277区 限界

「そもそも、この風はどこまで吹いてるの?」

「橋を渡り終えたら止んでくるの?」

「もしゴールまでこのままだったら……」

「そもそも、体力を削られた状態でえいりんに勝てるの?」


まるで津波のように負の感情が押し寄せてくる。




だめだ。

今ここで気持ちが切れたら走れなくなる。

なんとかしないといけない。

それは十分に分かっている。



ただ、この風に晒され続け、前に進むのも必死な上に、一歩進むごとに体から熱が奪われていく今の私には、もう気力がほとんど残っていなかった。


気力が抜けていっているせいか、それとも体が冷えているせいか、お腹に鈍い痛みを感じる。その痛みを誤魔化すように、私は右手でお腹をグッと抑える。


抑えると同時に冷たい感触がお腹に伝わった。


私は左肩から右側にタスキをかけており、お腹を押さえる時にタスキも一緒に抑えてしまったようだ。


タスキが汗でくっしょりと濡れており、そのせいでお腹に冷たい感触が伝わったようだ。そのせいで、余計にお腹が痛くなったような気がした。


良かれと思ってやったことが、身体的にはマイナスとなってしまう。


だが、精神的には大きなプラスだった。


タスキがこんなにも濡れているのは、私の汗だけではなく、ここまでタスキを繋いでくれた紘子、麻子、アリス、朋恵の汗も混ざっているからだ。も


ちろん、それぞれの思いも一緒に。


スタートした時に感じたそのことをこうして再認識出来ただけでも十分だ。


そうだ、今私は駅伝を走っているのだ。

タスキをとおして、みんなの思いと一緒に走っている。

けっして1人で走っているのではない。


私は右手でタスキを握ったまま、左手にぐっと力を籠め、思いっきり太ももを叩く。


パチンと大きな音が私の耳に入る。

それと同時に、太ももに鈍い痛みが走る。

その痛みで自分の気持ちが冷静になる。


まだレースは終わっていない。

焦ったら絶対にダメだ。

もうすぐラスト1キロ。

ここからが本当の勝負だ。


心の中で、自分に言い聞かせ、気持ちを一度落ち着かせようと、大きく深呼吸をし、腕をぶらぶらとさせる。


それと同時に、また強烈な突風が私の体にぶつかって来る。


この橋を渡り出して、一番強い風だ。


その風に晒され、体が一段と冷えた気がするが、心には小さな炎が点っているのが分かる。


後、20mで金魚橋を渡り終えるという所で、えいりんが私の左側に並んで来る。


やはり、えいりんは息を荒げることもなく、淡々と走っていた。


私とえいりんが並んだ状態で橋を渡り終える。

橋を抜けると同時に風が一気に弱まった。

どうやら、風は橋の上だけ吹いていたようだ。


風が止めば冷えた身体も徐々に温まって来るだろうし、えいりんに有利な状況もなくなるだろう。


とにかく、ここから仕切り直しだ。


私は様子を伺おうと、横に並ぶえいりんをちらっと見る。


と、えいりんと眼が合った。えいりんも私のことを見ようとしていたようだ。


眼が合うと同時に、えいりんがニコッと笑う。


その笑みを見た瞬間。私は一瞬自分がえいりんと競っているのを忘れてしまいそうになった。突然、親友として一緒に出掛けた時のような表情をえいりんが見せたからだ。


その笑顔の口元が動く。

「楽しかったよ、さわのん」

えいりんはそう呟くと、スッと私の前に出る。


まるで、ここで前に出るのが遥か前から決まっていたかのように、その動きはあまりにも自然だった。


だからこそ、私の反応が遅れてしまったのだ。


とっさに私は我に返る。

ここで、えいりんを前に出すわけにはいかない。

私もスッとペースをあげ、えいりんに並ぼうと……したのだが……。



私の思いとは違い、体がまったく動いてくれなかった。

金魚橋を渡る間中、冷たいに風に晒されたせいで、体が固まってしまったのだ。


それとは反対に、えいりんはスッと前に出られたということは、やはり私を風よけに使った効果は絶大だったっと言うことか。


その事実が私を否が応にも焦らせる。


自分の呼吸がどんどん粗くなっていくのが分かる。呼吸を落ち着かせようと、深呼吸をしようとするが、上手く空気が吸えずに呼吸困難になりかける。


とにかく、えいりんを追わなくては。呼吸困難になりながらも、必死で体を動かす。


前に進もうとすればするほど、自分の体が止まって行くような錯覚に襲われる。


まるで、夢の中で走ろうとしているのにまったく進まない時のような感じだ。


焦れば焦るほど、呼吸はどんどんと乱れて行く。


自分の体から、冷や汗が流れ始めているのが分かる。

その冷や汗が、金魚橋を渡る時以上に体を冷やしていくような気がした。


前に進みたいのに進めない。

確かに地面は蹴っているはずなのに。


と、私はあることに気付く。


地面を蹴っているはずなのに、その感触がしないのだ。

と言うより、脚の感覚がまったくない。

なんだか、体がフワフワとしている。


それに、進んでいるつもりでいるのに、フラフラと蛇行し始めていた。


明らかに体に異変が起きている。

でも、前を追わないと……。


「大丈夫! まだ走れる! えいりんに離されたダメ! ここまでみんなが頑張って来てくれたのに! 都大路に行くって約束したのに! 負けちゃダメ! 大丈夫、まだ体は動いてくれる! まずはえいりんに追いつかなきゃ! 絶対に負けちゃだめ!」


必死で自分にそう言い聞かせる。


でも、それは心の底から湧きあがる言葉ではなかった。


あきらかに私の中で、別の思いが湧き上がって来ている。

それを必死で抑えるように、言葉を被せているだけだ。


負けたくない。

だけど……。

このままだと、負けるかもしれない。




頭の中にその言葉が出て来ると同時に、全身の力が一気に抜けて行くのが分かった。




だめだ。

今ここで気持ちが切れたら走れなくなる。

なんとかしないといけない。

それは分かっている。


ただ、強風に晒され続け体力を奪われたうえに、脚の感覚までなくなっている私には、気力を湧きあがらせ、負の感情を払拭する力など残っていなかった。



今になって気付く。


金魚橋を渡る時、えいりんが私を強風に晒させたのは、体力を削るだけではなく、私の心も折るつもりだったのだろう。


スッと私の前に出る時に笑顔を見せたのも、きっと私がこうなることが分かっていたのだろう。


あの笑顔は、えいりんの勝利宣言だったのだ。


今の状況が悔しくて涙が溢れて来る。

頑張らないといけない。

まだレースは終わってないのに……。


でも、私の気持ちは限界に達していた。


昨年の駅伝は1秒差で敗れ、終わった後に悔しくて大泣きをした。


中学生の時も、不甲斐ないレースをした後に泣いてしまったことはある。

だが、走りながら泣いてしまったのは、これが初めてだ。



一歩進むごとに、心の中でプチプチと何かが切れる音が聞こえて来る。

きっとそれは、私の気持ちの糸が切れていく音なのだろう。



数歩進んだ後、最後の一本すら切れていくのを、私はハッキリと感じていた。



「ごめんね……みんな」


 


呟くようにその言葉を発すると同時に、全身の力が抜け、私はその場に倒れてしまった。

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