第10話 死臭
凛を追って河原へ駆けてきた雷蔵は、岡っ引きたちがほったて小屋から遺体を運びだしているところに遭遇した。
夏が終わろうとしていたが、まだまだおさまらない暑さは遺体を腐敗させるのを手伝っていた。
河原の小屋からはただならぬ死臭が漂っており、集まった野次馬たちもあまりの臭いに遠巻きに眺めるほどだった。
遺体へと近づいていく雷蔵に凛が続く。ここへ来る道中、凛の足の遅さに耐えられなかった雷蔵は凛をかついで駆けようかとすら思ったが、必死に駆けている凛に言葉をかけることはできなかった。それに、ここら一体の道筋に関しては凛の方が詳しい。実際、ここまで来るのに凛は数えきれないほどの抜け道を通っていた。遺体が見つかった場所を聞きながら雷蔵がひとりでやって来るよりも、ずっと早かっただろう。
遺体に近づくにつれ、死臭が雷蔵の鼻をさす。雷蔵は臭いを遮断するすべを身につけていたが、常人の凛がこの異臭をものともせず遺体へ近づいていけるのが不思議でならなかった。
運ばれていく遺体にすり寄ろうとした凛の前に岡っ引きが立ちふさがる。
「勝手に近づくんじゃない! 子供は引っ込んでろ!」
凛が懇願する。「ちょっとだけ見せて下さい! お願いします! ちょとだけでいいんで!」
くいかかってきた凛を岡っ引きが突き飛ばす。
「お前も鬼に殺(や)られちまうぞ」尻もちをついた凛を見た岡っ引きたちが笑いあう。
岡っ引きたちは知らないのだ。凛の母が鬼に殺されたことを……。
「大丈夫か!」雷蔵が凛のもとに屈み込むと、凛は運ばれていく遺体を目で追っていた。岡っ引きたちに蔑まれてもなお、遺体が鬼の手によるものなのか確認しようとしているのだ。雷蔵が遺体に視線を移す。遺体の右腕は欠けていた。肩から先の部分を持ち去られていたのだ。やはり、発見された彼女も鬼に殺されたのだ。凛の母君を殺した鬼に……。
凛がぐっと歯を食いしばった。泣くのをこらえているのだろう。そう思った雷蔵はそっと凛の肩を抱き寄せようとしたが、凛は雷蔵の手を振り払い遺体が発見されたほったて小屋へと駆けだした。
「お、おい!」雷蔵も凛を追う。
異臭に顔を歪めながらも雷蔵が小屋へ入ると、凛は室内を探索していた。
「なにしてんだ?」
凛は雷蔵の言葉にこたえずに室内を捜索しつづけている。
「おい! なにしてんだって!」
「……あたし、鬼を捕まえるの」
「は?」雷蔵が戸惑う。
「……あたし、鬼を捕まえるの。あたしが、……あたしが、母を殺した鬼を捕まえるの!」凛が涙をこらえながら雷蔵を睨む。「だから、……なにか手がかりがないか探してるの……」
雷蔵は動揺した。こんな小さな少女が母君の敵(かたき)をとろうと考えていたなんて雷蔵はみじんも思っていなかった。けれど、思いかえしてみれば雷蔵自身も両親を殺されたとき、両親を殺した人間を殺そうと心を煮えたぎらせたことがあった。親を殺された直後の子供が復讐を心に決めるのは珍しいことではないのかもしれない。
しかし、凛にそんなことをさせるわけにはいかない。勝憲のところに指令が来るぐらいの事件だ。子供の手に負えるような相手じゃない。
雷蔵は凛を説得しようとしたが、必死に手がかりを探している凛にかける言葉はでてこなかった。
かつての自分もそうだった……。復讐のことしか考えていなかった雷蔵は勝憲のもとで修行をするようになり、次第に復讐心をおさめていったのだ。なにかを忘れるには時間がかかる。いまの凛にはどんな言葉も届かないだろう。そう思った雷蔵はため息をつくと凛と同じように部屋を探索しはじめた。鬼退治はそもそも雷蔵の任務だ。鬼の手がかりを求めているのは雷蔵とて同じこと。凛が驚いた表情で雷蔵を見つめてくる。雷蔵が協力してくれていると思っているのだ。その表情にはさきほどまで凛を覆っていた張りつめたものは消えていた。
