4-5 神はどこかにいる

「俺はあいつを――相田を、助けたかったんだ」

 康介の言葉は、決意だった。強く固い、意志の響きがあった。

「奴らが言ったんだ。霧島美幸を連れて来れば、相田は解放してやるって」

 その眼には、どこか答えを探し求めるような、悲壮な色が宿っている。

 空はやはり快晴だった。腹が立つほどに。病院の中庭には、消毒液特有の悪臭を含まない風を楽しもうと、多くの入院患者が繰り出していた。柔らかな芝生と、ほとんどの花びらを落とした桜木に包まれて、誰しもが安らかに見える。彼らは己の病や怪我と向きあうのみで、誰かに刃を突き立てられることは無い。それは孤独と苦しみだったが――ある種の安堵にも似ていた。

 御琴はベンチに腰掛けたまま、康介と向き合っている。左脚に残る違和感が、松葉杖を手放すことを躊躇わせた。

「だから俺は、あの人を連れてったんだよ」

 決して座ろうとはしなかったが、康介も立ち続けているのは堪えるはずだった。右の肘を中心に、巨大なギブスが腕を包んでいる。ほとんど開放骨折に近い状態まで損傷した右腕を抱えているのは、それだけでかなり体力を消耗するに違いない。

「こんなことになるなんて、思ってなかった」

 彼が苦しげに言葉を吐いたのは、疲労のせいだけではなかったのだろうが。

 御琴は黙ったまま、康介を見つめていた。

「……なんとか言えよ」

 不貞腐れたように、彼が促してくる。御琴は表情を変えない。どういう訳だか、いつものように軽口で返すことが出来なかった。

「君と、奴らの繋がりは? どうやって奴らは君に連絡を取ったの」

「知り合いが『チーム』にいたんだ。中学の時、そいつから誘われて……でも、そのうち、妙に宗教がかったことを言い出す奴がどんどん出てきて、それで、やめた」

「いつ頃から、そんな風に?」

 質問を続けながら、まるで自分が探偵にでもなったような気分になる。馬鹿馬鹿しい。

「一年ぐらい前。俺は高校に入ってすぐやめてたけど。やめてからちょっとして、『チーム』はヤバイって噂が流れるようになった」

 都内で連続自爆テロが始まったのが、確か半年前だった。彼らが持っていた情熱は、あっという間に暴力を伴うようになっていったのか。

「初めはみんな、普通に生きるのなんてつまらないし、世の中を変えたいって言って、曲作ったり絵描いたり、イベントやったりしてて、ネットとかでも結構話題になる奴もいて、それで俺達すげえってなってたのに、いつの間にか『神』って奴が出てきてさ」

 なるほど確かに、神様はいたのだろう。多くの人を惹きつけ心を揺さぶる、並外れた能力を持った者が。その力を、どうして破壊へと向けたのか。推測するのは容易い事だったけれど。

「その『神』が誰なのか、分からないの」

「わからねえよ。『チーム』って言っても、ネットだけの繋がりの奴もたくさんいたし」

 国内のネットワークは、そのほとんどを警察や政府の調査機関が監視しているはずだった。彼らならば、もう少し役に立つ情報を手に入れられるかもしれない――間違っても部外者の御琴に教えてはくれないないだろうが。

 思い立って、口を開く。

「……前、僕に尋ねたよね。何が楽しくて生きてるんだって」

「ああ」

「『チーム』で、それ《・・》は見つからなかったの」

 さっと、康介の顔に朱が差す。

「うるせえ」

 燃えるような怒りの片鱗。ほとんど八つ当たりだった。

「お前こそ、あんのかよ。生きてる理由」

 御琴は目を伏せて、それには答えなかった。

 ただ質問だけを投げかける。

「もう一つ、訊きたい」

「なんだよ」

 考えていたことだった。あの夜から――美幸と出会った夜から、ずっと。

「君は、どこまで憶えてる? 霧島さんを、あのバーまで連れて行ったこと」

 康介が動揺したのは、明らかだった。固かった眼差しが泳ぎ始める。

 何故なのか。御琴はその理由こそが答えだと、思っていた。

「……ホールに霧島美幸が中に入ったのを見て、俺はドアを閉めた」

「それで?」

 康介は唾を飲んで、唇を湿らせる。

「待ってた。『チーム』の誰かが来るのを。相田の所に連れてってくれるはずだった」

 御琴は真っ直ぐに見つめて、問いかけた。

「実際に、誰か来たの」

 少しの間、沈黙があった。風が吹いて、そして止むまで。

「誰かに肩を叩かれた。振り向こうとして」

 細い眉が歪む。偏頭痛を堪えるように、彼はこめかみに手のひらを当てた。

「そこから先は、憶えていない?」

「……ああ」

 康介が首を縦に振る。予想通りの答えだった。

 彼ら――康介や、あの夜、御琴と美幸を襲った青年達、聖堂カテドラルで美幸を私刑にかけた連中は皆、記憶というか、自我のようなものを失っていたらしい。意識を無くした人間の肉体が、何故あそこまではっきりとした意図を持って、しかも一斉に動くのか。理由を想像するのは容易かった――有り得そうもない、という一点に目を瞑れば。

