閉幕-2 ここにいない誰か

 美幸は空を見ていた。空を見ている、というのは、なんだかおかしなことのように思える。どこにでもありふれていて、殊更目に止まるようなものは何も無い――雲だとか、何かの機影だとか、時折見かける遊覧飛行船だとか――そんなものをただ凝視するというのは、簡単に出来ることではない。凄まじい集中力か、もしくはとんでもない怠惰がなければ、到底不可能なことだろう。少なくとも彼女には、真似出来そうにない。

 ならば、自分が見ているのは空ではない、と彼女は思う。薄く白んだ青空と、まばらに浮かぶ雲のあわい《 ・・・》に、何かを探している。今ここにはない何か、あるいはここにいない誰か。それが記憶の残滓なのか、無意味な想像なのか、彼女には分からないけれど。

(多分、きっと)

 薫も同じだったのかもしれない。美幸と同じように、彼女もあのあわい《   ・・・》に、何かを見ていたのかもしれない。恐らく、彼女にしか見つけられない何かを。ただ、探していたのだ。それだけは、美幸も薫も変わらない。

 空と屋上を区切る鉄柵にもたれかかって、美幸は瞼を閉じた。

 日差しが暖かい。春の盛りが過ぎ去ろうとしているのが、肌に触れた風で分かる。雑然としたこの街にしては、珍しく空気が澄んでいる。降り続いた雨のせいかもしれない。雨粒は花を散らせ、復興の終わらない街に満ちる粉塵を洗い流したのだろう。

 ならば、果たして染み付いた血の匂いは洗い流せるものなのかと、ふと考える――

「――霧島先輩?」

 振り返ると。

 少女が一人、立っていた。少し険のある眼差し。いつかと同じく、長い黒髪を後頭部でまとめている。

「相田さん」

 点在する水溜りをかわしながら、彼女――相田千賀が歩いてくる。

「先輩も日向ぼっこ?」

「えと。はい、そんなような」

「そっか」

 美幸と並ぶように、彼女は柵に背中を預けた。

 隣に立って、初めて千賀の背の高さに気付く。いや、はっきりしたのは、美幸自身の背の低さか。十センチは違うのではないだろうか。細くしなやかな身体は美しく、それでいて愛らしさを失っていない。確かに彼女は魅力的だろう。美幸がもし男性だったのなら、決して捨ておかないに違いない。

「……なに?」

「あ、いえ。ごめんなさい」

 慌てて目を逸らす。いぶかし気な視線が、頬に痛い。

 どう誤魔化したらいいものかと考える。いっそのこと、単刀直入に訊いてしまった方が後腐れもないのかもしれない。冷静に考えれば、滑稽この上ないことではあったが。

「先輩は、屋上よく来るの?」

「えっ……あ、いえ。ちょっと、待ち合わせの時、とか」

 ぴん、と形の良い眉毛が持ち上がる。

「へぇ。そうなんだ」

「相田さんは、どうして?」

 千賀の視線が、美幸を離れた。行き先を追っても、あるのは溜まった雨水に映る雲ばかりだった。

「ちょっとね。行けって、言うから……芦谷が」

 唐突に上がった名前ではある。ようやく登校できるまで回復したということなのだろう。美幸は少しだけ、ほっとする。彼を責める気持ちが、無いといえば嘘になるけれど。

「あの。ありがと、先輩」

 突然の言葉。

 ふわふわと浮いて、受け止めるのに時間がかかる。

「えっ、私ですか?」

「だって、あなたと神宮司のおかげなんでしょ。わたしが今こうしてるのは」

 思わず美幸は首を振るが、彼女は手のひらを見せてそれを押しとどめた。

「自分で首突っ込んだのにね。散々偉そうなこと言っといて、これだもん」

「いえ、そんなこと――すいませんでした」

 苦笑交じりに、今度は千賀が否定する。その仕草はどこか大人びていて、少し寂しそうにも見えた。どうしてなのか、分からないけれど。

「……先輩の方は、怪我、大丈夫?」

 問われて、どの傷のことなのかしばし考える。その程度には回復していたのだけれど。

 ブレザーの上から、鎖骨の辺りに手を当ててみる。もう違和感はほとんど無かった。傷跡は残るらしいが、現状、日常生活に不自由はない。体育の時間が憂鬱なのは、今に始まったことでもない。

「私はもう、全然」

「そっか。良かった」

 千賀は頷いた。その表情に、もうあの時の虚しさは残っていない。

 本来ならば、彼女こそが大きな傷を被っていたはずなのだ。それこそ、命を失っていてもおかしくはなかった。

 だが、そうはならなかった。千賀は今も変わらず、真実何が起きたのかさえ知らないままに、笑っている。

 彼らがいたから。

 出鱈目な真似を易々とやってのける。日本刀一本で、爆弾を微塵に切り刻むような。人間離れした、超越の者達。彼らがその宿命として狩り続ける、人ではないか《・》。

 あの時見たものが、聞いたことが、果たして本当に現実だったのか。嫌というほど脳裏に焼き付いているはずなのに、それでも美幸は疑わずにいられなかった。

 何より引っ掛かっているのは。

 剣に導かれて――冗談でも比喩でもなく、彼女はそう直感していた――、御琴の内側へと潜り、彼の全てと溶け合った、微かな記憶。

 憶えているのは、温かいものに抱かれる安堵と、脊髄を貫く快感。

 かつて味わったことのない。その、奇妙な感覚。

 美幸は知らないうちに、深く息を吸っていた。どうして今更尋ねようと思ったのか、自分でも分からなかったけれど。

「あの」

「ねえ」

 吐き出した言葉が、中空で激突した。そのまま墜落し、床で砕ける様子さえ見えたような気がする。

「……は、はい?」

「変なこと、訊くんだけどさ」

 妙に長い時間――本当は、一呼吸もなかったのだろうが。

「霧島先輩って、神宮司と付き合ってるの?」

 どこかで聞いたような質問だった。予想外という点では、未だかつて無いタイミングと質問者だったが。

 必死に情報を整理する。ありったけの精神力で、砕け散る冷静さを拾い集めていく。

「……神宮司君って、相田さんと付き合ってるんじゃ?」

「えっ――え、なっ、な、なんで、なんでわたしが、あんな奴と……別に、そんな好きとか付き合うとか全然ありえないし、あんなマイペース根暗馬鹿、こっちから願い下げっていうか、ただなんか、あの――あっ、や、あの、違う、あの、え? あれ? だっ、だって、芦谷が、だって、神宮司は――え?」

 瓦解していく理性というものを、美幸は初めて見た気がした。先程までの斜に構えたような落ち着きは、一体どこへ行ってしまったのだろう。全く人の事を言えないのは、分かっていたけれど。

「……とっ、とりあえず、落ち着きませんか。私も、あの、落ち着きますから」

「う、うん、そう、そうしよ、うん」

 幾度かの、深呼吸。冷静さを取り戻す。少なくとも、そんな錯覚を覚えられる程には。

「つまり――私達は、その」

「お互いに、誤解してた、ってこと」

 こんなにも気まずい経験は、かつてしたことがなかった。何故か無意味に見つめ合いながら、必死に言葉を探す――

「――二人とも、何してんの」

「ぴ」

 結局出てきたのは、悲鳴ともつかない奇声だった。

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