされている訳でもなく、それが事実なのです。私、篠宮香奈は気象観測用ロボットなのです」

 分かった、心をスキャンできるってのはひとまず置いておいて、そう仮定しよう。なら何でずっと同じ場所に佇んでいたんだ?

「ひとまず置いておかなくても、スキャンは自動的にされます。そして答えですが、気象を観測するために一日一回決められた時間帯に一時間、決められた場所に行かなくてはならないからです」

 ぴーぴーぴー。

 彼女がその言葉を告げるのと同時に、どこからか警告音にも似た電子音が鳴り響く。

 直前の電子音とは違い、発音元は断定できる。耳に付けられたヘッドホンからだ。

「もうそろそろ、気象庁にデータを送る時間ですね。ちょっと待っていてください」

 そう言ってから顔を智の方向から真上に、そして同時に右手を真横に展開させ――小さく呪文のような言葉を間切れ無く唱える。東経やら北緯だの座標軸を表すための言葉らしい。さっきまでの彼女とはまるで口調が違う。

 その発される呪文は、智には何も意味が理解出来ない単語ばかりで、それがどばどばと彼女の口から溢れ出る。

 しばらく経ってからその呪文が止まり、今度は気象データを呟く。こちらは普段のテレビ番組で発されるような言葉でだ。

「篠宮香奈より気象庁本部へ、篠宮香奈より気象庁本部へ。只今七月十七日午後五時〇〇分、雨の予報ですが、予報どおりに作動しています。誤作動はありません。繰り返します、篠宮香奈より気象庁本部へ。只今七月十七日午後五時〇〇分、雨の予報ですが、予報どおりに作動しています。誤作動はありません」

 彼女の真横へと伸ばした右手に木の葉から雫が垂れてぴしゃんと手の甲の上で跳ねる。

 その雫は手からまた地面へとそのまま落ちていった。

「データの転送を終了します」

 言い終えると同時に右手を元の位置へと戻し、顔を智の方向へと戻す。完全にきょとん、と呆然の状態で立っている智に対して彼女はにっこりと微笑んだ。

 もう女神だ、今の僕なら彼女に魂を売ってもいい。

「それで、何でしたっけ」

 彼女はようやく元に戻った優しい口調で智に問いかけた。

「何で佇んでいたか、だよ」

「それは一定時間同じ場所にいろ、と命令されているからです」

 そう言え、と命令されているかのような淡々とした話。

 彼女は智に向いているものの、何度もそう言えと言われているかのような虚ろな瞳。

 だって信じられない。こんな可憐な彼女がロボットであるわけがないのだから。

「だからロボットだといい加減信じてみたらどうですか。それとも私は信じられないんですか?」

 さっきの虚ろな瞳とは一変、うろうろとした目で見つめられる。

 そんな目で見られたら信じる以外ないでしょ……。反則だよ、反則。あ、でも。

「そうやってずっと動かないで一人で佇んでいて寂しくないの?それに寒くないの?」

 智がそう問うと、彼女はそれは当然だ、とばかりに静かに呟いた。

「それは勿論。でもこれが仕事ですから……流石に下着が透けるのは嫌ですけどね」

 自分の下着が透けていたことに気づいていたようだ。まぁ当然だろう。あれだけ透けていれば誰もが見ていくことに違いない。

「まさかあなたも見てましたか? いやらしい」

 あ、そうだスキャンされるんだった……

 彼女は智に見られていたことが分かり、両手で胸元を隠した。

「そうですよ。もう見るなんて」

「ロボットなのに考えることが出来るんだ」

 智はふと思ったことをすぐに吐露してみる。

「はい、私は家庭用のものではありませんので」

 ふーん、そうだったんだ。

 智は知らなかったことを教えてもらい、自分自身の脳内辞書レベルアップを果たす。

「それで、寂しいのにそれでいいの?」

 透け下着の話を折って智は強制的に話を変える。

 そしてようやく、左手に持っていたビニール傘を彼女へと差し出した。

「えぇと、これは?」

 困惑した表情を僕の方へと向ける。そりゃいきなりだし。

「雨除けに使って」

 智が差し出したその傘を彼女は隠していた手を離し、右手で受け取り差した。これでこれ以上濡れることは無いだろう。

 これで良かった、のか?

「ありがとう、ございます……。こうやって他の方から好意を貰ったのは初めてなのもので」

 照れながらも、感謝の意を告げる彼女。

 もう、そういうのはいいのに。

「それでいいのってことですが、そうやって一人で佇むしかないんですよ。私がここまで他人の方と話すことなんてあなたが初めてなんです。他の人たちは私なんか構ってくれません」

「そうなんだ……なら、もし良ければこれからこうやって一人で立つとき、寂しくないように僕が隣にいて話をしようか?良ければ、だけれど……」

 言い終わってから、智の言ってしまった言葉の真意に気づく。

 あれ、いきなり大きいこと言ってないか?

 気づいてから彼女を見るときょとんと瞳を大きくして立っていた。

 そりゃあそうだよな、見ず知らずの人に言われたんだから。

 しかし軽快に返って来たのは予想外の言葉であった。

「はい、ありがとうございます! 戸松智さん、これからよろしくお願いしますね!」

 えーと、まず何で僕の名前を知っているんですか?

 こうして、彼女と智ははじめて出会ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る