第5話 逃走

 掛け軸から抜かれた山田の手には巻物が握られていた。

 これだ。この巻物こそが自分が探し求めていたものだ。巻物を手に入れた以上、ここにはもう用はない。

 山田が嬉々として部屋からでる。その瞬間、山田の目前を影が横切った。

 なんだ? 一瞬、なにが起こったのかわからなかったが、山田はすぐに自分の身になにが起こったのかを察した。握りしめていた巻物が消えていたのだ。

 山田は反射的に懐へ忍ばせていた棒手裏剣へと手をあてたが、影はすでに消えていた。

 巻物を手に入れたことで油断してしまった。普段だったら絶対にこんなことはないだろうに。

 そのとき、背後に人のけはいを感じた。

 山田が手裏剣を身構えて振り返ると、そこにはお茶を運んできた女中の姿があった。

 山田の姿を見て腰をぬかした女中が悲鳴をあげる。

 めんどうなことになった。山田が手裏剣をしまいながら思う。女中の位置から徳永の死体は見えていないが、気がつくのも時間の問題だろう。気づかれぬうちに立ち去るつもりだったのに。この状況では自分が殺したことになってしまう。

 女中の悲鳴を聞きつけた侍たちが駆けでてきた。奉公所には似つかわしくない風体の侍たち。やはり、ここはただの奉公所ではないらしい。

「どうした?」侍が地べたに這いつくばっている女中にたずねると、女中は震えながら山田がでてきた部屋の入り口を指した。しかし、そこに山田の姿はなかった。


 雷蔵が庭を駆けていると、後方から男たちの喧騒が聞こえてきた。

 徳永の死体が見つかったのだろう。 

 佐助を助けようと家主の部屋に向かった雷蔵は男がでてきたのに気づき、とっさに身を潜めた。一瞬、徳永がでてきたのかと思ったが、その人相は事前に知らされていたものとは遠く離れたものだった。鼻筋が通ったやや面長な顔に申し訳程度に生えている顎髭。二十代後半と思われるその男は太った中年男と聞かされていた徳永ではないとすぐにわかったが、雷蔵は男が手に巻物を握っているのを見逃さなかった。聞かされていた家紋が巻物に記されていたので雷蔵たちが求めているものに間違いはない。

 一体、なにがあったのだろうか。男は何者だろうか、戸惑いながらも雷蔵は男が持っている巻物を奪おうと決意した。雷蔵がそっと駆けだす。けはいを消し、できるだけ空気に同化するように……。

 男の呼吸に合わせて近づいた雷蔵は、やすやすと男から巻物を奪うことができた。巻物を手に入れた雷蔵が加速しようとしたとき、頭から血を流して倒れている男が部屋の中にいるのを視界で捕らえた。おそらく、彼が徳永だろう。

 そう思った瞬間、雷蔵は背後にとてつもない殺気を感じた。いままでに感じたことのないものだ。

振り返ったら殺される。そう思った雷蔵は身を屈め、加速した。そのまま雷蔵は庭へとでたが、男が追いかけてくるけはいはなかった。どうやら逃げ切れたらしい。

 そのとき、後方から男たちの喧騒が聞こえてきたのだ。

 佐助は無事だろうか。雷蔵がそう思っていると、佐助が前方から合流してきた。

「どうしたんだよ」雷蔵が声を潜ませながらたずねる。

「侵入したのがバレた」

「バレた?」

 驚きのあまり声をあげた雷蔵を佐助がいさめる。「たぶん、俺たちと同じだぜ」

「同じ?」

「忍びだよ」

 佐助の言葉に雷蔵が驚く。彼は忍びだったのか……。自分たち以外にも忍びがいるのか。いままでほかの忍びに接触したことのなかった雷蔵にとって、自分たち以外にも忍びがいるというのは衝撃だった。

