第8話 病院
病室のベッドに寝ている留美を眺めていた榎戸の耳に激しい足音がきこえてきた。
「留美ちゃん!」
叫び声とともに銀河が飛び込んできた。
「大丈夫だよ。肩をかすっただけだ」
銀河が安堵のため息をつく。
「取り調べは終わったのかい」榎戸がジュースを渡す。
「ええ」銀河がうなずいた。
病院に留美を送ってからともの大変だった。
追いかけてきた警官の事情聴取を受けていたのだ。
ニューライフの工場はクオルとなのる集団に占拠されてしまったのだと。
その対処に追われていたため、署は榎戸の連絡にこたえることができなかったのだ。
きのうの夕方、五千万人の命と引き換えに百兆円を要求するメールが官邸に届いた。
しかし、いたずらメールだと思った担当者はメールを上司に伝えることはなかった。官邸ともなれば、一日に何十件も似たようなメールが届くのだ。無理もない。まして、五千万人の命を預かるなんてできるわけないと思ったのだ。しかし、それは可能だった。
一時間ほど前、警察は人工心臓製造所が占拠されたことに気づいた。このままでは人工心臓が必要な人、いま現在使用している人のメンテナンスができなくなってしまう。世界中に散らばったその数はじつに五千万人にせまると。クオルは間接的に世界で人の命を人質にとることに成功したのだ。
高度な技術を必要とする人工心臓の製造はニューライフ社の真紀がいる工場でしか製造されていない。これは、もはや日本だけの問題でない。世界中の人間の命を握っていることになったのだ。
留美を手術室に送り込んだ榎戸は追ってきた捜査官に銀河に引き離された。榎戸が工場にいた理由を疑われていたのだ。慇懃無礼な捜査官たちに頭にきながらも、榎戸はきょう一日の行動を説明した。
幸い、銀河に対する疑いは消えたが、榎戸は銀河を見張っておくよう命じられてしまった。
「うぅ……」留美がうめき声とともに目を覚ました。
「留美ちゃん!」銀河が語りかける。
留美が不安げにあたりを見回している。自分になにが起こったかわかってないのだろう。
「大丈夫? 痛くないかい?」
留美は戸惑いながらもうなずいた。「……おかあさんは?」
なんと言ってあげればいいのだ。榎戸は言葉につまった。まさか、人質に捕られて工場に監禁されているなんて言えるわけもない。
「……まだ帰ってこれないんだ」銀河がささやく。「けれど、必ず帰ってこれるから、もう少しまってほしい」
「なんで帰ってこれないの?」留美が詰め寄る。
「不具合で工場が開かなくなっちゃったんだ」
「不具合?」
「ああ。たまにドアが開かなくなったり、エアコンがつかなくなったりするだろう? それと同じように工場のドアが開かなくなってしまったんだ」
確かに。ハウスによって家の制御ができるようになってから、ごくまれにだが、ドアが開かないなどの不具合が起こることがあった。そうときは電源を落とせばだいたいのことは解決する。
「……そう」
留美は納得していないようすだったが、それ以上質問を重ねようとしなかった。おそらく、銀河が嘘をついていることを感じたのだろう。自分を守るためのやさしい嘘を。
「いまはゆっくり休みなさい」
「これ」留美が傍らの台に置かれていたポーチから小さな銀色の缶を取りだした。「おかあさんの薬が入っているの」
「薬?」
留美がうなずく。「出てきたら、渡してあげて」
「わかったよ。工場で作業をしている人に渡して来るね」受け取った銀河は部屋から出て行った。
「お、おい!」あわてて追いかけた榎戸が廊下を歩いている銀河をつかまえる。「どうするつもりだ」
「なにがですか?」
「薬だよ。まだ真紀さんは工場に監禁されてるんだぞ」
「わかってますよ。けれど、薬をこのままここに置いておくわけにもいかないでしょ」
「それは、そうだが……」
「どれぐらいで解決しそうなんですか?」
「さあな」
「……警察なのに知らないんですか」
「俺は警察に嫌われてるからな」自嘲ぎみに榎戸がつぶやく。
「真紀さん、心臓が弱いんですよ」
「え?」榎戸が驚く。
「自分の心臓が弱いってこともあっていまの仕事についたんです。けれど、真紀さんの症状はまだ人工心臓に対応していないみたいで……。皮肉ですよね。いくら人工心臓を作っても自分の心臓の替えにはならないってんですから」銀河が苦笑する。「とりあえず、工場に行ってみます」
「俺も行くよ」いまの自分の任務は銀河を監視することだ。銀河から離れるわけにはいかない。銀河がこの事件に関わっているとは思っていないが、銀河からなにかしらの情報を引きだせる可能性は残っている。なにせ、彼はここの住人と仲がよく、真紀とも親しいのだ。
榎戸はそう思いながら、銀河のあとを追った。
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