雷蔵たちは数十分ほど室内を探索したが、手がかりになりそうなものはでてこなかった。あったとしてもすでに同心や岡っ引きたちが見つけて持ち去ったのだろう。
凛はため息をつきながらその場にへたりこんだ。「なんにもでてこない」
自分が必ず鬼を捕まえると雷蔵はいってあげたかったが、忍の自分にとってそれは決して口にだしてはならないことだった。凛の隣に座った雷蔵が告げる。
「きっと岡っ引きたちが捕まえてくれるよ」
いまの雷蔵が口にできる精一杯の言葉だった。岡っ引きが捕まえてくれるのではない。捕まえるのだ。雷蔵が。佐助がいなくて不安だったがこの任務は必ずやり遂げよう。凛のためにも。
落ちこんでいた凛を見た雷蔵は固く心に誓った。
小屋からでた雷蔵は目の前を流れていた川へ凛を連れて行った。二人の体にこびりついてしまった死臭を洗いおとそうと思ったのだ。体には異臭が染みついており、凛が不満も述べずに息をしているのが不思議なほどだった。
雷蔵が川へ入る。冷たい水が足を刺激した。本当は川でなく風呂に入りたいが、体にこびりついた匂いを落としてからでないと風呂屋は入れてくれないだろう。そう思いながら布で体を洗い始めた雷蔵は凛が河原で立ち尽くしているのに気づいた。
「凛、洗いな」雷蔵が凛を促す。
凛は雷蔵の言葉に頷いて川へと足を踏み入れたが、全く体を洗おうとしなかった。自分にこびりついた匂いが気にならないのだろうか。いや。遺体を見たショックが沸き起こってきたのだ。母君の遺体を見つけたときのことを思いだしたのかもしれない。雷蔵は凛の服をまくり、体を布でこすってあげたが凛の表情が明るくなることはなかった。
どうしたら凛の表情に笑顔が浮かぶだろう。いまの凛にはどんな慰めの言葉もむだのように感じた。
そのとき、凛が声をあげた。「空次郎!」
振り返った雷蔵が凛の視線の先を見る。そこには茶色の野良猫がいた。
「空次郎!」
凛が再度、呼びかけると空次郎と呼ばれた猫が凛の元へ駆けて来た。
「なにやってんのよ、こんなところで」凛が空次郎の頭を撫で始めた。
なにをいっても凛は反応しなかったのに……。自分は野良猫に負けたのか。雷蔵が呆れ笑っていると凛が不思議そうに空次郎にたずねた。
「あんた、何持ってんの?」
空次郎はなにかをくわえていた。凛がとりあげると、それは真っ赤なかんざしだった。
「これ、……母がしていたやつと同じだ」
「同じ?」
「うん。……あたし、これで母に耳かきしてもらってたから」
雷蔵が凛からもらった真っ赤なかんざしを眺める。かんざしには耳かきとして使われる種類のものもあり、これは耳かきに玉がついたものだった。
雷蔵が空次郎にたずねる。「これ、どこで拾ったんだ?」
「ちょっと、猫が話せるわけないでしょ?」凛が笑う。
それは初めて雷蔵が見た凛の笑顔だった。よかった。やっと笑ってくれた……。
凛は笑うとなかなか可愛い。雷蔵が凛の笑顔に見惚れていると凛が突然、声をあげた。
「きゃ!」
「どうした?」
凛が怯えながら自分の手を雷蔵に見せる。凛の手には血がついていた。小屋を探索していたときに怪我をしたのか? いや。そうではない。空次郎の持っていたかんざしに血がついていたのだ。おそらく、ほったて小屋で見つかった遺体のものだろう。ということは、このかんざしは遺体のものか?
凛に向きなおった雷蔵がたずねる。
「母君はこのかんざしをどこで買ったんだ?」
「さぁ」凛が首をかしげる。「あたし、わかんないよ。母がかんざしをどこで買ったかなんて」
「……そうか」肩を落としながら考え込んでいた雷蔵が告げた。「じゃあ、このあたりにある装飾屋を案内してくれないか?」
雷蔵の言葉に戸惑いながらも凛はうなずいた。
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