第9話:伏魔殿
「随分と思い詰めた顔をしていらっしゃいますね?」
フリックの言葉にあえて返事をせず、グラスの水に口をつける。フリックが言葉を続ける。
「ニコラさんの件は、残念でした。お悔やみ申し上げます」
「――ッ!!」
その言葉を聞いた瞬間、左手にあったグラスが派手な音を立てて砕け散った。気まずげに視線を逸らしたところに、バンが歩み寄る。
「手ぇ見せな。ガラス片が残ってるかも知れねぇ」
無言のまま、大人しく手を差し出すウォルズ。白衣の下から出した救急用の道具でガラス片を取り除き、消毒のあと包帯を手際よく巻いていく。処置が終わったその手を、ぼんやりと見つめる。
「何か、あったのですか?」
「色々とね……悔やみも怨みもすることが。だが、どうしようもない。貴族の騎士様が一枚噛んでるんじゃあな」
「それはまた、随分と業が深そうなことで」
右の拳を左手に納め、俯く。そんなウォルズに、フリックが語りかける。
「ところで衛兵さん。貴方は『悪魔』という存在を信じますか?」
「……悪魔?」
「ええ、人に災厄をもたらす邪神の使いです。その悪魔と契約をすれば、願いを叶えてくれる、とも言います」
カウンターの下から何かを取り出し、ウォルズの前に差し出してきた。何かと思って見てみれば、木製の小振りの箱。表面に刻まれている緻密で幾何学的な模様が、禍々しい雰囲気を醸し出している。
「これは?」
「『悪魔の匣』と呼ばれている魔導具です。願いを書いた紙と金を入れて蓋を閉めると契約完了。悪魔が願いを叶えてくれると言われています」
うっすらと感じていた不吉な空気が、ウォルズを惹きつける魔性に変わる。まさに悪魔の誘惑が、今目の前にある。
「ご所望なら、差し上げますよ?」
生唾を飲み込み、そろりそろりと右手を伸ばす。だがあと少しというところで、手を止めた。その手の平を見て、強く握りしめる。
「……丸投げは、出来ねぇな」
「ほう?」
興味深げなフリックの呟きを余所に、ウォルズは吐露する。
「気は楽かもしれないが、それだけじゃ俺の気が晴れねぇ。力は借りる必要があるかもしれない。全部始末するには俺一人じゃ力不足だ。だが、やっぱり自分の手で
「それが何を意味するのか、分からない貴方ではないと思いますが?」
「法に背くのは分かってる。だが、法に従っていてはケジメがつけられねぇ」
「ほう……悪魔に身を落としますか。闇の世界の住人になるおつもりですか。よろしいのですか? 一度足を踏み入れれば、そう簡単に足は洗えないかと思いますが?」
視線を上げる。穏やかに浮かべる微笑は無い。何かを見定めるような目だ。そんなフリックに、毅然と返す。
「……構わない。欲に耽って、死なずに済んだ人を平然と殺しておきながら裁かれず、のうのうと生きていやがる悪魔が、既にいる。悪魔を消すためなら、悪魔にもなろう」
厳かに宣言し、フリックを見据える。息もつけないような沈黙の中、フリックとウォルズの視線が真正面からぶつかり合う。
どれくらいそうしていただろうか。恐らくそう長くはないだろうが、張りつめた空気が妙に長く感じさせた。
不意にフリックが口の端を歪めた。
「フフフ、その意気やよし。さて、最後の確認です。本当に、よろしいのですね? 引き返すなら今の内ですよ」
「ああ」
「では、悪魔に示してください。貴方の意志を」
フリックの手により、箱の蓋が開けられる。ウォルズはポケットの中から、クシャクシャに丸まった紙と巾着袋を取り出す。ピーターが隠していた秘密のメモと、彼から返された金だ。金にしても形見のように思ってしまい、ついぞ手をつけないまま残っていた。
未練を振り払うように、勢いよくそれらを箱へと突っ込む。
「獲物はセイレス商会、及び衛兵ヘンドリク・コルゼリア・ハークリット。セイレス商会はくれてやる。だがヘンドリクだけは譲らない」
宣言と共に、蓋を閉める。その瞬間、何の前触れもなく箱から火が吹き出した。一瞬で炎が消え、そして箱も消えた。
――その瞬間。部屋の空気が一変した。室内に殺気が充満しているのを察知し、ウォルズの全身に鳥肌が立つ。
「……ん?」
微かな音を拾い、視線を向ける。カウンターの角に、消えたはずの箱が何事もなかったかのように鎮座していた。疑念を浮かべる間も無く、バンが歩み寄って箱を掴む。
「チッ、俺じゃねぇ」
「違った」
「同じく」
バンからシュウ、そしてリーゼへと投げ渡されていく悪魔の匣。リーゼが再び、ウォルズの前へと箱を置く。
「では、私ですね」
フリックが箱に手を添えると、鍵が外れるような音が小さく響いた。蓋が開けられる。中に入っていたのはやはり、自分が入れた紙と巾着袋。フリックがカウンターに中身を広げる。銀貨十枚だった。
「商会の獲物は四人。頭取ウラジーミル・セイレスと、人攫いの実行犯が三人。調べはつけたよ。ロドリゴ、マルクス、オーギュストだ」
「なら、ロドリゴでいくか」
「アタシはマルクスで」
「俺はウラジーミルだね」
「では、オーギュストですね」
口々に言いながら、各々銀貨二枚を手に取っていく。
「……何なんだ、アンタらは」
周囲に集まった四人を見ながら、思わず呟く。彼らの目は、信念を湛えた、しかし非常に冷酷で昏い目だった。
フリックが口を開く。
「我々が、件の悪魔の正体です。正確には〈狩人〉なのですがね」
「〈狩人〉……闇に潜む暗殺者か。都市伝説だと思っていたが……」
「怖気付いたか?」
バンが目を向けてくる。ウォルズは鼻で笑った。
「ハッ、まさか。心強いよ」
「お察しのことと存じますが、我々の正体を晒すわけにはまいりません。決して気取られること無きよう、お願いしますよ?」
フリックの忠告に、ウォルズが力強く頷いた。その意志に満足したような声音で、フリックは残る銀貨をウォルズへと押しやる。
「さぁ、後は貴方だけです」
「……ヘンドリク・コルゼリア・ハークリット」
再度宣言し、銀貨をポケットにしまい込む。フリックが告げる。
「では、参りましょうか……今宵の<狩り>に」
草木も眠る夜の闇。その中に人知れず、悪を喰らう悪が解き放たれた。
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