銀河万世

鳴神蒼龍

第1話 青い鼓動

  まだ死なないのか。

 岩田武(いわたたけし)が苛立たしげにタバコに火を点けた。そろそろ死んでもらわないと、こちらの予定が狂ってしまう。

 岩田の姿は路駐した車の運転席にあった。肺が煙で満たされていく。窓から顔をだした岩田があたりのようすを伺う。警官に見つかったらまずい。路駐だけでなく、タバコまで吸っているのだ。

 大人になったらいくらでも吸えるのだから、いまは我慢しろ。学生の頃、教師にそう注意されていたが、結局嘘だった。大人になってもタバコなんて吸えやしない。分別禁煙から始まり、路上禁煙。度重なる値上げ。そして、数年前からは喫煙スポット以外で吸うことは認められなくなってしまった。数年後、タバコを吸うこと事態が違法になる日も遠くないのかもしれない。

 岩田が深く煙を吐く。きょうは大仕事だ。景気づけにいつもよりニコチン率の高いタバコを持ちだした。車のなかでタバコを吸っていることがバレれば、間違いなく警察のお世話になってしまうだろう。世知辛い世の中だ。

 しかし、いまはタバコが必要だ。仕事の前に襲ってくるこの緊張感を紛らわせるにはタバコしかないのだ。

 早く死んでほしい。

 岩田は脳裏によぎった言葉をあわてて振り払った。いつからだろう。人の死を願うようになってしまったのは。職業柄、死に触れることが多いが、死を願うようなことだけはないよう気をつけていたのに。慣れとは恐ろしいものだ。

 岩田がそう思っていたとき、ポン、と音とともにダッシュボードに置かれたライトが紫色に点灯した。

 合図だ。

 車から飛びでた岩田は工具を持って道路を渡った。

 まだ八時を越えたばかりだとのにあたりには誰もいなかった。

 伝えられていた一軒家へ岩田が足を踏みいれる。

 たいそうな門構えの、屋敷と呼ぶにふさわしい風体だった。自分のような人間には一生、住むことのできない、金持ちのすみかだ。金持ちがどうして自分のような人間を呼んだのだろうか。岩田はそう思ったが、すぐにその考えを振り払った。金持ちほど、金にうるさいのだ。だからこそ、彼らは金持ちなのだ。

 どうぞ。

 玄関の呼びベルを鳴らそうとした瞬間、なかから声をかけられた。

 岩田がドアを開けると、そこには四十代後半のやせ細った男が立っていた。

 おそらくこの男が依頼主だろう。岩田は私情をはさまないよう、できるだけ依頼主たちの情報は頭に入れないようにしている。

 靴を脱いだ岩田が男にいわれるままついていく。

 途中、廊下で無邪気に遊んでいる三、四歳の子供とすれ違った。

 まだ、なにが起こったのかすら、わかっていない年齢だ。

 岩田の脳裏に別れた女房が連れて行った娘が脳裏によぎる。別れてから十数年。いまごろ、二十歳を越えているだろうに、いまだに小さな子供の反応してしまう。自嘲ぎみに笑みをこぼしながらも、岩田はすぐにそれを振り払った。

 いまは作業に集中しなくてはならない。できるだけ迅速に仕事を済ませて、この場を後にしたい。それがここにいる人間にとっても一番いい。

 男が襖を開ける。

 い草の真新しい匂いが鼻をさした。いまどき珍しい畳の間だ。

 中央に敷かれた布団には老婆が横たわっている。

 お願いします。そうと、男は部屋をあとにした。

 ありがたい。家族の前で処置にあたることだけは避けたかった。家族がそばを離れようとしないとき、その場を離れるよう岩田は促すのだが、まれに同意しない家族がいる。

 最後まで見守りたいんです。

 初めこそそうが、処置を始めると、ほとんどの家族が逃げるように部屋からでて行った。

 自分だって、家族が処置を施されるところは見たくない。目の前で娘が処置されていたら発狂するだろう。これは、いわば手術なのだ。もっとも、命を助けるためのものではないが……。

 岩田が老婆の首筋に手をあてる。ドクンドクン、と脈を確認することができた。

 よかった。岩田は笑みをこぼした。

 岩田はさっそく処置にとりかかった。

 老婆の衣類を脱がせ、取りだした刃物で老婆の胸部に筋をいれる。

 死んだ人間の体に傷をつけても、出血することはないが、老婆の体からは血が流れた。

 手際良くタオルで血を拭きとった岩田が、老婆の体を押開くと、肋骨が顔をだした。手にしたカッタードリルで肋骨を切っていく。人間の骨は意外と固い。最新のドリルを使っても、ちょっとした重労働だ。

 じんわりと汗をかき始めたころ、室内ににぶい音が響いた。

 肋骨が切れたのだ。

 岩田が慎重に老婆の体から肋骨を取りだし始める。ここが一番の力の入れどころだ。間違って心臓に傷をつけたりしたら大変なことになる。

 肋骨を取りだした岩田は安堵のため息をついた。やっと目当ての物にありつけたのだ。

 笑みを浮かべた岩田の瞳には元気に脈打っている心臓が青く光り輝いていた。

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