第2話 犯行声明

 早く帰りたい。

 ひと世代前のパソコンを操作しているふりをしながら、立花夕子(たちばなゆうこ)があたりを見回す。しかし、終業のベルが鳴り響いたいまも、室内の人間は誰一人立ち上がるけはいはなかった。

 この部屋は一日中、沈黙に包まれている。仕事に集中しているといえばきこえはいいが、与えられた仕事をこなす以外に能のない人間が集められただけだった。

 日本人は時間に厳しいだなんて、いったい誰が言ったのだろうか。始業時間には異常に厳しいくせに、終業時間を守ろうとはしない。日本で働き始めた外国人が怒るのもむりはないと夕子は思った。

 夕子と目があった隣の席の同僚が気まずそうに視線を逸らした。きっと彼女も仕事を終えたのだが、上司がまだ仕事をしているので席を立てないのだろう。

 夕子は日本人特有の同調圧力が大嫌いだった。自分の仕事が終わったのに、どうして上司の仕事が終わるまで帰るのをよしとしないのだろうか。手伝えることがあるのなら、いくらでも手伝うが、上司を手伝えるほどのスキルは新入社員の私たちにはない。もとい、私たちにはスキルなんて呼べるものはなにひとつないのだが……。

 夕子はため息をついた。新入社員といったって、もう三十二歳だ。結婚して、子供だってほしい。

 高齢化社会により、若者たちが社会にでる時期は遅くなった。大学卒業後、大学院で勉強し、それからさらに職業訓練学校へ通い、インターンを兼ねて就職活動をするのが一般的となってしまった。三十を過ぎて社会にでるのは珍しいことではない。

 発達した医療技術によって人間の寿命はいちじるしく伸びた。その結果、定年と概念がなくなり、年寄りたちはいつまでも働くことになった。彼らは自分の立場、利権を守ることに躍起になって、新しいことに挑戦しようとしない。その結果、社会はどんどん退屈になっていった。

 もっと若い人間、これからの人たちに挑戦する場を与えないといけないのだ。年寄りたちが仕事と金を独占する反面、若者たちはどんどん貧乏になっていった。彼らは親に養ってもらわざるをえなく、養ってもらえない若者たちは貧困から抜け出せない。割を食うのは、いつも下の人間たちだ。

 夕子だって、じゅうぶんすぎるほど被害者だ。

 生活費を除けば、手元に残るお金なんてほんのわずかだ。決して贅沢なんてしているわけではない。浪費だってしていない。いや、浪費するほどの金もないのだ。

 結婚したら働かなくていい。

 夕子の親の世代までは、かろうじて専業主婦とものがあったらしいが、いまの時代には夢物語だ。

 まして、その日暮らしの生活をしている夕子がどうやったら、妻も養えるような男性と巡り逢えるのだろうか。

 どこの会社にいっても、若者はアルバイトと変わらないような仕事しかさせてもらえない。夕子がしている仕事だって、実質アルバイトとなんら変わりない状態だ。会社に不要通知を出されたらその瞬間にこの建物を出て行かなければならない。

 夕子の仕事は日本政府に届いたメールのチェックだった。メールなんて平成の残骸だ。日常生活ではほとんど使われなくなったが、けっこうな数がご意見メールとして国には送られてきていた。 

 いまだにメールしか使えないような人たちの意見を仕分けするのが夕子の仕事なのだ。

 昔はよかった。最近の若者たちはダメだ。最近の社会はおかしい。送られてきたメールのほとんどが、意見とよりも、高齢者からの愚痴に近いものばかりだった。夕子たち、この部屋の人間がそれらのメールに目を通し、有用な意見は報告することになっているのだが、寄せられたメールがこの部屋の人間以外の目に触れることはほとんどなかった。ただ、国に意見を送ったと事実が国民に満足感を与えることができるのだ。

 ちゃんとメールをチェックしていますよ、と体裁を保つためだけの組織だ。こんな仕事、なくなっても誰も困らない。

 それにしても、このメール。

 夕子の視線が表示されているメールを捕らえる。

「五千万人の命を預かった。返してほしければ、百兆円用意しろ。」

 いまどき、こんな脅迫文を電子メールで送って来るなんて時代遅れもはなはだしい。いや、メールでしか送れないような人間の戯言(ざれごと)なのだろう。だいたい、どうやって五千万人もの人間を誘拐したとのか。およそ日本国民の半分だ。それだけの数の人間を誘拐するなんて実質上、不可能だ。身代金も百兆円を要求しているが、ひとりにつき、二百万。決して高い金額ではない。本当に五千万人もの命を捕らえたのであれば、もっと要求するだろうし、今頃、大騒ぎになっているはずだ。特にこの部署ではなにか災害や事件が起こったら、すぐに知らされることになっている。きょうに限っては、交通事故一件、起こっていないはずだ。

 ただのイタズラメールだろう。ここに送られてくるメールはわたしだけではなく、この部署全体で共有されることになっている。こんなメールの処理、わたしがやらなくても、誰かがやるだろう。そろそろ、メール自体がいたずらなのかどうかもパソコンで判断できるようになってほしいものだ。  

そう思いながら夕子はメールを閉じようとした。しかし、表示されたメールに変化はなかった。

 夕子は苦笑した。ここは職場だった。家のパソコンではないのだ。国のパソコンなのに、 思うように(・・・・・)動かないなんて時代錯誤もはなはだしい。夕子はわずらわしそうに手を使って次のメールを選択した。

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