「巻物、手に入れられなかった」

「それなら心配ない」雷蔵は佐助に強奪した巻物を見せた。

「どうしたんだよ、それ!」

「男から奪ったんだよ」

「男? ……忍びのことか?」

「たぶん」

「どんな男だった?」

「わからない。一瞬、顔を見ただけだったから。二十代後半の髭を生やした男というぐらいしか……。佐助は顔を見たのか?」

「いや。相手は床の上だったからな。ただ、相当のやり手だぜ。あんな殺気初めて感じた。……オレ、本当に殺されると思ったよ」

「……俺もだよ。……お互い、よく無事に戻ってこれたな」

「無事じゃないさ」

「え?」

「刺されたよ」

「刺された?」雷蔵が声を荒げる。

「まぁ、刺したのは徳永だがな」佐助が雷蔵に背中を向ける。佐助が背負っている刀さやにはわずかだが傷がついていた。「これがなかったら、助からなかったな」

 体中のありとあらゆるところに、防具を忍ばせるよう勝憲に教え込まれていた雷蔵たちは、刀のさやでさえも防具として活用していた。床下に潜り込むときは必ずさやが上面に向かうようにするのだ。そうすれば床上から攻撃されたときも防ぐことができる。

 さやを見た雷蔵がほっとため息をつく。今回は完全に師匠の教えさまさまだ。

「いたぞ! あそこだ!」雷蔵たちが馬銭子入りの焼飯を食べて転がっている犬のそばを駆けていると、後方から侍たちが追いかけてきた。

 侍の一人や二人、雷蔵と佐助の手にかかればぞうさもないことだったが、戦うのは得策ではない。忍びである雷蔵たちにとっては勝つことよりも逃げることのほうが重要なのだ。仮に侍たちを一網打尽にしても、侍たちを一網打尽にできるという実力があるという情報を相手に教えることになってしまう。わからないというのは恐怖だ。下手に相手に情報を教えてやる義理はない。

「くそっ」佐助が舌打ちをする。

 雷蔵が佐助の視線の先を見ると、侍たちは前方からもやってきていた。はさみうちだ。佐助はすぐさま進行方向を変え、塀に向かって駆けだした。

「お、おい!」雷蔵も戸惑いながら佐助の後に続く。

 塀が迫ってくると、佐助は刀に結ばれたひも、下げ緒を口にくわえて忍び刀を壁に投げやった。

 刀を足がかりに、華麗に塀の上に登った佐助に続き、雷蔵も刀を足がかりにして飛び上がる。塀を掴んだ雷蔵は体を引き上げようとしたが、追ってきた侍に足を掴まれてしまった。

「逃がさんぞ!」侍が雷蔵の体を引きずり下ろそうと足をつかむ。

「くそっ!」雷蔵が侍を蹴り払おうとしたとき、侍の額から血しぶきがあがった。侍の顔面に手裏剣が突き刺さったのだ。侍は額から血を吹きだしたまま倒れていった。雷蔵が顔を上げると手裏剣を投げた佐助が侍を睨んでいた。佐助の顔は侍の返り血で汚れていた。

 雷蔵の視線に気づいた佐助が血をぬぐいながら怒鳴る。

「早くしろ!」

「……すまない」我に返った雷蔵が謝りながら体を塀に上げる。

 雷蔵が塀に登るやいなや、佐助が下げ緒を引いて刀を手元に引き寄せる。

「ま、待て!」佐助の刀を足がかりに塀に登ろうと追いかけてきた侍たちが、いきおいのまま壁にぶつかった。「外に回れ!」

「行くぞ!」佐助は雷蔵に声をかけたが、雷蔵の視線は死んだ侍にそそがれていた。

 この侍は自分が原因で死んだんだ……。雷蔵がそう思っていると、佐助が雷蔵の胸ぐらを掴んだ。

「……追いてくぞ」 

 雷蔵が息を呑む。「……悪い」

 雷蔵は佐助の後を追って塀を降りた。

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