 つまり。

 神はどこかにいるのだろう。彼らには知り得ないどこかに――そして、見えない糸で、意識を失った人間を弄んでいる。

 あたかも人形を操るかのように。

「おい」

 夢想は、苛立ちにかき消された。

「それだけ《・・・・》かよ。神宮司」

 康介は真剣だった。心底腹を立てている。

「俺に言いたいことがあるんだろ。だから呼び出したんじゃねえのか」

「用件は済んだよ」

 御琴は言った――

 途端に、襟首が締まった。

「ふざけんな。てめえ、なんなんだよ」

 利き手ではない左手で掴んでいるにしては、大した握力だった。

 苦しいのは首というより、中途半端な姿勢を保たなければならない脚である。左の太腿に、じわりと温かいものを感じた。

「なんでだよ。ムカついてんだろ。違うのかよ。霧島美幸を連れ出したのは俺なんだぞ」

 体温が下がっていくような、冴え冴えとした心地。

 これは怒りなのだと、御琴にも分かっていた。だが、今更ぶつけたところで何になる。

「いっつも澄ました顔しやがって――余裕ぶってんじゃねえよ!」

 康介の腕は入院着の下で震え、筋肉が張り詰めている。いかにも力に満ちて――だからこそ、簡単に砕けてしまいそうだった。

「ふざけんなよ! なんなんだよ! てめえがしっかりしてりゃ、こんな事にはならなかったんだろ!」

 彼は唇を噛み締めている。それこそ血が出そうなほどに。

「てめえがあの時、相田をちゃんと待ってれば――」

「――芦谷君っ!」

 悲鳴が耳をつんざいた。

 振り向けば、どこからか響子が走り込んできている。康介の腕を抱え込み、彼女はいつものように叫んだ。

「やめなさい! どうしたの!?」

 いくら女性の細腕とはいえ、片腕一本で振り払えるほど康介は頑健ではなかった。

 引き剥がされた康介と御琴の間に割り込んで、響子が吠える。

「怪我人同士で何してるの! 先生怒りますよ!」

 既にこれ以上無いほど興奮しているように、御琴には思えた。指摘したところで、怒りが収まるようにも見えなかったが。

「どけよ、響子ちゃん」

「だ、ダメです。先生許しません」

 許さないのは康介も同じようだった。言葉だけでは、引き下がりそうにない。

 御琴は少しだけ考えて――響子の肩を押し退けた。

「もう一本の腕も折ってやろうか」

「神宮司君っ!?」

 響子の叫びを無視して、彼は冷たく言い放った。

「気が済まないんだったら、足も折ってやる。両腕、両足、次は肋骨か?」

「てめえ」

「霧島さんはな……顔中傷だらけにされたんだ。たくさんの人殺しも見せられて」

 気付けば、手が震えていた。五本の指を確かめるように、ゆっくりと握りしめていく。

 御琴は康介を――その向こう側の、遠い何かを睨みつけた。

「お前の骨なんかでそれがどうにかなるなら、いくらでも折ってやる」

「――――っ!」

 思ったよりも、重い衝撃だった。

 鼻の奥にきな臭さが広がって、後から痛みがやってくる。右眼窩の奥から、刺すような痛苦。奥歯に力を入れて、波のように襲ってくるそれを耐える。

 そして御琴は、もう一度康介の眼を見据えた。

 見たことの無い色だった。意志の強張りは影を潜め、揺れるような後悔と、慣れない肉の触感への怯えと――感情は目まぐるしく変遷する。

「だ、大丈夫、神宮司君!?」

 すかさず響子に、顔を挟み上げられた。彼女の手が赤く濡れているのを見て、眼窩からの出血がまた始まったことに気付く。

 御琴はとりあえず頷いた。視線だけで、怒鳴り声をあげようとする響子を黙らせる。これ以上頭蓋を揺さぶられるのは御免だった。

「なんで相田は、お前みたいな奴が――」

 言いかけて、口をつぐむと。康介は御琴から目を背け、身を翻した。

「ちょ、ちょっと、芦谷君――」

 制止の声が届くはずもない。

 入院着の背中は、見る見るうちに遠ざかっていった。

 不意に苦笑が湧いて来る。頬が持ち上がった途端に、その内側が痛んだ。どうやら口内も切っているらしい。

 訳が分からなかった。自分自身の行動が説明出来ない。どうしてこんな結果になってしまったのか。やりようはいくらでもあったはずだ――それは長い間、思っていたことだった。後悔など何の役にも立たない。反省さえ似たようなものだ。過去は取り戻せない。命は還ってこない。

「……大丈夫?」

 響子の気遣いが妙に大人しい。肩に置かれた手も、どこか遠慮めいていた。

「はい。全然、問題ないです」

 御琴は無造作に、彼女を遠ざけようとする。

 その手が、掴み取られた。

「嘘」

 意表を突かれて、動きが止まる。

「先生、分かるんだから」

 言いながら、彼女は腕に下げていた黒のハンドバッグからハンカチを取り出した。真っ白い布には、細やかな百合の刺繍が施されている。

 頬に当てられると、微かに甘い香りがした。

「血が出てる」

 眼帯からこぼれた血を吸って、ハンカチは瞬く間に赤く染まっていく。

「なんだか、泣いてるみたいだね」

 どうして彼女はいつも、狙ったように的を外すのだろう。いや、きっとわざとやっているに違いない。でなければ、こんなことを言えるはずがない。

「……そうですね」

 鳩尾の辺りに、力を篭める。そうしなければ喋れる自信がなかった。

 知ってか知らずか、響子が眉をひそめる。

「ごめんね。お見舞いに来たんだけど……タイミング悪かったかな」

 中庭にはもう、康介の姿はどこにもなかった。病棟から、看護師が出てくるのが見える。誰かがナースステーションに一報を入れたのかもしれない。

 御琴は答える事さえ面倒になって、何も言わずに首を振った。

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