278区 『澤野 聖香』
「君、大丈夫かね」
「こちら、観察車。桂水高校の選手が残り一キロ地点で意識朦朧となって倒れました」
「とにかく選手の安全を最優先で」
「これはもう無理だろう。救急車を大至急呼んで!」
多くの人の声が同時に聞こえて来る。
沿道の声援ではない。
車道の方からだ。
ああ、そっか。
倒れたから、役員の人が駆け寄って来たのか。
このまま私の高校生活最後の駅伝が終わってしまうのか……。
途中棄権なんて、人生初めての経験だ……。
さっきまで、負けてはダメだと思っていたが、心の中の糸が全て切れたせいで、あっさりとこの状況を受け入れようとしていた。
うつ伏せに倒れた私の視界に自分の腕が映る。
自分でもビックリするくらい、腕が真っ白だった。
すっかり血の気がなくなっていた。
役員の人が私の側へと近づいてくる。
ふと、役員に触られた時点で、選手は失格になってしまうことを思い出す。
私の腕を触ろうとしたのだろう。
役員の人の手が、私の視界に入る。
言い方を変えるなら、それは、私が失格となるほんの一瞬前のことだった。
「聖香起きて! 負けちゃだめ! まだレースは終わってない! 都大路走るんでしょ!」
私にはその声がはっきりと聞こえた。
晴美? 確かに今、晴美の声が聞こえた。
そんな馬鹿な。だって晴美は今年の夏に交通事故で……。
でも今の声は確かに晴美の声だった。
空耳なんかじゃない。
あまりにも大きな声に、私に近付いて来た役員も手を引っ込め、身を引いたのが分かった。
「お願い聖香! 起きて!」
また晴美の声が聞こえる。
そうだ。私は晴美と約束したんだ。都大路に絶対行くと。
昨日、出発前にも晴美のお墓に行って、頑張って来ると誓ったのに……。
何をやっているんだろう私……こんな所で倒れて……。
「とにかく、この子に毛布でも掛けてあげ……」
役員の声が耳に入るのと同時だった。
「さわらないで! 私はまだ……終わってなんかいない!!」
大声で叫び、フラフラになりながらも私は立ち上がる。
自分自身、この状態でよくもこんなにも大きな声が出るもんだと思った。
大きく息を吐きながら一歩踏み出す。
役員の人も私に近付こうとはせず、じっと私を見守っていた。
脚の感覚はやはりなかった。
それでも、このまま終わるわけにはいかない。
晴美と約束したんだ。
それに、ここで棄権してしまったら、みんなが託してくれた思いが無駄になる。
一昨年葵先輩が言っていた。
未来に繋がる走りをしようと。
私が辞めてしまったら、未来へと繋がらなくなってしまう。
このままでは終われない。
みんなの思いをゴールまで届けなくては。
また一歩踏み出しながら、その思いを確認するため、タスキをギュッと握る。
握ると同時に、左手に激痛が走る。
思わず、手を離しタスキを見る。
そこには、昨日のミーティングの時に永野先生が安全ピンで付けた喪章が付いていた。
私が倒れた時に、針が先端の金具から外れたらしく、むき出しになっていた。
どうやら、その針を私は握ってしまったようだ。
針の痛みが刺激となって朦朧としていた意識が戻って来る。
私はもう一度、その針をギュッと握る。
今度は先ほどよりも力を込めて握ったせいで、さらに強い痛みに襲われる。
針が刺さった所を始点として、体の隅々に電気のような衝撃と熱が走る。
その直後、着地した左足からアスファルトの感触が伝わって来る。
その左足を蹴ると、地面を離れる感触と同時に、筋肉の動きが伝わって来る。
脚の感覚が戻って来たようだ。
まるで、晴美が私に力をくれたような気がした。
と、私は今年の夏合宿のことを思い出した。
「私の声が聞こえたら合図してね」
晴美はあの時そう言っていた。
「晴美、ありがとう。ちゃんと応援聞こえたよ」
息を思いっ切り吐き出すように私は独り言をつぶやき、晴美と約束したとおり、左手で小さくガッツポーズを作る。
思いっきり息を吐いた分、体に大量の酸素が入って来るのを感じる。
それが体中に行き渡ると、落ち着きを取り戻すことが出来た。
落ち着いた分、視界が広がったのだろう。私はあることに気付く。
えいりんの背中が、まだ見える位置にあった。
えいりんがスッと前に出て、私が倒れ、こうして走り出すまでかなりの時間が経ってしまったと思っていた。
だが、実際にはそんなに時間は経っていなかったと言うことか。
意識が朦朧としていたせいで、錯覚を起こしていたのかもしれない。
「桂水高校頑張れ~!」
「諦めないで~」
「頑張れ、前と22秒差だぞ」
沿道の声援が次々と耳に入って来る。
22秒差。
確かに、背中が見える位置にえいりんはいるが、ラスト1キロの時点で22秒差はかなり厳しい差だ。正直、追いつくのは不可能に近い。
と、私の心の中で、1年生の時に見た永野先生の都大路の走りが蘇る。
当時の永野先生は55秒差を5キロでひっくり返した。
1キロに換算すると11秒。
永野先生の走りを見た後、私が高校3年生になった時に、あんなにもすごい走りが出来るだろうかと疑問に思った。
もしも、私がここからえいりんを追い越したら、永野先生の走りを越えることになるのだろうか。
でも、それは誰が認めてくれるのだろう。
私自身? それとも永野先生?
「まぁ、それは勝ってから考えよう」
心の中で笑いながら自分に言い聞かせ、気持ちを切り替える。
かなりのタイム差があるのも事実だが、相手が前に見えるのは大助かりだ。
なによりもモチベーションが違う。
もう、駆け引きなんて一切必要ない。
自分の持っているすべてを出し切り、ひたすらえいりんを追うのみだ。
私は、肉食動物が獲物を見つけた時のごとく、キッとえいりんを見つめ目標を定める。
そして、狩りを開始するかのように、一気にスパートをかけた。
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